2012年12月31日月曜日

1年でどれだけ挫折するつもり?――答え 上手くいくまで。

脳に損傷を負った患者が、日常語である英語をすっかり忘れてしまい、代わりに小さい頃少しだけ使っていたウェールズ語しか話せなくなる。ある種の失語症患者にこのような症例がみられたという。

脳血管症を患う患者には、失語であったり、言葉が十全に使いこなせない、といった症状が出ることがある。ここから導き出される結論としては、言語機能は脳の一部分に集まっているのではなく、右脳・左脳関係なく広範囲にまたがっていること、とりわけ新たな言語を学ぶことは、脳のまったく新しい分野を開拓することでもある、と言える。

もちろん、だからといって一度も勉強したことのない言語が突然喋れるようになることはない。だがもしかすると、新たな回路の発見で、これまでばらばらに点在していたものが偶然繋ぎ合わされ、後天的な言語能力が向上する、といったことがあるかもしれない。

必要なのは思考の跳躍だ。

12月31日、年末である。ご多分にもれず今年一年の振り返りをしていたのだが、まあ今年もいろんなことがあった。今日この時点から振り向くとあっという間に感じられるものが、手帳を見直してみると、一日一日が積み重なって一年の終わり、366日目が来ているのが確かめられる。

年末に仏検の試験用紙紛失事件があって、最悪な一年のように感じたが、3度目のフランス旅行だったり、結婚だったり、はじめて映画館に行ってそれから入り浸っていたり、10年ぶりに旧友と再会したり、新しい友達ができたり、それから職場内で異動があったり、とまあ良いも悪いも取り混ぜて、話題には事欠かない一年だったといえる。

で、まあこれまたご多分にもれず来年一年の目標、計画を立てていたのだが、まあなんというか、「どんだけ挫折する気なんだ」 と人様から心配されそうなスケジュールである。

試験関係だけのスケジュールをあえてここに乗せると、

6/9     DELF B2筆記試験
6/16   同口述試験
6/23   仏検1級1次試験
10月末  ケアマネ試験
11/10  DALF C1 筆記試験
11/24  仏検準1級1次試験、DALF C1 口述試験

上半期は目立って大きなことはないが、裏返せばそれだけ試験までの間隔が空いているということで、中だるみする気配がぷんぷんするし、10月のケアマネ試験から11月のDALF C1、仏検準1級の並びには、失敗の匂いしか嗅ぎとれない。そもそも、仏検準1級試験とDALF C1 の口述試験の日が被っている時点で、完全に死亡フラグだろう。

あくまで合格を目標に頑張るのだから、そのための方法を見つけ出さねばならないのだが、もしかするとこれまでのように、積み重ねる、という発想が間違っているのかもしれない。目の前にある一段一段に気を取られて、もっと楽な近道があるのに気付いてないのかもしれない

――そんな風にいろいろと考えて、一度引いて全体を見つめ直すのに、年末年始ってやつは最適だろう。大掃除の範囲は部屋だけじゃない。脳みそだって整理整頓が必要だ。

それでは、みなさん良いお年を。また来年お会いしましょう。

Au revoir et je vous souhaite une bonne et heureuse année !
2012年の初詣先。2013年もお世話になります。
 

2012年12月29日土曜日

20代の終わりと松井秀喜引退

今や引退して号外が出るプロ野球選手なんて、イチローと彼くらいだろう。

松井秀喜の名は、読売巨人軍の名前とともに、10代の頃から知っていたし、彼の存在がプロ野球そのものの代名詞でもあった時代が、確かにあった。

その点イチローは、オリックスブルーウェーブスという、パ・リーグの一不人気球団に在籍していたこともあって、そこまでの存在足り得なかった。これは選手としての格云々の話ではなく、私のような地方在住者がテレビで野球を見ようと思えば、巨人戦のみだった、という圧倒的な事実による。

さて、思い出はいつも個人的なものだ。それはしばしば一緒に体験した者同士のあいだでさえ、食い違いが生じる。

勝手なもので、私が松井秀喜という一プロ野球選手を思い出すとき、頭に浮かぶのは彼のプレーではなく、それを見ていた自分自身のことだ。

2003年当時、金沢に住んでいた私は、大学にも行かず日々無為に過ごしていた。そんな私も夕方5時から始まるテレビ金沢の番組内の一コーナー、「今日のマツイ」は欠かさず見ていた。きっとそれは外界と閉じこもった自分の部屋を繋ぐ、小さな窓だったのかもしれない。

特別野球が好きではなかった少年が、親の影響で少年野球団に入り、父や弟とキャッチボールをする。おそらく昭和から平成の初期まで、日本中で見られたありふれた光景の一部分を形成していた少年が、大きくなって再び野球に魅せられる。海の向こうのメジャーリーグに挑戦した、一人の礼儀正しい石川県人によって。彼はその出身地に移り住んだ天の邪鬼にとっても、素直に応援したくなる存在だった。

あれから10年が経ち、ヒデキ・マツイに勇気をもらった男は、当時目指していた夢を脇において、一応は真っ当な仕事につき、結婚もした。新しい目標もできたし、それに向かって日々頑張っている。

ヒデキ・マツイはMLBの世界から身を引いた。ちょうど私の30歳の誕生日の翌日に。

松井秀喜の引退。それはプロ野球にとって間違いなく、一つの時代の終わりを意味する。私にとってはそれが、20代の終わりとぴたりと重なることによって、特別な印になった。

そうだ、それは松井が日本プロ野球に身を置いた最後のシーズン、2002年シーズンの最後に五十嵐亮太から打った、第50号ホームランの軌道に似ている。その弾道は、引っ張りの多かったこれまでの松井のホームランとは一線を画す、左中間スタンド中段にぶち込まれた弾丸ライナーだった。

そうだ、当時テレビでそのホームランを目の当たりにした私は、新しく生まれ変わった松井秀喜、いや、ヒデキ・マツイを確かに認めたのだった。

そうだ、それは新しい門出、人生の節目を自ら祝う祝砲の一発だ…。

Au revoir et à bientôt !
ありがとう、松井秀喜。
 

2012年12月24日月曜日

打ち負かされること自体は、なにも恥じるべきことではない。

仏検準一級の試験結果が届いたのがおよそ一週間。ようやく自分の中で整理がついたので、ブログに現在の心境を残しておこうと。

表題からも推測される通り、今回もまた(3度目!)一次試験突破はならず。もっとも今回は実力不足以前に天災の要素が多分にあるのだけれど。

こんなことがありました。

私を含めた一般の人のブログはおろか、仏検を主催しているAPEFのホームページにさえ記載されていない。

以下のような文面が届いたのは12/15 の夜。これを読んだときはもう、ああ、全世界が私の敵なんだな、と確信したものだ。

西宮会場(関西学院大学)で準1級1次試験を受験された皆様へ

さる11月18日、西宮会場(関西学院大学)で行われた秋季1次試験終了後、採点のため同会場から仏検事務局に皆様の解答用紙が送付されましたが、事務局で確認したところ、準1級の書き取り・聞き取り試験の解答用紙が同梱されていないことが判明しました。直ちに調査を行い、解答用紙の回収に全力を尽くしましたが、発見には至らず、結論として、「準1級の書き取り・聞き取り試験終了後、回収された解答用紙が西宮会場の試験本部において使用済みの資材とともに誤って破棄された可能性が極めて高い」と申しあげざるを得ません。
(中略)前例のない事態に私どもとしても動揺しておりますが、試験運営に関わる一切の責任が当協会に帰することは申しあげるまでもありません。仏検審査委員会において対応を協議した結果、以下の措置を決定いたしましたのでお知らせいたします。

(1) 今季の準一級の検定料を全額返納
(2) 2次試験当日、面接試験に先立って書き取り・聞き取り試験のみによる再試験を実施

…どうだろうか?私はこの文章+1次試験結果(筆記のみ)を読んだとき、暴れた。いや、ありえへんやろ、と。完全に不祥事ですね、本当にありがとうございました。

一年間(いや、2年か)頑張ってやってきた結果をこんな風にむちゃくちゃにされて、心穏やかでいられる人がいるものなのか。いないだろう。いるとすればそいつはすでに死んでいる。

筆記試験の結果的には、合格の可能性もないではないが(それでも自己採点よりは7点低い 40/80で、受けたとしてもかなり厳しい)、とてもじゃないが再試験を受けようという気持ちにはなれなかった。もうね、これまで費やしてきた勉強時間がこんな風にダメになるなんて。試験に落ちているなら、それはそれでいい。しょうがないじゃない。できなかったところを見直して、また頑張るだけだから。しかし、こんな中途半端で自分ではどうしようもない結末は、ねえ?

こうなってくるとなにもかも他人のせいにしたくなる。だいたい、筆記が40点しか取れていない、ってのがおかしい。自己採点では47,8点。どう考えても和文仏訳の点数を低く見積もって、再試験受けさせないようにしてるだろ、とか。

――いや、認めよう。自分の実力不足だったと。勉強しても無理なもんは無理なんですよ。ここから先は環境に恵まれた人間だけが立ち入ることの許された領域で、私のような仕事をしながら学ぶ独学者はお呼びでないんだろう。これでもう、フランス語はすっぱりと諦めよう…。


そんなわけがないだろう。

今回は今の自分を奮い立たせるのにぴったりの名言、「ダレル・ロイヤルの手紙」の引用を。漫画『アイシールド21』の中でも使われていたのが印象的。

~ダレル・ロイヤルの手紙~
打ち負かされること自体は、なにも恥じるべきことではない。打ち負かされたまま、立ち上がろうとせずにいることが恥ずべきなのである。
ここに、数多くの人生での敗北を経験しながらも、その敗北から這い上がる勇気を持ち続けた、偉大な男の歴史を紹介しよう。

1832年 失業
832年 州議院選、落選
833年 事業倒産
834年 州議会議員当選
1835年 婚約者死去
1836年 神経衰弱
1838年 州議会議長落選
1845年 下院議員指名投票、敗北
1846年 下院議員当選
1848年 下院議員再選失敗
1849年 国土庁調査官を拒否される
1854年 上院議員落選
1856年 副大統領指名投票敗北
1858年 上院議員、再度落選

