2012年6月27日水曜日

安部公房と大江健三郎

おはようございます。

ここ最近、ピンクフロイドを聴き直していて、いいなぁと思っていたのです。動物の鳴き声や風の音などを使用した造形的な音楽。優れた歌詞と印象的なジャケットカバー。全体に完成度の高さが目につきます。

それにしても音楽というのは、実に記憶と密接な関係にあるものですね。音とそれに伴う記憶は、視覚的なそれよりも数段深く刻み込まれているようです。

ピンクフロイドを聴いて思い出すのは主に、初めて聴いた二十歳の頃ですが、もうひとつ、安部公房の小説作品も一緒になって掘り返されます。

彼はかなりのピンクフロイド好きだったらしく、エッセイでは何度も言及していますし、アルバム『鬱 / A Momentaly Laspe of Reason』 は小説『カンガルー・ノート』では少なからぬ役割を果たしていたはずです。

安部公房
さて、安部公房を思い出すと、その関連で大江健三郎のことも想起するのは、さほど意外ではないでしょう。1994年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎ですが、もし安部公房が生きていたら(亡くなったのは93年)、受賞していたのは安部公房のほうだっただろう、というのは有名な話。それを裏付ける証言が最近ノーベル委員会の委員長からありました(2012年3月23日 読売新聞)。

お互い認めあっていたこの二人の大作家を並べて読むのは実に面白い読書体験でしょう。二人とも好きな作家で、それこそ二十歳のころにはよく読んでいたものです。

時代的には戦後のほぼ同時代を生きていた二人ですが、書く小説は内容、手法ともに大きく異なります。

二人の作品の最大の違いは「完結性」でしょう。作品のひとつひとつが独立して、完成度の高い安部公房の作品に対し、大江健三郎のそれは開かれており、次の作品を予告し、前の作品から導かれます。

たとえを用いるならば、冬の寒空に燦然と輝く星にも似た安部公房の作品と、熱帯でお互い猥雑に絡み合った植物群のような大江健三郎の作品。

こうやって書いているうちに読みたくなって、本棚から取り出して読みはじめる。そこには昔の思い出も一緒に閉じてあって、読み返すことで再び巡り会う。私にとって彼らの作品は、自分の二十歳の頃と密接に結びついた、音楽のようなものなのです。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!

2012年6月24日日曜日

勝手に、祝一周年!

おはようございます。

このブログもなんと一周年。いやー、すごい。怖ろしい。

この間なにを書いていたかと、タグを追って読み返してみると、フランスについて書いたのは最初のほうだけで(フランスのお話タグ13のうち11が去年)、翻訳、文学タグだけで実に63を数えます(重複もあるでしょうが)。

さて、せっかくの一周年、しかも文学の話ばかりしてる、とあってはこの記念回もまた、文学の話をするしかないじゃありませんか。別に誰に引け目を感じることもないのだし。

今回は、「勝手に選んだ20代ベスト小説」
今年で20代に別れを告げる私が、20~29歳までのあいだに読んだ本の中から、好き勝手にベスト小説を選ぼう、というなんとも自分好みな企画です。

といっても一作に絞るのは至難のワザ。そこで長編、中編、短編で各一作ずつ、ということで。

長編は前回にもあげた『わたしの名は紅』この作品は構成の緊密さと抒情性の交わり方が絶妙。700pにもおよぶ大作で、描かれる小説内時間が僅かに三日というのも、幻惑的で良い。作者のイスタンブルに対する愛情の深さから来る都市描写(特に雪の景色)も美しい。

中編は幻想小説の作者としてよりも、宗教学者としても著名なミルチャ・エリアーデの『ムントゥリャサ通りで』。これも以前に紹介しています(『ムントゥリャサ通りで』)。これはロレンス・スターンの正統な嫡出子といえ、脱線に脱線を重ねていく。そう、子供の頃空に向けて放った矢が、大人になった今も戻ってこないように、期待して待つものは二度とやって来ず、予期せぬものが帰来するのです。

短編はフリオ・コルタサルの『南部高速道路』一択。個人的にこの作品以上の完成度を誇る短編小説はないと思っています。とにかく上手い。大都市近辺の高速道路で起こった渋滞という、いかにもありふれた題材を用いて、日常と非日常に境界なんてないんだと、実に見事に言い切っています。もうただ、脱帽ですね。

オルハン・パムク、ミルチャ・エリアーデ、フリオ・コルタサル。こう見ると西欧というメインカルチャーからの距離感が巧妙な三人の作品となりました。実に自分の嗜好に偏った選択ですね。でも、ベストな作品を選ぶなんてそんなもんでしょ?

