2012年2月28日火曜日

消え去った道化役者

おはようございます。

今日は昨日から続けて「笑い」の話を。

昨日は「笑い」が共有されたイメージによって惹起されている、と話しました。より正確にはそんな風に話したかった、ですが。今日はもう一点。

それは、笑いがひどく身近なものになった、ということ。
もっと言えば、日常において「笑わせる側に立つ」ことが非常に多くなった、と。

どういうことか。
言葉通り、といえばそれまでなのですが、あえて言い換えるならば、道化役者=トリックスターの消失だと言えないでしょうか。

道化役者=トリックスターとは本来、笑いとともに従来の社会構造に意義を唱える、とは少し強すぎる語ですが、社会に対し、意図の有無に関わらず、揺さぶりをかける存在でした。
文学用語でいうところの、「異化作用」を社会にもたらす存在であったわけです。

彼らを形作る要素のうち、とりわけ重要で根源的なもの、それは「外部・周縁の」存在者だということでしょう。中心から離れており、世に蔓延る常識から十分な距離を空けていることで、物事を客観視し、相対化する視点が得られたわけです。

そう考えると、トリックスターの消失はそのまま中心の喪失と関連性があると言えるはずで、ここではそう言いきってしまいましょう。

現代は明確な中心がある時代か、と聞かれれば多くの人がNOと答える。その理由は各々のあいだに存在する差異が限りなく広がったから、ではなく、むしろ反対に、扁平で画一化した個人の中に、限りない細部の差異を追求する時代になったから、ということでしょう。
そうである以上、トリックスターの、トリックスターとしての生存権は失われてしまう。

それでは、彼らはどこに消えてしまったのか?
群衆の中に紛れ込み、普通の人間を笑わせる立場に立たせる一方で、「笑えない」、「笑ってはいけない」世界の隅っこに追いやられた別の片割れがいます。

というわけで、次回もまたこの続きです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
この人は道化というより大道芸人の系譜でしょうか。
フランスでは今でもいろいろな人が巷で活躍していますね。

2012年2月27日月曜日

落ち武者考――共有化されたイメージ

ご無沙汰してます。

昨日、一昨日と久しぶりの連休でして、一昨日はプラネタリウムに、昨日は動物園にとまぁ休日を満喫したわけですが、動物園で面白い場面に遭遇したので、今日はその話を。

それは、オラウータンの赤ちゃんが入った檻の前での出来事。
若い男女のカップルがグループで一緒に見入ってて、はしゃぎながら、その中の女の子が一言、
「落ち武者みたい!」

で、まぁそのグループで笑いが湧いて、私はそれを見つめていたわけですよ。室外機の隣に放置されたゴリラの等身大模型と並んで。

そのとき思ったのは、その表現が面白いとか面白くないとか、そういうことじゃなくて、「落ち武者」のイメージの定型化、加えてそれを利用した定型化されたずらし方です。

その女の子はオラウータンの頭(髪)を見てそういったわけですが、この落ち武者=禿頭で蓬髪というイメージが現代では共有されていて、なおかつそれが笑いの場で使われることが前提となっているわけです。

これと併せて思い出されるのが、「小さいオッサン」目撃譚です。

二十代の女の子で、「小さいオッサンを見たことがある」と言い張る人が、あなたの身の回りにも一人や二人いるでしょう。
明らかにこれも文化的現象で、というのは十年前にはこんなことをのたまっていた人間は(少なくとも私の周りには)存在しなかったわけです。

ではどうしてそういう人間が出てきたか?と言われると、そこはシュルレアリスムの大家、ブルトン先生にお出ましいただくしかないのですが、要は人間の想像力というのは、「集団で見る夢」なんでしょうね。

テレビやネットで流布したイメージが人々の無意識下に潜り込み、自分の経験自体をイメージのほうに近づける。妖怪たちが絶滅したのも、社会集団がその夢を共有しなくなったからに他ならないでしょう。人間の想像力とは実に不思議な働きをするものです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
それにしてもパンダはかわいいなぁ。


2012年2月13日月曜日

二項対立から遠く離れて

おはようございます。

いつもどんなふうに本題に入ろうかと困っているのですが、今日はこのまま。

ここで二項対立と呼んでいるのは、物事を二元論的に考えること、つまり白か黒か、善か悪か、良いか悪いか、ばっさり分断してしまって、あいだの中間地点、グレーゾーンが存在しないような考え方のことです。

こんな話題を取り上げたのも、最近私の周りでこの傾向が顕著に見られるなぁと思うからでして。
ひとつには自分の思想、考え方以外はすべて悪だと捉える見方。もうひとつは「病気だから」と人をくくってしまうやり方。

前者に関してはよくある話だと思います。「酒の場では政治と宗教と野球の話はするな」と言われるのは、なるほど、それらが妥協点の見出しがたい――殊に酒の場においては――話題だからでしょう。