...そして1860年 、エイブラハム リンカーンは第十六代 アメリカ合衆国大統領に選出された。

諸君等も三軍でシーズンを迎え、六軍でシーズンを終えるかも知れない。或いは一軍で始まり、四軍で終わるかもしれない。諸君等が常に自分に問うべき事は、打ちのめされた後、自分は何をしようとしているのか?ということである。 不平を言って自分を情けなく思うのか、それとも闘志を燃やし再び立ち向かって行くのか、という事である。 今秋、フィールドでプレーする諸君等の誰もが、必ず一度や二度の屈辱を味わされるだろう。 今まで打ちのめされたことがない選手など、存在しない。ただし、一流の選手はあらゆる努力を払い速やかに立ち上がろうと努める、並の選手は少しばかり立ち上がるのが遅い、そして敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである。

さて、今日も頑張ろうか。 

なにを? ――もちろん、フランス語さ。

Au revoir et à bientôt !
リンカーン。Wiki より拝借。
 

2012年12月23日日曜日

月刊、なんて言わずに全集

去年の12月には『月刊 万有引力』と銘打って、シュペルヴィエルの詩集の翻訳をしていたものだが、今年はなにやら忙しさにかまけて、うやむやに終わってしまいそうだ。
 
そこで今日は、Gallimard 社から発行されている Bibliothèque de la pléiade / プレイヤード叢書 に収められているシュペルヴィエル全詩集を少し紹介しよう。
 
そもそもプレイヤード叢書とはなにか。まずそこからはじめよう。
 
一言でいってしまえばそれは、「世界文学名作全集」である。国籍を問わず優れた作家はすべて、この叢書に収められているといってもあながち過言ではない。
 
もちろんフランス語に翻訳されている、という制約は付きまとうが、それでも作家としてこのシリーズに名を連ねることは、アカデミーフランセーズ会員になることより名誉であると言え、また、ノーベル文学賞?たかが一ダイナマイト技術者の作った賞なんていらないね――なんて一笑に付すことだってできる(かもしれない)。
 
この叢書は翻訳の際に底本として使われることも多い。それはこれがしばしば死後確定された決定稿としての扱いを受けていることを意味するとともに、異同のある別稿の有無についても触れている点において他を凌駕しているからでもある。
 
さて、シュペルヴィエルの全詩集にざっと目を通すと、このシリーズの面白さがよくわかる。
 
ひとつひとつの詩に解釈が付けられ、巻末にある索引を使えば、同名の詩の存在や類似したテーマの詩を調べることができる(Offrande / 贈り物 と題された詩を生涯にいくつ書いているか、君は知っていますか?)。
 
つまりは作者の持つ語彙の幅や嗜好をよりよく知ることができるツールなわけだ。
 
まあ、ここまで書いていうのもなんですけど、この前自分の誕生祝いとして購入し、その勢いのまま嬉しげにこのブログを書いた、というわけ。
要は自慢したかっただけだろう?――そうですが、なにか?
 
Au revoir et à bientôt !

写真編集ツールを使用してみた。

2012年12月19日水曜日

はなくそまんきんたんで10を数えて

だるまさんがころんだ、だるまさんがころんだ…

今となっては不思議なくらい、子供の頃は数を数えてばかりいた。缶けりやかくれんぼ、鬼の目から逃れるにはいつもある程度の時間を必要とした。遊戯には常に数える行為がついて回った。

ただ数えるだけではゲイがないと、流行っていたのが上記のようなちょっとひねった数え方。「だるまさんがころんだ」はちょうど10文字。これを10回繰り返せば自然と100を数えたことになる。早口言葉のような面白さとリズム感が、「数える」という単調な動作を、遊戯に変えていたように思う。

我が家では、もっぱら「はなくそまんきんたん」が使われたものだ。もちろんこれも10文字。だるまさんと同様の理由に加えて、「はなくそ」の下品さと「まんきんたん」の意味不明さが混ざり合っており、まさしく子供心をくすぐる単語だったのは間違いない。

さて、大人になって子供の頃なにげなく使っていた言葉の意味がわかる、ということがあって、この言葉もそのひとつの体験だった。

越中富山の反魂丹
鼻くそ丸めて万金丹
それを飲むやつあんぽんたん

これらの語句を小気味よく繰り返す老婆との出会いがきっかけだった。

意味はそう、薬に対する不信感を歌ったもののようだが、実は最初、この歌を聞いたときに幼いころの数え言葉との関連は得られなかった。私にとってそれだけ、「はなくそまんきんたん」が独立した言葉であった、ともいえる。

本当の意味など、どうでもいいのだ。大事なことは、自分が幼少時に使っていた語彙の保持と、その効果の持続だから。

「はなくそまんきんたん」。それは物事を動かす魔法の言葉。遊戯の開始を告げるのはいつもこの言葉だった。同時にそれは、やり直しの呪文でもある。
もちろん、ここには現在からの意図的な歪曲が存在する。むしろそうであるがゆえに、わたしは今もこの言葉を呟いて、一度すべてをリセットし、新たにやり直す気になっているのだ。

はなくそまんきんたんと10数えて、さあ、一からやり直そう。

Au revoir et à bientôt !
 

2012年12月13日木曜日

Retour au Japon / 愛だって?ただの無知だろう


10/12 15:35 Paris L'aeroport de Charles de Gaulle - 10/13 15:35 関西国際空港着

「夜にはパリ郊外にある Stade de France で、サッカー日本代表のおよそ9年ぶりとなる対フランス戦親善試合が行われるというのに、今帰国の途に就こうとしている」
そう、書いたのは乗継地のドバイに向かう飛行機の中で、さて代表戦は内容はさておき 1-0 で日本の勝利に終り、私は無事日本に戻って早二ヶ月が経とうというのに、このブログの旅行記は未だ、明確な着地点を見いだせていない。

うん、もういいだろう。旅は終わった。そう認めることも必要だ。フランスに行っていたのは過去の話で、今は毎日職場に向かい、同じようなルーティンワークを日々こなしているところだ、と。おそらく今後は、フランスに行く機会もそうそうないだろう。二十代の終わりは同時に、夢の終わりでもあるのだろうか。

フランス語の勉強を最初に始めたのは21歳の頃で、考えてみるとそれからもうすぐ10年が経とうとしている。もちろんその間ずっと勉強していたわけではなく、25歳すぎるまでは基礎をやっただけで、ほとんど手をつけていなかったから、まともに勉強をしているのはこの5年ということになる。

その間にフランスには3度行き、通算で30日ほど滞在していた。

はじめてフランスに行ったときは見るものすべてが新鮮で、衝撃的だった。私にとってそれがはじめての異文化体験だったのだから無理もない。とにかくなにもかもが日本とは違い、そしてその違いが素晴らしく思えたものだ。

二度三度と行くに従い、嫌なところも見えてきた。日本の良さもわかってきた。以前は、「こんな国」と思っていたが、今では、まあ日本も悪くない、と思えるようになってきた。なにより飯がうまい。

だからといって、「生まれ変わっても日本人になりたいか?」 という問いに安易に「はい」と答えるほど、愛着がある、いや、無知ではないつもりだ。
 
「86.4%の人が生まれ変わっても日本人になりたい」URl:http://article.home-plaza.jp/article/trend/111/

実際には「今あなたが国籍を選ぶとしたら日本を選びますか?」という問いと同義のこの質問。これだけ見れば日本人の日本への愛情が伺えるが、裏を返せば他の国に対する無関心が表明されているともいえる。

この調査の一番の問題点は、おそらく調査の対象となった多くの人が、他の国を愛せるほど十分に知っていない、ことだろう。知らない国の国籍をとる?ごめん、そんな無茶が通用するのは笑い話としてだけだ。

カッコよくいえば愛には二種類の要因があり、ひとつは無知、もうひとつは熟知だ。前者は憧れと変換され、後者はときどき惰性といわれることもある。

ここでカギとなる単語は「それでも」だ。

たとえば君の彼女が他の子と較べて顔が悪いとか、おっぱいが小さいとか、私服がダサいとか、いろいろあるとしても、それでも、その子と一緒にいるのは、惰性ではなく、まごうことなき愛情だ。

周りも見ずに、良いところだけを称揚するのは愛ではない。他と比較し良いところは素直に褒め、悪いところを認める。それでもいいといえるのが愛だろう。

日本国の隅々まで行き渡った利便性は世界の他のどの国に行っても手に入れることはできないだろう。しかしそれが、歴史性や他のなにかと引き換えに得ているものであることは、おそらく外に出なければわからない。他の国と比較し、自国の良い点・悪い点を客観視して、それでもなお、日本が良い、といえる人がたくさんいるとしたら、日本は本当に素晴らしい国だといえるのだろう。

さあ、私も日本に戻ってジタバタしようか。

Au revoir, et à bientôt !
グッバイ、ドバイ。
 

2012年12月11日火曜日

嘘つきの恋

イェーツ?知ってるよ。詩人だろ?

と私も思ったのだが、今回はまったくの別人、Richard Yates / リチャード・イェーツについて紹介したい(ちなみに詩人のほうは、William Butler Yeats / ウィリアム・バトラー・イェイツ。1923年にノーベル文学賞も受賞している。日本では岩波文庫から対訳詩集が出ているので、それを読むことをお勧めする)。

Richard Yates / リチャード・イェーツ(1926-1992)。3歳のときに両親が離婚。高校の頃からジャーナリスト志望で、高校卒業後は軍隊に入隊、第二次世界大戦に従軍する。1946年、ニューヨークに戻りジャーナリストとして活動を開始。ゴーストライターとして、ロバート・ケネディ司法長官のスピーチ原稿を書いたりもしたらしい。

文学界に現れるのは1961年の『Revolutionary Road  / La fenêtre panoramique(仏題)』によって。この作品、サム・メンデス監督の下、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットのタイタニックコンビで2008年に映画化されている。ケイト・ウィンスレットはこの作品で、第66回ゴールデングローブ賞主演女優賞 (ドラマ部門を)受賞。

生前彼の小説は、批評家からは絶賛されるものの、世間からはほとんど無視された状態だった。評価され出したのは死後のことで、Stewart O'Nan が1999年、Boston Review に寄稿した"The Lost World of Richard Yates: How the great writer of the Age of Anxiety disappeared from print" が再評価の始まりである。
 ここまでWikipedia(fr)から抄訳。URL: http://fr.wikipedia.org/wiki/Richard_Yates_(auteur)