これからも自分の趣味全開なブログでありたいと思います。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ゆがんだ階段

2012年6月21日木曜日

スタイルの問題

おはようございます。

スタイルとはなんだろう、と思えばとりあえず辞書を引いてみるぼが一番で、手元の仏和辞書でstyle を調べてみると、① 文体、② 様式、③ 流儀、といった具合で、述語を見れば、avoir du style で「独自の文体、スタイルを持つ」、style de vie で「ライフスタイル」とあります。

この語をさらに、仏仏辞書 Le Robert で見ると、ポール・ヴァレリーの次のような言葉に行き着きます。

Le style resulte d'une sensibilite speciale a l'egard du langage. Cela ne s'acquiert pas; mais cela se developpe.
スタイルは言葉に対する特別な感受性に由来する。それは手に入れるのでなく、発達するものだ。


今日はそんな、自分のスタイルに悩む人のお話です。

スタイルといえば、一番に思い出されるのが、2006年ノーベル文学賞受賞の作家、オルハン・パムクの代表作、『わたしの名は紅』でしょう。
この作品内では、スタイルに関する意見の相違ゆえに殺人が行われ、またスタイルの違いを見分けることで、犯人を見つけ出すという、実に文学的推理小説となっています。

舞台は16世紀のオスマントルコ治世下のイスタンブル。遠近法を駆使する西洋の魔術的絵画に驚き、動揺する細密画家たちが主人公です。

彼らにとって「美」とは、昔の名人たちが描いたように描く、ことであって自分らしさや、個性、その証としてのサイン、などは欠陥品の証拠のようなものであったのです。

けれども彼らが模倣に走る、過去の名人たちの絵にはいずれも、サインなどなくともまぎれもなくそれとわかる、スタイルが存在しているのです。

細密画家たちは、各々自分の技能と才能、そして名誉欲と相談しながら、絵とは何か、美とは何か、スタイルとは何か、を求めて手探りで、進んでいきます。

彼らにとって、スタイルとは結局いかなるものなのか。それは実際に読んで確かめてほしいと思いますが、最後にあえて私自身がスタイルを語るならば、それはどこか他の場所に探し求めるものではなく、まして見つかることなどありえないものであって、きっと自分の内側で発達させるものなのでしょう。
それが特別な資質だとは、認めるわけにはいかないのですけど。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!

2012年6月17日日曜日

心構え、門構え

おはようございます。前回からの続きです。

「君が代」において、石と苔は長く続くものの象徴として扱われています。さざれ石から巌になる、その過程自体、そもそも長い年月を包含しているのでもあります。

にもかかわらず、日本の建築様式に目をやってみると、伝統的に「建てかえる」ことを前提に造られているように、素人の私には思われます。

その代表例として、やはり伊勢神宮があげられるでしょう。20年に一度という、決して長くはないスパンで、そのすべてを全く新しく作り直す。そのような伝統が「継続して」古来より受け継がれているのは、他に類を見ないのではないでしょうか。

一方の西欧、「A rolling stone gathers no mosse」の諺に限っていえばイギリス、アメリカですが、そこでは石が様々な建築物に使われているのを目の当たりにするでしょう。

それらの堅固な建物を見ていると、この石、とてもじゃないが転がるような代物には見えない。

そんな堅さを象徴する石を、転がせる頭の柔らかさに、西欧文明の懐の深さを感じる、といっては言い過ぎな気がしますが、とにかく、それでも石の象徴する建物、そこに住む家族、国を捨てて、アメリカに転がっていった人々が、この諺を肯定的に捉えようとするのは、心境として非常によくわかるように思うのです。

二つの文化、箴言を比較して、面白いのは外面的に見られる文化はまさに正反対をなしている点です。継続を唱える日本文化は何度も建て替えが可能な、可塑性に富んだものを作り、一方の西欧文化は、変化を求めながらも、200年を超える歳月に耐え得るほど、堅固で不変なものを建てる、この矛盾。