略歴を見ると同世代の作家、レイモンド・カーヴァーの影がまとわりついて離れないが、まあそれはいいだろう。一日に煙草4箱を吸うヘビースモーカーであり、アルコール中毒であった彼が書いた作品の登場人物にはいつも、敗北者の雰囲気がまとわりついている。儚く散った幻や中途半端に終わった宿命、上手くいかない人生に諦めてしまった野心…。

過去は苦く、未来はどんずまり。そんな冴えない人物が主人公の小説が、面白くないわけがないだろう。

人生には失敗と断念と、そして苦しみしかない。そう語りかけてくる彼の小説はホッパーの絵を思い出させる。人々はカップルだったり、集まっていたりするのに、どこかいつも寂しげだ。イェーツは絵の中に、ウィスキーの瓶を付け加える。飲まずにはいられないのだ。

これは人生の敗残者の物語だ。そして彼の失敗は取り返しがつかない。おそらく作者自身の生が色濃く投影されているのだろう。それはただひたすらに、苦い。

これが飲まずにいられるかい?
Au revoir et a bientot !
『夜更かしの人々
 
 
<注>今回のブログの内容のほとんどは上記参照サイトの翻訳に過ぎないことをここでお断りしておく。これは1981年発表の« Liars in Love » のフランス語訳 "Menteurs amoureux" 発売に合わせた記事である。現時点でRichard Yates の小説の邦訳はなく、Wikipedia の記事も日本語版は存在しない。私個人としては近いうちにフランス語で読んで、感想をかければと考えている。


2012年12月8日土曜日

愛は地球を救う、なんて嘘よりも

煙草を吸うのはカッコいい。そんな時代は終わった。

煙草を取り巻く状況は年々厳しくなっており、喫煙者たちは日々世界の片隅へ追いやられている。この傾向は他の国(特に先進国)でも変わらない。フランスでは今年10月、煙草の値段が7.6%引き上げられたばかりだ。
(フランスにおける煙草1箱の値段の変遷についてはこのサイトを参照。約20年で煙草の値段は4倍以上に引き上げられている。URL: http://www.tarif-tabac.com/statistiques_tabac

私は煙草を吸わないが、現代の嫌煙ブーム、ひいては健康志向は少し行き過ぎている、と思わないでもない。煙草を吸う人、吸わない人それぞれがお互いに配慮し、快適に過ごすことができれば、これ以上公共の場から喫煙スペースを減らし、愛煙家に肩身の狭い思いをさせる必要もないだろう。

身体に悪い?そんな考えはドブに捨ててしまおう。毎年煙草の害で亡くなる以上に多くの人が、自ら命を断っている。もし自殺を決意した一人の男が、最後に吸った一本の煙草でその決断を翻すのなら、それはどんな薬よりも有用ではないか?

こんな意見をオーストラリアで表明しようものなら、異端尋問にかけられるかもしれない。同国では先日、「すべての煙草のパッケージを同一のものとする」法律が施行された。

フランスのニュースサイトRFIによると、
une loi qui oblige dorénavant tous les paquets de cigarettes vendus en Australie à être identiques : c'est-à-dire dans un emballage d'une couleur vert olive sombre, recouvert d'avertissements sur les dangers du tabac, avec des photos chocs de malades. Et ce, quelle que soit la marque, car seul le nom des cigarettes pourra changer.
オーストラリアで販売されるすべての煙草は同一のパッケージでなければならない。暗いオリーブグリーンをベースに、喫煙の危険性を警告した文章、肺がん患者のショッキングな写真つき。唯一ブランド名だけが変更可能…というもの。

まったく、喫煙者でなくとも「どうかしてるぜ!」と言いたくなるだろう。君が昨日買った豚肉に、その豚の成長過程の写真や趣味・特技が書かれていたら、あまりいい気はしないだろう。誰だってそうだ。私だってそうだ。

巷では喫煙者にとって嫌なニュースばかりが流れ、白眼視され、精神的に追い詰められ、ひいては死に至る、なんてことのないように、私が処方箋を用意しよう。

メキシコの研究者が発表したところによると、鳥たちは煙草の吸殻を巣作りの材料にしているらしい。吸い殻が鳥のヒナたちを害虫から守るからだという。これは煙草に含まれるニコチンが蚤や虱に対し効果があるからで、スズメのように市街地に住む鳥がよく使用している。もとよりある種の鳥たちは芳香性のある素材を好んでいたようで、吸い殻は殺虫剤の一種として鳥たちの間で知られていた。

これを読んでよし、"Fumer sauve les oiseaux / 喫煙は鳥たちを救う" を煙草のパッケージにしよう、と考えたのはどうやら私だけではないらしく、すぐ後に研究者自身、「スズメを救うために肺をダメにするには及ばない」と断言している。

しかしながらこの研究報告による限り、愛よりも吸い殻のほうが間違いなく鳥たちを救っているわけで、このニュースを喫煙者が読めば、多少は心安らかに煙草を吸うことができるのではないだろうか。調子に乗って、オーストラリアの法律に対抗して、上記のスローガンと一緒にスズメの写真を配した煙草ケースを販売してはどうだろう?あるいは喫煙所の目印として、鳥の巣を模したものを採用するのはどうだ?――どうも今の日本では顰蹙をかうだけで終わりそうだ。

喫煙を擁護することはもはやタブーのようになっているが、それでもこういったユーモア、寛大さこそが、喫煙者と被喫煙者がお互い気持良く生きていくための、最上の解決策だと思うのですが、どうでしょうかね?

Au revoir et à bientôt !
最近スズメってあまり見なくなりましたよね?これも禁煙の影響?――それは、言い過ぎ。
 


2012年12月2日日曜日

Louvre 別館号 金沢 - SANAA - ランス

もう少しだけ、ルーヴル美術館の話をしよう。

12月4日、ルーヴル美術館の別館がフランス北部の炭鉱都市、 Lens / ランスの街に誕生する(一般開放は12日から)。

この分館にいわゆる常設作品はなく、パリの本館から借りだす形をとるようだ。ジョルジュ・ドゥ・ラトゥールやフラゴナールといった面々の他にもなんと、フランス革命の精神をそのまま描き出したといえる、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』までもが貸与されるという。これは、事件だ。

最初の構想が練られたのは今から約10年前の2003年。当時の文化相 Jean-Jacques Aillagon が首都パリに一極集中した諸機能を地方に移譲する政策の一環として発表。当時は7つ(後に6つ)あった候補地の中から最終的にランスが選ばれたのが2004年。

2005年にはコンペティションが実施される。このコンペで見事優勝したのが日本の建築家ユニット、SANAA。Sejima and Nishizawa and Associates の略であり、妹島和世西沢立衛の二人からなる彼らは、金沢21世紀美術館の設計でも知られる。

21世紀美術館ができた当時、私は金沢に住んでいて、街のど真ん中にできた円形の美術館と、その集客力に大いに魅了されたものだ。

それから10年近く。その間に日本ではより東京一極化が進んだように思われる。毎年金沢には友人を訪ねているが、そのたびに閉店したまま埋まらない空き店舗が目についていた。

しばらく前から政治の上で「地方分権」は叫ばれているが、どうも当面実現しそうにない。今回の衆議院選でも、主要な議題でないのは明らかだ。

フランスもまた、ヨーロッパでは特に中央集権が顕著な国として知られている。それでも、ここ4年のあいだに3度フランスを訪れ、その都度地方都市の活気を肌で感じてきた。それには、中央に集められた権力の側が、たとえ上からにせよ、その権力を委譲しようと積極的な働きかけを行ったからに他ならないだろう。Louvres-Lens はその最たる例といえる。

政治家はよく、「日本再生」などと声高に唱えるが、それには東京だけが繁栄し、地方は衰退する一方の今の形が好ましくないのは自明だろう。今回のルーヴルの取り組みも、政府主導で行って、実現までに10年を費やしている。日本で似たようなニュースが紙面を賑わすことになるのは、果たして何年後の話だろう?

Au revoir et à bientôt !

Le public défile devant "La République guidant le peuple" de Delacoix au Louvre Lens
© PHILIPPE HUGUEN / AFP
 
 

2012年11月30日金曜日

Louvre 拡大号 長編小説の中の短編を読む

ルーヴルのような巨大美術館は、譬えるなら長編(大河)小説に似ている。長編小説においては、全体をまとめ上げる一本の筋があって、それに乗っかった形で、数々の雑多なエピソードが繰り広げられる。読者はその大筋を辿っていくのもよし、一つ一つのエピソードを、短編小説のように拾い読みしても構わない。

美術館において、観賞者はより能動的な役割が求められる。時間軸と地理的軸を組み合わせた文化的背景の上に、様々なテーマを持って物語の軌道を描くのは、ほかならぬ観賞者の役目だ。時代が示す大筋はあまりにも漠然としており、美術史を学んだものでなければ、すぐに見失ってしまう。「ロココ美術」、「マニエリスム美術」なんて括りに、いったいどれだけの拘束力があるだろう。

大事なのは、自分で定める制約だ。「テーマ」と言い換えれはより正確になる。自由に歩き回るにしても、道標は必要だ。地図は自分で作って、自分で迷え。それが巨大美術館の持つ寛容さだ。

たとえば「裸婦像」をテーマにして回ってみよう。およそこれほど古今東西にわたって好んで取り上げられたテーマも少ない。時代ごと、土地ごとに異なるエロティシズムを感じることは、裸婦像が共通して有する「豊饒さ」にしっかりと繋がっている。

レンブラント。『夜警』の印象が強い。
あるいは時代を横切ってみるのもいいだろう。16世紀、イタリアではルネッサンス / Re-naissance 、人間性の再生が歌われていたが、同時代のフランドルでそれは、自明の理だった。イタリア絵画を中心とした美術史の流れにおいて、フランドル絵画の先鋭生・特異性は際立っている。この土地では人間は昔から、あるがままの姿を持って捉えられている。時には、キリストさえもその位地まで下りてくるかのようだ。

もちろん、一人の画家に集中してみるのも面白い。それができるだけの物量がルーヴルにはある。

展示作品数 35000、収蔵作品数 445000、一年間の入場者数 8346421 (2010年) …。どの数字も圧倒的だ。これだけの物量が、時間、空間的な広がりを可能にする。様々な軌跡を描ける時空間に渡る距離。あえて言おう、それこそが巨大美術館の持つ最高の美徳なのだ。


さて、巨大美術館を長編小説に例えるなら、そこここの美術館で実施される企画展は、さながら短編小説だろう。

ここではなにより技巧が優先される。それは読者 / 鑑賞者の側に求められるものではなく、主催者の仕事だ。企画展は決して長編小説のダイジェスト版であってはならない。短編小説にはそれ特有の面白みがある。それを活かすために大事なのは、主催者が如何に上手に鑑賞者の軌道を定めるかだ。

その点、先日行った「大エルミタージュ美術館展」は失敗だった。所蔵作品中、時期・場所を特定せず満遍なく選び出したことで、どこに焦点を合わせていいかわからない企画展となっていた。確かに、作品を見に行く、というよりは美術館を見に行くようなもので、まるで顔見せ興行だった。まあ、それはそれでいいのかもしれない。

巨大美術館が元来有する美点からはあえて目を背けて、極東の島国の地方美術館の所蔵品と、舶来品の二流絵画との微細な差異を楽しむ、そんな頽廃的な楽しみ方も、ありだ。

Au revoir et à bientôt !
フェルメール。説明不要の名作だが、意外と地味に置かれている
...La prochaine destination ☛ Japon



2012年11月26日月曜日

サンディ島の謎を追え!

どうやってその集落は浮かんでいるんだろう?どこの船乗りが、どんな建築家の助けをかりて、大西洋のど真ん中、水深六千メートルの海上に、このようなものを建てたのか?

Jules Supervielle / ジュール・シュペルヴィエルの短編小説、"L'enfant de la haute mer / 沖合の少女" は、大西洋の孤島に一人住む、12歳の少女の物語だ。

これまで他の人間を見たことがない少女は、水平線上に船が現れると、猛烈な睡魔に襲われて寝入ってしまい、それとともに集落はその姿を波間に隠す。それゆえ船乗りは誰もその姿を見たことがない。だがある日、少女は船を見つけて…。というお話。

こんな風にあらかじめ、幻想小説の体をとっていれば、我々もすんなりと受け入れられるのだが、現実はそう、甘くない。

オーストラリアとフランス領ニューカレドニアとのほぼ中間、南太平洋上にあるとされているサンディ島(英:Sandy Island 仏:L'ile de Sable )Google Earth にもその存在が記載されているが、今月22日、オーストラリア地質学チーム「サザン・サーヴェイヤー(Southern Surveyor)」の調査過程で、実在しないことが明らかになった。

なんでもこの島、古くは1792年にはすでに文献に記載されていた、というから、この幻の島は200年以上も地図上に存在し続けたことになる。

もはや完全にシュペルヴィエルの世界だ。

島が作られたそもそもの理由が過失によるものなのか、あるいは意図的なものなのか、今となっては知る由がない。「あると信じられていたものが実は存在しない」という考えは、人間にとって実に馴染み深く、同時に畏怖の対象である。サルトルならそれを、「実存の孤独」と呼ぶだろう。シュペルヴィエルはそこに、他者との繋がりを見出す。

沖合の少女はどのように生まれたのか?

物語の最後に示される説明ではこうだ。少女は、四本マストの帆船アルディ号に乗っていた Charles Liévens というステーンヴォルド出身の水夫によって生み出された。彼は12歳の娘を亡くしており、航海中もたびたび彼女のことを思っていた。ある夜、ある場所で(ご丁寧にもシュペルヴィエルはそれが北緯55度、西経35度の位置だと指定する)、彼が亡くした娘をあまりにも強く、長く思い続けた結果、沖合の少女は生まれたのだ、と。少女はある人物の想像の産物なのだ。

さて、それではサンディ島はいったい、誰の想像の産物なのだろう?そして我々は?

Au revoir et à bientôt !
Google Map 上のサンディ島
 
*日本のニュースではあまり紹介されていない様子だが、Wikipedia 上に記事が存在する。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E5%B3%B6_(%E5%B9%BB%E5%B3%B6)

2012年11月22日木曜日

Sous la pluie / 雨の下で

L'ecole de loisir 社から青少年向けシリーズ、"Medium" の一冊として刊行されている本書。

著者は Olivier Adam / オリヴィエ・アダン。
1974年パリ郊外に生まれ、現在はブルターニュ地方に住んでいるフランスの若手作家。2004年には Passer l'hiver / 冬を越す でゴンクール短編小説賞を受賞。2006年に来日し、京都のヴィラ九条山に滞在していたが、日本語訳はまだなされていない。

それにしてもひどい話だ。

語り手の僕は学校でいじめられ、父親は20年ローンで購入したばかりの一軒家に後悔しきり、母親に至っては少しばかり頭がどうかしてしまっている。これを読んだ子供たちが人生に絶望しても不思議でない。

もっともこれは通過儀礼 の物語だ。その点、これを青少年向けとするのは全くもって正しい。

ただし、その対象は彼ら家族全員だ。彼らはみな、それぞれにぶつかった困難と、まともに向き合うことができずにいる。

いや、それができないのは大人たちだけなのかもしれない。なにしろ語り手の僕の行動力は、強引なハッピーエンドさえも正統化する力と率直さに満ちている。

新居に引っ越してから近所付き合いもなく、友達もいない母親。そんな彼女をもどかしく思いながらも責めることしかできない父親。なんてありふれた光景。それでいて、解決困難な難題。

結局その状況を好転させたのはなんだったのか?正直いってよくわからない。それは私の語学力不足のせいでもあり、おためごかしのハッピーエンド志向のせいでもあるだろう。あるいは、そういった状況に馴致してしまった、惰性的な生を積み重ねてきたためかもしれない。

それでも子供たちは、最後の場面を、この先ずっと続く人生を照らし出す、希望の光の下に読むに違いない。

Les derniers rayons du soleil viennent s'échouer sur mon visage.
夕暮れの最後の光が僕の顔の上で座礁する。

それはきっと、雨の下で一夜を過ごした一家にとっても、新しい夜明けを予告する残照だろう。

Au revoir et à bientôt !
Olivier Adam
 

2012年11月18日日曜日

受かったッ!第3部完!

思わずジョジョの名セリフをパクってしまったからといって、私を責めないでいただきたい。

2012年11月18日(日)。関西学院別館4号棟403号室で繰り広げられた三年越しの死闘。おそらくこれが最後となるであろう、準一級一次試験。

74 / 120 。予定通りの完勝である。

1の名詞化から4の動詞化までの計30点のうちの20点をも落としながら(10 / 30)、5~7の読解で怒涛の得点(31 / 36)。8の記述問題も無難に書ききってみせた。

休憩後の後半戦。書きとり問題に苦戦をするも、聞きとりはほぼ完ぺきに意味を理解。単純な綴りミスで3点ばかり落とすも 15 / 20 の結果。

現時点での確定点は 56 / 86 。これは前年の 49 / 86 を上回る。書きとり問題はやや不安だが、記述に関しては文法的にほぼ間違いのない文章を書いたつもりだ。前置詞はまさかの全滅だったが、それは言わない約束だろう。

ここまで読んで、ふと思う人があるだろう――あれ、これって微妙じゃね?

うん、正直言っちゃうと微妙だよね。私も本当に受かってるのか自信がない。

この仏検というやつ、なにが曲者かというと合格率調整のために毎年合格ラインが微妙に変化する点だ。昨年の67点も一昨年なら合格だったのだが、基準点が上がっており、不合格。

つまりはこの試験、「いかに6割以上の点をとるか」ではなく、「いかに他人よりも点をとるか」。要は受験者同士の蹴落とし合いである。

そんな争いに巻き込まれないくらいの点数をとればいいじゃない、って言うは易し行うは難し。それだけ点が取れれば苦労はしないだろう。というかそれだけの能力があれば、そもそも準一級じゃなくて一級を受けているだろう。
パリのオペラ・ガルニエ。側面から。
だがもちろんこれは、自分自身との戦いでもある。そして少なくともその側面においては完全勝利した、といってもいい。
なにしろ、2010年が52点、2011年が67点、そして今年が74点(予測)だ。年ごとに難易度が多少異なるとしても、そして今年が去年より簡単だった気がするにしても、この数字は誇ってもいいではないか。誰に?――もちろん、自分自身に。

来年春の一級試験は今回の試験の合否を問わず受ける予定。DALFもB2あたりからチャレンジして行こうかな、と。
ここから先はどれだけ日常的にフランス語に触れられるかがカギだろう。読む本はフランス語の原書だけ。ブログもフランスネタだけ。身も心もフランス人になりきって、こう言っておしまいにしようか。

「俺は日本人をやめるぞ!ジョジョーッ!!」

…はい。
Au revoir et à bientôt !
 


2012年11月17日土曜日

Les feuilles d'automne / 文学週間

Oh, je voudrais tant que tu te souviennes,
Des jours heureux quand nous étions amis,
Dans ce temps là, la vie était plus belle,
Et le soleil plus brûlant qu'aujourd'hui.
 
思い出してくれないか
幸せだったあのころを 僕らは恋人同士で
人生は今より美しく、
太陽は今よりもっと輝いていた。
 
Les feuilles mortes / Jacques Prévert
 
 日本語タイトルは、『枯葉』。シャンソンの代表格であり、ジャズのスタンダードナンバーとしてもあまりにも有名。私にとって、このタイトルはすなわち、『Somethin' Else』 内の同曲を意味している。
 
ちなみに英語のタイトルは 『Autumn Leaves』。 日仏英、いずれも「落ち葉」を意味しているが、この英語をそのままフランス語に直すと、Les feuilles d'automne 。つまりは表題に落ち着く、というわけ。
 
それにしても、「落ち葉」を意味する英語が、フランス語では秋の読書週間を指しているのだから、不思議だ。
 
これは、フランス語の feuille の多義性による。この語を仏和辞書で引くと、「葉」、「紙」、「薄片」などの意味が出る。要は、ぺらぺらした物体の総称だ。日本語で、ミルフィーユというお菓子、あれはフランス語の mille feuilles (薄く1000枚重ねたもの)が訛ったものだ。
 
さて、この時期は、フランスの主要な文学賞の受賞発表が重なる季節である。その中でも最も権威がある、といわれているのが、ゴンクール賞。今年の発表は11/7。 Jérôme Ferrari "Le Sermon sur la chute de Rome" (Actes Sud 社) が受賞した。内容は以下の通り。
 
コルシカ島の小さな村にあるバー。哲学の勉学を捨て、大志を抱きその寂れたバーを継ぐことにするが、思い描いていたユートピアは悪夢へと変わっていく。人の気持ちとはこんなにもたやすく腐敗していくものなのか?落日のローマ帝国で人間の意志を非常に無力なものとしたアウグスティヌスの思想を絡めた、哲学的思想に満ち溢れた小説です。(欧明社HP より引用 URL: http://www.omeisha.com/?pid=51321885

 

うん、なかなか面白そうだ。
ちなみに、この作家の出身地はコルシカ島。いつの時代も文学はある程度書く人の事故が投影されたものだけれど、いつからかその傾向がつとに強まってきたように思う。それは roman から recitへの回帰、といえるだろう、そのターニングポイントは、ヌーヴォーロマンの旗手、ロブ・グリエが半自伝的三部作を書いたそのときに求められるのだろうか。(そういえば、以前少しだけ紹介したマルグリット・ユルスナールの最後の作品もまた、自伝的三部作だった)。これについてはいつかまた書く機会があるかもしれない。ないかもしれない。
 
それにしても、結局文学賞なんてものは、出版業界が本を売るための手段にすぎないのだなぁ、とつくづく思う。もっとも、日本の芥川賞や直木賞のように、もはや読書好きからもないがしろにされてしまった賞などは、それこそ les feuilles mortes / 死んだ文学(賞)と呼ばれるべきだろう。
 
Au revoir et à bientôt !
 