これを矛盾とはせず、理にかなったものとするためには、もうひとつ別の次元を導入する必要があるでしょう。精神、心構えの次元を。

曰く、日本は技術、伝統を継承することで、可塑性を獲得しており、西欧は異なる思想の積み重ねと変遷をもってして、普遍性を得た、という風に。

まさにこれは各々の「スタイル」の問題でしょうが、これについてはまた、別の機会に。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
変わるとは、変わらないとはどういうことか。

2012年6月13日水曜日

Like a rolling stone

おはようございます。

洋の東西には正反対の諺があって、その違いがすなわち考え方の、ひいては行動の違いといえるでしょう。

私の好きな対立に、「見る前に跳べ」(日本)と「Il faut réfléchir avant d'agir / 行動する前によく考えよ」(フランス)があります。

これを以前にも紹介した(男らしく生きる)不在を追求する心理だと捉えれば、日本人は考えすぎて時機を逸し、フランス人は考えなしに動いてし損じる、というタイプが前提とされていることがわかります。

一方で、この不在追求型の心理の突き詰めた先にあるといえる、理想追求型の格言の比較もあります。

それが今回のテーマ、転がる石です。

A rolling stone gathers no moss. 日本語に訳せば「転がる石に苔はむさない」ですね。

本来、この諺には「落ち着きなく動き回っているものには能力は身につかない」の意味と、「いつも活動的に動き回っている人は持っている能力を錆び付かせることはない」の正反対の意味があります。ここでは、前者の意味で捉えて、話を進めたいと思います。

この語を聞くと、日本国歌の最後の一節、「苔のむすまで」を思い出すのは私だけではないはずです。

この二つの表現を較べると、前者が苔が生えることに否定的であるのに対し、後者が肯定的であることは一目瞭然です。

転がり続ける、変化し続けることで常に新しくいられる、という思想と、同じ場所にとどまり続ける忍耐が、巨大なひとつの塊になる、という発想。どちらが良い悪いの問題でないだけに、なおさら考え方の違いに惹かれます。

さて、あなたはどちらのタイプの石でしょうか?

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
転がらない石の集積。この話は次回に

2012年6月9日土曜日

活字中毒かもしれない

おはようございます。

クロード・シモンに代表される、視覚小説が好きだといっても、すなわち映像が好きということにはならず、むしろ嫌いだといってもいい。

けれど現代はまさに映像の時代で、今さらYouTube などをとりあげるまでもなく、「動画」って言葉自体、ここ数年に作られたという事実を指摘することすら、いくらか滑稽です。

そんな私なのに、どうも今年に入って映画を見る機会が格段に増えました。

これはいよいよ映像の前に膝をついたか、と思わせる出来事ですが、いろいろと考えてみるに、どうもそうらしくない。

なにしろ、字幕を見に映画館に通っているようなものですから。

耳から入る未知の言語と、画面下に書かれた日本語との音のギャップ。耳から入る音と、脳内で再生される音の相違はむしろ、目で見た文字の再生能力の強さを再発見させてくれる。

あるいは、英語やフランス語といった既知の言語との出会い。そこでは耳にした語と字幕、それに自らが翻訳した意味の三者が三様に脳内で入り乱れて、気が付けば別の場面に移っている、なんてこともしばしばです。

要は文字が、言葉が好きなんですね。夢に見るほどに。

夢の中でも本を読んでいる、より正確には活字になった夢を読んでいる、まさに活字中毒者にとって夢のような世界ですね。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年6月5日火曜日

スポーツ界を席巻するスペイン人選手

おはようございます。

本当はこのテーマ、一年前に書くつもりでした。

その時点でもうすでに、頂点を極めた後の、衰退の兆しが少なからず見えたものですが、テニスのラファエル・ナダルがランキング1位の座をジョコヴィッチに明け渡し、自転車のアルベルト・コンタドールが、真偽の疑わしいドーピング検査で陽性と診断され、二年間の追放をくらった今、いよいよその感を強くしています。