 

2012年11月13日火曜日

合格ラインをめぐる攻防――仏検準一級試験まであと5日

こんなもの書いてる場合じゃないぜ。でも今さら焦ったところでしょうがないだろう?――そんな気持ちのない混ざった、仏検試験5日前。まさにセンター試験前の受験生の心境。

まずは冷静に自分の置かれた立場を見つめ直してみる。

そもそも仏検を受け始めたのはいつだったか。正確には覚えていないが、2級に合格したのはおそらく、2008年の秋のことだろう。それからもう4年が経つわけだ。

準一級はこれまで二度受験している。一度目は2010年。ダメもとで受けてみて実際に全然ダメで、52 / 65 (獲得点/ 合格ライン)点の惨敗。

二度目は去年、2011年。仏検受験日まで500時間の勉強時間確保を目安に勉強。その目標は達成できたものの、試験のほうは67 / 71 点と4点の不足。

そのときはすでにこのブログをはじめていたので、その記録が残っている。恥を承知で引っ張ってこよう。

去年は完全に力不足で、10回受けても10回とも落ちるだろう実力でしたが、今年はいける気がします。たぶん、10回受けたら半分以上は受かるんではなかろうか、と思ってるのです…(中略)…さて、明日の試験、やることはやった!はず。なので、後はほんの少しの運を味方につけて、頑張ってきます。(11/19)

しかし、勉強した成果はほとんどなかったですね。前回は筆記試験 33/66 だったんですが、今回は
34/66 。つまり1点しか上がってないわけです。勉強のほとんどの時間をそこに費やしたにも関わらず…(中略)…自己採点した直後はもう勉強するの止めようかなと思いましたが、翌日問題を解き直してみて、これが今の自分の実力と思い直しました。(11/22)

と、ここまで書いて気付いたのですが、このブログで仏検の結果報告をしてませんでしたね。結果は、駄目でした!!4点足りなかった。でも去年に比べると格段の進歩です。今回はあと少し運があれば、という感じでしたが、来年は満点くらいとってやろうと思ってます。気持ちだけは。(12/27)

この恥さらしめっ!
一年後の今振り返ってみると、まぁ受かる実力になかったよな、というのが正直な感想。確かに、受かる可能性もあったのだけれど、それでは随分背伸びした結果になっていただろう。というかおそらく、二次試験に落ちていたに違いない。

と、ここまで振り返ってふと思ったことがひとつ。

これって、次落ちたらやばくね?

――うん、やばいよね。つーか、人間失格だよね。

確かに仕事には関係ないが、本来仕事の勉強に割くべき時間をこっちに割り振っているのでもある。要は出世に至る階段を順調に踏み外しながらやってるわけだ。ここまで来て、後戻りなんてなしだろう。またダメでした、なんてへらへら笑ってられるような状況じゃない。この道がリアル=金に続いていようがいまいが、関係ない。今さらそれ以外の選択肢なんてあるはずがない。

これが三度目の正直となるか、二度あることは三度あるのか、それは神のみぞ知る…。いや、努力した時間は裏切らない。才能?そんなものは糞だ。アンダードッグにはアンダードッグなりのやり方とプライドがある。前置詞が未だにわからない?それなら辞書丸覚えでいいじゃない。覚えたページは片っ端から食いちぎる。それぐらいの気概がなけりゃあ続かない。敗れてもなお、続けてきたからこそ与えられたチャンスじゃないか。

それにしても、30近くになろうとも、安泰とはほど遠いこの感じ。まさに戦力外通告を受けたプロ野球選手のトライアウト。一度も一軍で脚光を浴びぬまま戦力外になった男たちの 99.9% 敗退確実の戦い。

たとえ合格したってそれでも、今さら一流選手の仲間入りができるわけでもなく、一軍に上がることすら保証されていない。それなのに、なぜ続けるのか?オレはまだやれる、まだまだこんなもんじゃない。宙ぶらりんになったこの気持ち、中途半端・不完全燃焼のレッテルが貼られた人生を、頭を垂れて平然と生きていけるほど、できた人間じゃないんだろう?

二次試験会場でまた会おう…。

Au revoir et à bientôt !
 

2012年11月9日金曜日

Louvre 拡大号 アングルのヴァイオリン

不思議なこともあるものだ。

仏検に向けての勉強の合間に、手元にある本につい手が伸びてしまい、しばし時間を費やしてしまう。

Philippe Labro / フィリップ・ラブロ著 『Le petit garçon / 少年』。作家、ジャーナリスト、映画監督、ひいてはジョニー・ホリデイに楽曲を提供(作詞)するなど、多彩な才能を持つ作者の自伝的小説。この作品で1990年のゴンクール賞候補に挙がったが、惜しくも落選する。もっとも、これだけ多才な人物のこと。最高峰とはいえ、たかが文学賞の一つや二つ受賞できなかったところで大したことではなかっただろうと想像する。

自伝的小説である以上、作者の人となりを知りたくなるのは当然だろう。小説の舞台は出身地の Montauban / モントーバン。スペイン国境に近いこの街は、別名 " Cité d'Ingres " アングルの街 と呼ばれている。そう、モントーバンは新古典主義の画家、Dominique Ingres / ドミニク・アングルの出身地でもある。

 ルーヴル美術館にはアングルの作品が溢れている。質量ともに比肩しうるのは、同じく新古典主義のダヴィッド、同時代のロマン主義者、ドラクロワぐらいなものだろう。

上記二人と比べてみても、いや、だからこそなおさらなのか、アングルの描く絵は、描線の端正さが目につく。「絵画とはつまるところデッサンに還元される」と考えていた彼にとって、それは必然だったのだろう。

個人的には、同じく描線に特徴がある20世紀オーストリアの画家、エゴン・シーレが思い出されるのだが、いかがだろうか?シーレは、20代前半の私にとってのアイドルだったのだが。


それにしても偶然の出会いとはおそろしい。

今日フランス語の勉強中、「趣味」にあたる言葉を探していたら、"violon d'Ingres" なる表現に辿りついた。直訳すれば、「アングルのヴァイオリン」どうやらこの言葉、彼にヴァイオリン奏者としての一面もあったことから、「余技」の意が与えられているらしい。

願わくば私のフランス語能力も「アングルのヴァイオリン」と呼び得るほどに上達せんことを…。
――さて、勉強するとしようか。

Au revoir et à bientôt ! 
エゴン・シーレ 『ほおずきの実のある自画像』

 

2012年11月7日水曜日

Louvre 拡大号 Claude Lorrain 安寧の画家

10/12 9:30 - Musée du Louvre

ルーヴル美術館を3時間で巡る、というのは無作法を通り越してもはや罪深い。それは人類史を一人一人の人間にスポットを当てながら、3時間で振り返る、といっているようなものだろう。

まさに言語道断の語義矛盾。

正直そんなことは不可能だ。そんなことはわかっている。だが時は有限だ。与えられた時間の中で、人間はなんとかやりくりしてやっていくしかない。なにを選び、なにを捨てるのか。人生で幾度も繰り返されるこの問いに、フランスでもまた悩まされる。

本名を Claude Gelle / クロード・ジュレ、出身地からClaude Lorrain / クロード・ロランと呼ばれる画家(1602頃 - 1682)。彼と前回のニコラ・プッサンのために今回のルーヴル短期滞在は計画された。

彼の絵に説明はいらない。次の二枚を見比べてみてほしい。相違よりも類似の部分が目につく。


 それぞれが歴史的な瞬間を描いたものだが、前景に配された歴史上の題材は、単に風景を描くための方便にすぎない。それが、観ている人にも感得される。

彼にとっては朝日が昇り、夕日が沈む時間帯こそ、世界がもっとも安定する時間であり、画家はその完全なる世界を描くことにだけ力を注いだのだ。

選択と集中、そして持続。これほどまでに一事に収斂にされた画家もいない。その明確さ、安心感こそが同時代にも受け入れられた、彼の人気の秘密だったのだろうか。いや、そうではないだろう。

ターナーに甚大な影響を与え、後世の印象派の礎とも呼ぶべき画家。彼の絵を観て我々が率直に感じる安寧は、人生の幼少期の思い出に重ねられる。だからこそ懐かしいのだろう。

夕暮れには常に子供の遊びがついて回る。夕日が本来象徴するイメージとの乖離が、なおさらのこと希少で、手に入れがたいものとして、それを輝かせる。

そう、クロード・ロランがその作品で描く景色は常に、我々の「失われたなにか」を刺激してやまないのだ。

Au revoir et à bientôt !
同じ構図、同じ景色。同じ思い出


Louvre 拡大号 Nicolas Poussin / ニコラ・プッサン

10/12 9:30 - Musée du Louvre

そこらへんの黄色いクマとは一線を画していただこう。

その男の名はNicolas Poussin / ニコラ・プッサン(あるいはプーサン)。「フランス絵画の父」と呼ばれ、ルーブルのリシュリュー翼、フランス絵画の部屋は、クラシックを創ったこの男からはじまる。彼のためだけに充てられた数部屋はその日、課外授業に繰り出した高校生で埋まっていた。


にもかかわらず、である。プッサンはその生涯のほとんどをイタリアで過ごした。ルイ13世によって祖国に招かれた2年を除き、亡くなるまでの40年近く、つまり画家としてのほとんどの時間をイタリアに生きている。

そんな彼を「フランス絵画の父」と呼んでいいものか。

おそらく多くのフランス人の頭に一度はよぎる疑問だろう。前々回に紹介したエル・グレコはギリシャに生まれイタリアで学び、トレドで生涯を終えた画家だが、彼の作品を我々はスペイン絵画と呼んでいる。

プッサンにとって、絵画とはなんだったか。それは、次のプッサン自身の言葉によくあらわされている。いわく、

「アルファベットの26文字が私たちの言葉や考えをかたちづくるのに役立つように、人の身体の外形は、魂のさまざまな情念を表現するのに役立ち、私たちが精神の中に持っているものを外に示すのである」

外形は精神を示す。人の身振り、表情、動作をいかに書くかによって、その人の内にあるものを示すことができる、そうプッサンは考えた。

ごめん、ここまでほとんどが、『美の旅人 フランス編Ⅰ』 / 伊集院静 の受け売りだ。実際このシリーズほど、美術を専門的に学んでいない人にとって、格好の入門書であり、応用本と成り得るものはないだろう。広く見ながらもしっかりと要点を押さえている。

私からプッサンを見て言えることはただひとつ、それは構成の妙がこの画家にはある、ということだけだ。あとは実際に自分の目で見て確かめてみてほしい。彼を観ることで、フランス絵画の規範とはなにか、ひいてはフランス人がクラシックと称する精神のありどころがわかるだろうから。

Au revoir et à bientôt !

プッサン、56歳時の自画像
 
参考文献:美の旅人 フランス編Ⅰ / 伊集院静香 著(小学館文庫)
Le Guide du Louvre (ルーヴル美術館内で販売されているガイドブック。500p近いボリュームでかなり楽しめる)


2012年11月3日土曜日

マルグリット・ユルスナール展 言葉のイメージ


Marguerite Yourcenar / マルグリット・ユルスナール(1903-1987)。初の女性アカデミー・フランセーズ会員。20世紀を代表する女性作家で、代表作は『ハドリアヌス帝の回想』や『黒の過程』など。日本では三島由紀夫に関する評論、『三島由紀夫あるいは空虚なヴィジョン』が有名か。2002年に白水社からユルスナールコレクションが全6巻で販売されたが、現在は絶版中。2011年から自伝的三部作が同じく白水社から順次発行されている。

ごめん、ここまで概要を書いたけど名前しか知らない。

読んだことのない作家について、あれこれ知ったような口を利くのはよくない。機会があれば実際に読んで、それから再度彼女についての物語を書くことにしよう。ちょうど、家に唯一あるユルスナールの作品、『とどめの一撃』(岩波文庫)を見つけ出したところだ。これを読んで、それから三部作や他作品に手を出すか、決めるのもいいだろう。

さて、今回はそんな彼女の死後25周年を記念して、フランドル美術館で10月13日から催されている『Marguerite Yourcenar et la peinture flamande / マルグリット・ユルスナールとフランドル絵画』展についての、空想のレビューを。

この展覧会、作家と絵画、どちらに比重が置かれているのか。美術館で、展覧会。なのに作家のほうに重心を傾けているのは間違いない。「絵画は言葉へ向かう」。コンセプトはこれだ。フランドルの画家たちは、作家の創作過程を彩る、色鮮やかな花弁だろう。

しかし、その花の美しさこそが、フランドル美術の底力だ。油絵の技法を編み出し、イタリアを中心とした文化圏が、神の世界や王侯貴族を描いていた同じ頃に、平然と農民の生活を描いていた無体さは、ヨーロッパ絵画の歴史上、特異な位置を占める。フランドル絵画について語るためには、最低でもこのブログ3年分が必要だ。

ユルスナールに同様の地域性が見られるか、なんて問いは論点をずらしてしまう。この展覧会の主眼は、いかにして作家が見るものを言葉に変えたか、ということだ。

Les albums de Marguerite Yourcenar © Laurence Houot / Culturebox

Une exposition étonnante au musée de Flandre à Cassel propose un dialogue entre toiles et romans et montre comment cet immense écrivain, première femme à entrer à l'Académie française, a su déceler ce qui constitue la singularité de la peinture flamande et en extraire l'essence, aussi bien qu'elle a nourri son œuvre, incessant va-et-vient informel entre les images et les mots.

絵画と言葉、そのあいだを絶え間なく行き来することにより、ユルスナールはフランドル絵画の特異性を見抜いており、その本質を取り出し、自らの作品の糧としていたのだった。

A force de contempler ces tableaux, de travailler son regard, elle réussit à pénétrer la singularité d'une œuvre.

それらの絵について熟考を重ね、飽くことなく視線を注ぐことで、彼女は作品の特異点に達することができたのだ。

絵画の中に主題を探し求める姿勢。そんな抽象性よりも私には、旅行する先々で美術館を訪れ、ポストカードを買って行ったという、ユルスナールの姿のほうが、親しみやすく、好ましい。そう、その姿こそ、『世界の迷路』を手さぐりで彷徨い歩いていく、人間らしい姿だから。

Au revoir et à bientôt !


Marguerite Yourcenar le 15 décembre 1980
Marguerite Yourcenar le 15 décembre 1980 © Sam Bellet / La Voix du Nord

参照URLhttp://www.francetv.fr/culturebox/des-images-aux-mots-marguerite-yourcenar-et-la-peinture-flamande

2012年11月1日木曜日

Toussaint / 諸聖人の日

まるで Manga だな。

現在大阪の国立国際美術館で開催されている 『エル・グレコ展』 を見にいった感想がそんなものだからといって、なめてはいけない。それこそがグレコのよさなのだ、と言い張ろうじゃないか。

なるほど、彼の描く作品は肖像画を除けばほとんどが宗教画だ。だが、画布に顕れているのは、人間の「聖」なる部分ではなく、むしろ「俗」のほうだろう。

確かに、ある種の聖人たちの表情には神聖さがあふれている。だが画家は、その聖性をまるで、狂人のそれであるかのように、醒めた目で見ている。抑えきれない卑俗さが、彼らの皮膚の下を這いずり回っているのがみえる。

熱狂とそれを客観視する冷徹さ。一人の人間の中に相反する性質を併せ持つ近代的自我を、16~17世紀の画家の作品に見るのは、現代に生きるわれわれの眼が成す幻想に過ぎないのだろうか。

当時ヴェネツィア共和国支配下にあったクレタ島に生まれたこの男は、その後イタリア各地を遍歴し、最終的にはスペインのトレドにたどり着く。西洋とビザンティンの文化、宗教的にはカトリックとギリシャ正教の双方を身近に感じてきた男が、最盛期のスペイン(それはつまり、プロテスタントに対抗するカトリック王国、ということだ)、トレドで生涯を終える。異邦人でないわけがないだろう。


さて、本日11月1日はカトリックの La Toussaint という祝日。日本語に直せば、「諸聖人の(祭)日」。

5世紀にはすでに祝われていたという、非常に息の長い祭日だが、同時に非常におおらかな祭日でもある。なにしろ、列聖された聖人以外の、民間信仰の対象やその他諸々まで一緒くたにして祝ってしまおうというのだから。

祝祭のそうした影響だろうか、この日フランスでは亡くなった親族のために花をささげるのが習慣となっているようだ。要は日本で言うところのお盆だが、これなどキリスト教とは起源の異なる先祖崇拝の例だろう。

ちなみにアメリカ合衆国で祝われるハロウィンは前日10月31日だが、これはもちろんこの日と大いに関係する。だが、まあそれはいいだろう。ここでは翌日11月2日、「死者の日」のほうをクローズアップしよう。

日本ではこの1日、2日をそれぞれ「万聖節」、「万霊節」と訳していたが、これなどいかにも明治の訳語らしく物々しくも格好いい。

現実はもっとポップだ。それはメキシコの死者の日の一日を描いたマルカム・ラウリーの最高傑作、『火山の下』を読めば一目瞭然だ。

フランスではこの期間は学校が長期の休みになるようだ。les vacances de la Toussaint 。聖人の名を借りた長期休暇。それをも笑って許してもらえる懐の深さが、この祝日にはある。

さあ、ヴァカンスを愉しもう。聖人、俗人、カトリック、先祖崇拝、すべてが入り乱れたカオスな祭日を。この日ばかりは鉄網の上で焼かれて殉教した聖ラウレンティウスも笑ってこういえるだろう、
「片面が焼けたので、どうぞもう片面も」と。

Au revoir et à bientot !
モンパルナス墓地

2012年10月29日月曜日

Passage à l'heure d'hiver en Europe / 夏の終わり、冬の始まり

10月の最終日曜日、27日にフランスでは時計の針が一時間巻き戻された。

日本ではまったくなじみのない、「l'heure d'été / 夏時間」の終わりである。つまり、3月最終日曜日に進められた時計の針を元に戻した、というわけ。

フランスでは1998年から始められたというこの制度の一番の利点は、電力節約につながることだという。

なぜ時計の針を戻す(進める)ことが節約につながるのか?――私にもよくわからない。が、とりあえずフランスの環境相のお言葉を聞いてみる。

" Selon le ministère de l'Ecologie, le changement d'heure a permis d'économiser 440 GWh en éclairage en 2009, soit la consommation d'environ 800.000 ménages."

要は「夏時間の導入によって、2009年には440GWh の消費電力削減に成功した」とのこと。マジなのか?