今は残すところ、サッカースペイン代表のみ、というところですが、さてEURO2012の結果はどうなることか。今から興味が尽きません。

しかし本当に、2000年代後半から2010年代序盤にかけて、スペイン人選手の活躍が目立ちましたね。先にあげたナダル、コンタドール、サッカースペイン代表そのいずれも、他を寄せ付けない圧倒的強さを、その最盛期には持っていました。

特に自転車好きの私としては、コンタドールがチーム内のライバルと目された偉大なる鉄人、ランス・アームストロングとの苛烈な争いに勝って得た、2009年のツール・ド・フランスでの走りが印象的です。

これらの素晴らしいスポーツ選手たちがなぜ、こんなにもまとめてひとつの国から出てきたのでしょうか。それを語ることはおろか、推測するのに必要なだけの情報・知識を持ち合わせていません。残念なことに。

マイヨ・ジョーヌの似合う男、コンタドール
けれど、現代のスペインの経済状況とのコントラストを見ると、ここに何らかの関連性を見出したくなるのが道理、というものでしょう。

若者の四人に一人が失業している国において、スポーツはとりわけ、欲望のはけ口であると同時に、希望でもあるのでしょう。

現代のスポーツ選手に求められている倫理観からも明らかなように、今やスポーツ選手は若者にとっての偶像、イコンであり、同時に現世的成功者でもあるでしょう。

今後の10年もスペイン勢が今のような強さを持ち続けているかは疑問ですが、聖と俗を併せ持った彼らスポーツ選手をめぐる狂騒が今後も続くであろうことは、より大きな可能性を持って、イエスと答えられるでしょう。

では、また。

Au revoir, à la prochaine fois!

2012年6月2日土曜日

翻訳の愉しみ

おはようございます。

昨日もシュペルヴィエルの翻訳を載せました。昨年末くらいから、少しずつではありますが継続的に、翻訳作業を続けています。

詩だったり、短い紀行文だったり、新聞記事だったり、やっているものはいろいろですが、面白いのはそのどれにも自分の色が見出せること。

良くも悪くも自分の文体が、訳した文章に出ている。それはもう、恥ずかしくなるくらいに。

語の選択、という最初期の段階で既にその兆候は表れ始め、最終的に文体の統一をすることで、頂点に達します。

もっともそれ以前、原文を選択する時点ですでに、私の嗜好が明らかになっているわけですが。

その好みの表出こそが、翻訳の愉しみのひとつであるわけです。

原文を読んでなんとなくいいなと思った、フレーズ、文章を日本語に、移しかえる。その際自分の中で言葉にならないまま、くすぶっていた思考に形が与えられる。訳された比喩が、探していた表現の空白にぴたりと当てはまる。

そしてなによりも、隠れていた自分の趣味をあぶり出すことができる。

原文で意味のよく掴めないままに訳した文章が、自分の頭の中にストンと落ちる。あるいは全く相いれずに異物として、いつまでもとどまり続ける。その異物が今度はある種のマイルストーンとなって、自分の中に価値の距離感を形成する。

翻訳という作業は、自分の中に存在する未知の領域を探索することでもあるのかもしれません。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
よーし、神戸押しだー!新長田駅前の鉄人28号

2012年6月1日金曜日

Planète / 惑星

PLANÈTE / 惑星

金星の上に日が昇る
かすけた物音がするこの星に。
眠りほうけた湖の上を
漕ぎ手のないボートは渡るだろうか
地上の思い出はふらつきながら、
この星まで来るだろうか
一輪の花は茎の上のその顔を
光さす方に傾けて
鳥たちのいない葦の茂みで
人気のない空気を華やかせるだろうか?


おはようございます。
昨日は休日で、翻訳を二つやったので、二回に分けて掲載しています。
もはや翻訳ついでに書くことがなく、同じことばかり書いている、かもしれませんがあえて言おう、私は視覚的作品が好きだ、と。草や花、馬といった、触れられる世界、ミクロな世界のものを通して、マクロな世界観を描く、シュペルヴィエルはなんと私好みなんでしょう。

ついでにいってしまえば、傑作『三枚続きの絵』で、草むらに横たわったバイクの、タイヤのホイールの隙間から伸び出す草を、細密に描写したクロード・シモンが私の最高にお気に入りの、作家であることは、むべなるかな。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
管制塔。 Sky High!