440GWh。これがどれくらいのものなのか。いまいちピンとこないので、関西電力の昨年度一年間の原子力発電所によって供給された電力量を調べてみる。

「電気事業連合組合」のホームページ (http://www.fepc.or.jp/) によると、1871603MKh とのこと。単位をGKhに変換すると、1871,603 ≒ 1872GKh

つまり、夏時間の導入によって、2009年のフランスは、2011年度関西電力の原子力発電所が供給した電力の、およそ1/4を節約したことになる。うむ、なかなかの成果ではないか。

それにしても、時間を一時間戻す、進めるという作業は実に文学的だ。人為的に作られた時間の襞。これを使った文学的トリックなんて、如何にもありそうだ。

で、どこに節約の要素があるのか?なんて質問はナンセンス。おそらくそれも、慣性という名の重力に縛られた政治的レトリックに過ぎないのだろう、残念ながら。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年10月27日土曜日

Paris / パリ 魂の実家

10/11 Avignon 12:26 - Paris 15:10

もし幸運にも、若者の頃、パリで暮らすことができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。
――アーネスト・ヘミングウェイ

ヘミングウェイは好きじゃないが、このフレーズはいいよね。より正確にはヘミングウェイの小説は嫌いじゃない。ただ、若き日々の回想録ともいうべきこの本が糞なだけだ。まぁ大抵、死後発表の作品には碌なものがない。作者の意図に反するからだ。

冒頭を飾るこの言葉が示す通り、私もパリに惹きつけられた大勢の一人だ。この4年間で3回、日数にして10日ほどパリに滞在した。これは日本も含め、他のどの都市よりも多い。実家に帰った日数よりも。

この街の魅力はなにか?回想録で取り上げられる1920年代のパリで重要な役割を果たし、今もセーヌの左岸に現存する、シェイクスピア書店に象徴される文化と歴史。それがフランスの最大の武器であることは言を待たない。

フランスにおいてもパリは特別な場所だ。そこは文化や歴史、更には政治、経済の中心であるともに、ヨーロッパの中心でもある。

パリにいると、交通の要諦としてどれだけ重要な位置をしめているか、旅行者の身にも感じられる。アメリカは人種の坩堝だとよくいわれるが、それを地理的・歴史的に圧縮した都市といえるだろう。

ここにあるもので、純粋なものなどひとつとして存在しない。そう言い切ってしまいたくなるほど、この街には文化や人が流入してきた。それらは混ざり合い、やがて境界線を曖昧にしていき、独自のものを形作る。

「エコール・ド・パリ」と呼ばれた画家たちのほとんどはパリ、フランスの外から来て、パリで育った、育てられたものたちだ。スーチン、藤田嗣治、モディリアニ…。ここにピカソを加えることもできるだろう。出自は違えど、彼らは疑いもなく「パリの」画家だ。画家たちにとって、パリは学び、成長するための学校のような場所だったろう。

パリは学校。そのたとえが適切だとしよう。そしてもし冒頭のヘミングウェイの言葉を時間軸の方向に切りとるとすれば、どんなときにも立ち返るところだ、ということになる。つまり、人生の各時点で、がむしゃらに学び続けた若かりし頃を思い出せ、という意味にもなる。

つまるところパリは、青春の夢や野心と切り離すことのできない都市なのだ。そしてそれは、その後の人生の拠り所となるべき場所。人生の行く先々で付きまとい、悩み苦しんでいるときにパリはこう語りかける、「君に立ち返るべきパリはあるかい?」と。

パリは夢、野望。でも一時のものじゃない。それは何度でも立ち返る場所、魂の実家なのだ。

夜のエッフェル塔。実ははじめて見た。

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2012年10月24日水曜日

À la recherche des livres inconnus / 本屋めぐり

フランスの各地をめぐる旅は一休みしよう。今回は、フランスに行って「できなかったこと」の話だ。

一番にあげられるのがやはり「本屋失踪」とも言うべき、本をめぐる冒険の不在。

過去二回はいずれも何軒かの本屋を回り、30冊を超える書籍を購入してきた。それでフランス語の習熟を図ってもいた。

今回は様子が違う。なにしろ5泊7日の強行軍、それもかなり緊密なスケジュール、ということもあって、自由な時間をほとんどとることができなかった。

ツアーではないのだから行きたいところに行けばいい、というのはなるほどその通りだが、実際に時間という絶対的制限を前にしては、おのずと優先順位が決まってくる。つまりは、観光地巡礼。

そんなことをいいながらも、行くには行ったのだ、フランスのメガ書店、fnac / フナックに。

デジカメからゲーム、CD&DVD、本までを扱う品揃えは、日本でいうところのジュンク堂、というよりはTSUTAYAやビッグカメラを想起させるのだが、私の目当てはもちろん本だ。

しかし、本を選ぶのは簡単な作業ではない。殊に現代フランス文学に関する情報がほとんどゼロの状態で選ぶときには。

これまでに仕入れた数少ない未翻訳作家のリストは、過去二回のフランス滞在の折に使い果たしてしまった。

そうなると必然、既知の作家もしくはまったく名も知らない新規作家の開拓しか手はなくなる。しかし前者を行うには意欲が足りず、後者は時間が許さない。

つまるところ Il n'y a rien à faire / 打つ手なし、だ。

そもそも前者に関しては、amazon でいいじゃん、なんて、それを言ったらおしまいだろう。だが、それが真実だ。

本屋は未知なる書物との出会いの場だが、その場を活かすためには時の作用が必要不可欠なのだ、と異国の地で観光客は思い知らされるのだった。

本屋の画像はない。

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2012年10月21日日曜日

Villeneuve-lès -Avignon / ヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョン かくも過酷な観光旅行

10/11 9:38 Avignon 発 - 9:50 Villeneuve-lès-Avignon 着

名前からして属州じゃないか。

そんな声も聞こえてきそうなほど、アヴィニョンとヴィルヌーヴ・レ・ザヴィニョンの関係は密接で、従属的に思える。

アヴィニョンに教皇庁が置かれていたのに対して、レザヴィニョンには枢機卿の邸宅が並んでいた。10世紀には修道院が設立され、11世紀にはその周囲に村が形成されていった。以降は教皇庁を構えるアヴィニョンと対立的な立場をとり、フランス国王に保護を求めるなどしている。このように、その歴史的にも二つの都市を切り離して考えることは難しい。


もっとも、そんな歴史的背景があるからといって、今もその関係そのままに見るのは、視野を狭めるだけだろう。この街にはこの街なりの魅力がある。

といいながらも、実際この街を見るために割り当てた時間はわずか二時間で、おまけにバス停を降りてすぐのところで開かれていた朝市を、物珍しげに眺め歩いたから、この街一番の見どころといえるChartreuse du Val de Bénédiction / 祝福の谷修道院ですら、駆け足で見るはめになった。

そんな人間の言葉など、誰が信じられるだろう。だがまあ、聞いてほしい。この街に見どころは数多く、実際一日かけてゆっくりと回るべきだろう。

修道院の他にも、Fort St-André / サンタンドレ要塞や Tour Philippe le Bel / フィリップ美男王の塔、Eglise Collegiale Notre-Dame / ノートルダム参事会教会など、見るに値する観光地は多く、それでいてツアー客に煩わされることもない。

時間、時間さえあれば…

そんな風にわが身を呪いつつ、12時14分発のパリ・リヨン駅行きのTGVに乗り遅れないよう、死力を尽くす。分刻みのスケジュール、時計の秒針とのスピード勝負、一本バスを逃すとそこで終わりの緊張感。観光旅行とはかくも過酷なものなのか。

祝福の谷修道院
 
...À la prochaine déstination ☛ Ce que je n'ai pas fait

2012年10月19日金曜日

Les villages en Provence / プロヴァンス村巡り 農業大国フランス

10/10 8:10 Avignon ホテル前発 - Tour "Les Beaux de Provence et Luberon" 参加

 前日、アヴィニョンのツーリストオフィスで、南仏の村巡りツアーを予約しておいた。一人65€。タクシーを手配して行くことを考えれば、かなりお得な値段だ。

もちろん、それ相応のリスクはある。ツアーなので融通が利かないし、他の利用者とも一緒になる。ガイドとの関係も重要だ。

当日若い女性ガイドとアメリカ人の他二組と一緒に回ることになったが、そうなるともちろんガイドする言語は英語。フランス語は喋れるが高校生並みの私は、時折拾える単語の意味と、空想で繋ぎ合わせて、話を聞いているつもりになっていた。途中からは英語がほぼ通じないことが、他のメンバーに了解されて、放っておかれたのは逆にこちらも気安かった。

さて、肝心のプロヴァンスの村々はどうだったか、というと、これについて語ることはあまりない。いや、それぞれの村は本来、別個に語り得るだけの魅力があるのだが、それを堪能する時間がなかった、というのが本当だ。


実際、ツアーで巡ったGordes / ゴルド、Roussillon / ルシヨン、Les baux de provence / レ・ボーのいずれも、Les plus beaux villages de France / フランスの美しい村 に選ばれている。

この「フランスの美しい村」というのは同名協会による認定制となっており、2012年7月の段階で157の村が加盟している。認定のためには厳格な選定基準の下に審査され、一度認定されても視覚を取り消されることがあるという。その基準の主な四つとは、

1.人口2000人未満であること。
2.2ヶ所以上の保護遺産か遺跡(景観、芸術、科学、歴史など)があり、その保全のための計画的な土地利用政策がなされていること。
3.村の建物の外観に調和がとれていること。
4.自治体の議会で同意を得ていること。

だという。この基準を読むだけでも、面白そうな村が揃っているのだろうと推測できる。しかし、大事なのはそれを味わうための時間だ。それがなければ、どんなに素晴らしい素材も味のないスープのようになってしまう。今回のこのブログのように。

それでも収穫もあった。

今回、ツアーに参加してなにより大きかったのは、車でフランスを見ることができたこと。そしてそのことで改めて、農業大国としてのフランスを感じることができたこと。


フランスでは都市部と農村部の乖離がはなはだしい。都市を少し離れれば、どこに行っても畑ばかりだ。違いといえば作っている作物だけ。そんな風にも見える。

こういう土地だからこそ、各地に綺羅星のように点在する村のひとつひとつが魅力的で、訪れる人々を惹きつけてやまないのだろう。

フランスの車窓から。

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2012年10月18日木曜日

Arles / アルル 兄弟関係

10/9 9:44 発Avignon 発 - 10:05 Arles 着

TGVで夜遅くアヴィニョンに着き、翌日一番にアルルに向かう。

直通電車で二十分。往来に便利なこの街に、著名なものは大きく2つ。

ひとつは円形闘技場に代表されるローマ時代の遺跡。もうひとつは太陽の画家、ヴァン・ゴッホである。実はもうひとつ、アルルの女たちもあげられるが、今それは置いておこう。

アルルにはこの二つがあるから観光地として素晴らしい。より正確には、この二つがあるからこそ観光地として大きな成功を収めているのだ。

互いが競い合うことで生まれる相乗効果。まさしくそれは、ゴッホとゴーギャンの共同生活そのものではなかったか。

いや、ここではゴッホとその弟テオの兄弟関係になぞらえるのがより適切かもしれない。

熱狂的、いや狂信的な兄とそれを影から献身的に支える弟。現代の我々が抱く二人の関係は、このようなややステレオタイプな美談仕立てに堕しているが、現実は果たしてどうだったか?

兄と弟。古今東西どんな兄弟関係も、少なからぬ緊張関係をはらんできた。どちらにとっても相手は、打ち負かすべき初めてのライバルだ。どんなに仲の良い兄弟であっても、その関係にピンと一本張られた糸があることに変わりはない。

ローマ古代遺跡とゴッホ、この大きく歳の離れた2つのあいだにも、同様の力学を想定できるだろうか。できる、といいたいところだが、それは同時に彼らだけが知り得る秘密の結びつきなのだ。

 
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2012年10月17日水曜日

Avignon / アヴィニョン フランスの似姿 

10/8 17:35 Nice 発 - 21:25 Avignon TGV駅 着

アヴィニョンで見るべきはなにか。

1309年から77年まで、ここに教皇庁がおかれ、都合7人の法王が暮らしたことなど、この街を味わう上で知らなくともよい。それでも、ローマ以外に唯一教皇庁の置かれた場所であるという権威(ステータス)は、キリスト教徒でなくとも惹きつけられる。

その教皇庁の巨大さに圧倒されるもよし、ローヌ川に半ば架かっているサン・ベネゼ橋の追憶に浸るもよし。あるいは街を取り囲む、城壁を回ってみるのも楽しいだろう。

とりわけ城壁は、「見る」というより「見える」という表現がふさわしい存在感があり、建てられたその意味を、現代にまで語り継いでいる。

想定されている外敵の脅威と、なんとしてでもそれを排除しようとする執念の力学。異物を取り除くために行われた奮闘はしかし、効果のほどは疑わしかった。

そもそもこの都市自体、その誕生からして異様なものの受容から始まっており、その集積によって現在まで成長を続けてきたのだといえる。


外からの敵をかたくななまでに拒みながら、自らの内に招き入れて、自家薬籠中のものにする。ここにあるのは、内 - 外 = 味方 - 敵という単純な対立ではなく、すべてが自在に所在を変える、混沌とした葛藤の精神だ。

フランス・ユマニスムの思想に受け継がれていると言えなくもないこの葛藤は、サン・ベネゼ橋を人間関係の綾と読み解くことで、より人間らしいものとなる。これほどまでにひとつの都市が人間の似姿をとっているのも珍しい。まさにこの街で、毎年演劇祭が催されているのも、偶然ではないだろう。

ピカソのキュビズム時代の代表作『アヴィニョンの女たち』に名前を貸しているように、この街は自らその保守的な外壁を乗り越える。まさに avant-garde。

ゆえにこの街を巡るのは、ある人物の精神の軌跡をたどることに等しく、街の中心にある時計台広場の時計が刻んでいるのは、その心音だと。そしてそこに常設されたメリーゴーランドの前に立つと、4年前に同じ場所で見た映像が自然とフラッシュバックされるのは、それがその場所に埋め込まれた記憶だからで、その記憶の持ち主こそ、フランスを象徴するあの女性なのだろう。


異常な回転速度のメリーゴーランド
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2012年10月16日火曜日

Monaco / モナコ 優美・裕福・勇敢さ

10/8 11:40 Èze 発 - 12:00 Monaco 着
 

エズからモナコまで、約20分。Cote-d'azur の海岸沿いの山道を下っていく。途中から明らかに、一般の郊外のそれとは姿の異なる建物群が見えてくる。モナコはすぐそこだ。
 
「他の乗客が降りたから」という安易な理由で、地図も確認せずにバスを降りるような男はすでに、モナコに滞在する資格はない、といっていい。
 
いやそもそも、乗合バスを使うような観光客が、訪れていい場所ではないのかもしれない。世界に二番目に小さな国、ここモナコでは、富を持つものがすべてに優先される。
 
街の心臓部、Monte-Carlo / モンテ・カルロにある Grand-Casino 前には、見るからに威厳のあるガードマンがいて、黒塗りの車を出迎えている。その威風堂々たる姿を前にしては、旧市街地に居を構える王宮のほうが、まだしも庶民的でとっつきやすい、とさえ思えてしまう。
 
もちろん、それもまた幻想にすぎない。そもそもMonte-Carlo の名称自体、モナコを興隆に導いたCharles Ⅲ の名を冠しているのだから。仮にその領域に近づこうと試みるのであれば、先代の王Rainier Ⅲ の妃となったGrace Kelly / グレース・ケリー並みの優美さが必要となる。
 
もうひとつ、モナコを語る上で忘れてはならないのが、毎年五月に開催されるF1だろう。
 
市街地をサーキットとして使用するという、命知らずな試みは、それゆえに勇敢な平民を限りない高みへと押し上げ、束の間幻想と現実の境目を乗り越えることを可能にする。
 
それがどれだけ勇気の必要なことかを知りたければ、市街地を歩き、殺人的なヘアピンカーブを目の当たりにするだけで十分だろう。
 
勇敢さ、優美さ、裕福さ。このすべてを欠いた人間にとって、モナコは夢に出てくる幻の王国にすぎない。
 
仮にでもモナコを語ろうとするのならば、サンダル履きでTシャツからビール腹を覗かせて、ガードマンからじろじろと見られるのにお構いなく、カジノを見物するだけして帰って来るという、アメリカのおじさん風の度胸が最低限備えておくべき資質となる。それは今の私には求めがたいセンスだ。
 
Monaco 王宮前
 
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2012年10月15日月曜日

Èze / エズ 観光地に生まれて

10/7 8:00 Nice 発 - 8:35 Èze 着
 
 
観光客の朝は早い。
 
6時半には起きて準備をする。外はまだ暗い。だが、このバスを逃せば次は一時間後。前回は話の流れ上、持ち上げて書いては見たものの、正味の話、そんなに便利なわけでもない。
 
時刻表を見る限り、30分ちょっとでエズの村に着く。だが、そんなはずはないだろう。村はニースからは影も形も見えないし、乗車して10分を過ぎてからも、バスは市街地をあちらこちらに進んで、乗客を拾っている。
 
それがなんとか時刻表通りに着いたのは、2分ばかりの容赦のないフライングスタートと、曲がりくねった山道をスピードを落とさず駆け抜ける、運転手のたぐい稀なるテクニックのおかげだろう。
 
オレ、このバスの運転が済んだら、F1レーサーになるんだ。
 
違う。そんな夢の名残りがこの運転テクニックなのだろう。
 
おそらくこのあたりには、夢破れてその腕を持て余した男たちがゴロゴロ存在して、こんな危険な山道を走るバスの運転手にも事欠かないのだろう。少年たちの夢のサーキット、モンテ・カルロは山を越えたすぐ向こうだ…。
 
話をエズに戻すと、「外から見えない」この特殊性こそ、エズ村が要塞都市として、14世紀頃まで発展していた理由がある。
 
そんなエズの村も、21世紀の観光客たちの目からは逃れられない。
 
Côte-d'Azur の中核都市ニースから30分という立地条件を、ガイドブックが逃すはずもない――必然、村は観光地の体をとる。
 
そこにあるのは四つ星ホテルとみやげ物屋と、観光客向け値段のカフェ。もちろん村の姿かたちは多くが昔のまま残されていて素晴らしい。しかしその美観さえも…いや、よそう。素直な気持ちで観賞することこそ、異文化理解のための最低条件のはずだ。それに、村の最高地にある熱帯庭園からの景色は、掛け値なしに美しい。
 
2時間弱の滞在の終わりに、村の入り口にあるカフェに入った。
働いているのは、高校を卒業したばかりとも思える若い女の子と、その父親らしき人物。
 
給仕に来る彼女の、露わになった二の腕を、素直な気持ちで歎賞しながら、彼女の将来を考えるのは野暮だろう。観光地で生きる意味など、そこで生まれ、死ぬことを選択したものにしかわかるまい。

1,2時間に一本ある、モナコ行きのバスを待つ。15分遅れているが、バスはまだ来ない。
 

エズ熱帯庭園からの風景
 
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2012年10月14日日曜日

Nice / ニース 盛夏の名残り

10/6 23:40 関西国際空港発 - 10/7 14:15 Nice / ニース着

日本から南周りの飛行機に乗ってドバイで乗り継ぎ、20数時間。Nice Côte d'azur 空港に降り立ったときから夏だった。

乗り継ぎで訪れたドバイとさほど変わらぬ気候に困惑を隠せず、ベロアの上着を脱いだのは、窓の外にヤシ科の木の見えるホテルに着いた後。そのとき私は、スーツケースに入れた薄手のセーターが今回の旅行で使われることはまずないと、苦笑いをしながら確信した。

断わっておくが、私の衣類のチョイスが間違っていたわけではない。後日訪れたパリでは、自らの正しさを確認したのだが、それはまたのちの話だ。

いや、おそらく間違っているのはニース市民のほうだろう。声を大にして言いたい、「夏はもう終わった。時代は冬に向かっている」と。

実際のところ冷静になって、日本人的良識とともに考えるならば、そもそも半そで短パンで道を歩いている彼らのほうがおかしいのだ。そんなに暑くないだろ、いやむしろ、その格好、やせ我慢してるんでしょ?と。

なぜそんなにも夏に執着するのか。思うにニースの人々にとって、それこそが街の全盛期の思いで、古き良き時代の記憶なのだ。

フランス随一の避暑地としての地位を確立することは同時に、夏のあとの喪失感もまた何倍にも強く感じることも意味する。

避暑客たちは、夏が過ぎれば元の生活に戻り、10月のニースに取り残されたのはそこに住む住民たちと、季節外れ、流行りに乗り遅れた観光客だけだ。

そんなところにいったい見るべきなにがある?なにもないだろう。あるのはただ、イタリアから出稼ぎに来たフランス語も英語も不完全な革職人の店と、近距離に点在する観光地に向かうための、完全に整備されたバス網だけ。

こんな季節じゃバゲットひとつ満足に買えやしない。

さぁ行こう、流行りには乗り損なったけれど、他のところに行くバスならたんとある。10月のニースはそんな街だ。いや、まぁそれも悪くない…。



…La prochaine déstination ☛ Èze