もう一点、ある人を「病気だから」と片づけてしまう。こちらが今回の本題です。

まぁ一言でいってしまうと、私はこのような考え方が嫌いでして。というのは、同じ職場で働いていた人が精神障害を持っている人だったのですが、その人が多少奇妙な行動、社会的に受け入れられない行動をとると、「あの人は病気だから」で片づけられてしまう、そのことに違和感を覚えるわけです。

それがその人を助けるのであれば、そのような考え方も受け入れられるのですが、むしろその人を排斥するような働きになっている。ポジティブな「病気だから」とネガティブなそれがあるわけですね。「病気だからしょうがない」と多少の無理を許すのか、「病気だから(言っても)しょうがない」と諦めてしまうのか。

そもそも「病気」の境界線がそんなにも画然としたものではないことは、臨床心理学者の中井久夫さんも言っておられます。現在介護を生業としている私は、常日頃から認知症の方を見てきていますが、これも脳の器質にれっきとした障害があるのですが、だからといって障害がない人と明確な区別がつくか、と言われたらそうではない。
より正確に言えば、「なんかしら障害のない人などいない」ということです。

目が悪い人がいれば鼻が悪い人もおり、手足が悪い人もストレスに人より弱い人もいて、そんな中で「どこも悪くない」というのは、それもまた病気の一種と捉えられるでしょう。

「寛容さ」それこそが二十一世紀に生きる我々に必要な要素ではないでしょうか。まぁ、言うは易し、行うは難し、なんですがね。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!

2012年2月9日木曜日

Point de flamme / 炎の指先

POINT DE FLAMME / 炎の指先

Tout le long de sa vie                       長い一生を通して彼は
Il avait aime a lire                             一本のろうそくをたよりにして
Avec une bougie                              本を読むのが好きだった
Et souvent il passait                          しばしば彼は
La main dessus la flamme                 炎の上に手をかざしては
Pour se persuader                            確かめようとしていた
Qu'il vivait,                                       生きている、
Qu'il vivait.                                       生きているんだと。
Depuis le jour de sa mort                  死んだあの日から彼は
IL tient a cote de lui                          火のついたろうそくのそばに
Une bougie allumee                          繋ぎ止められているけれど、
Mais garde les mains cachees.          両手は隠したままだ。


「蝋燭」は生の儚さを象徴するものとして、古くから使われている道具ですね。ここでは死後にも続く蝋燭の明かりが、より人の一生の短さを表現しているように思います。
表題ですが、炎の指先(先端の意味も)で間違いないはずですが、もしかすると、「指先の炎」の意味もあるのかもしれません。なわけで、舌先と訳したほうが炎という単語としっくりくるのですが、あえて指先と訳してみました。ま、後付けですが。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
説明することはなにもない。

2012年2月7日火曜日

世を忍ぶ仮の姿――放射的人生を生きる

おはようございます。

少し前に書いた「カフカ、コーネル、ピカシェット、偉大なる先人たち」に意外な数の反響があり、嬉しく思いました。今回はその話を少し敷衍したいと思います。

最近(ここ一年)の私の関心として、「臨床」という語があり、この大きな流れの中に組み込まれるような人をときどきに見つけては読んでいます。
で、今読んでいるのが中井久夫氏で、まあ精神科のほうではかなり有名な方だと思いますが、最近まで読んだことがありませんでした。

この方や故河合隼雄氏などの著作は、老人福祉に携わっている私にとって非常に面白く、また実践的です。現在の老人福祉業界が出版しているような底の浅い本でなく、精神医学の分野が積み重ねてきた歴史と、彼ら個人の個性や知性、それに臨床体験が加わって、結果として汎用性のあるものとなっています。(ちなみに底の浅い、と書いた老人福祉分野の本の多くは、およそ汎用性に乏しいものがほとんどです。その理由を前者のどこに置くかは人それぞれとして、個人的実感としては、最後に挙げた個人の個性や知性+臨床体験の貧しさが大きいと感じています。まぁ、これは余談です。)

さて、その中井氏の著作には統合失調症を扱っている文章が多いのですが、その中に面白い文章を見つけたので紹介したいと思います。

語られているのは、患者の「社会復帰」についてなのですが、著者は「社会復帰=仕事をする」という等式に疑問を投げかけています。さらに続けて、鈴木純一氏という方が述べたことを引用して、こう言っています。

わが国(日本)で社会的パワーを獲得するのは、職場を中心とする同心円的構造である・・・彼の国(イギリス)で社会的パワーを獲得するには、職場と全く無関係な、いくつもの場に根をおろすことができていると評価される必要があり、職場を中心に、ホビーも、談笑も、家族同士のつき合いもしている人もいないわけではないが、そういう人はあまり高く評価されないとのことである。
世に棲む患者(p.21-22) ちくま学芸文庫

このイギリスの構造を、日本の同心円的構造と比較して放射的構造と呼んでいます。
著者は続けて、社会復帰には二つの面がある、と言います。一つは職業の獲得、もう一つは「世に棲む」その棲み方、根の生やし方の獲得である、と。

この文章が書かれたのは1980年、つまり今から30年も昔になりますが、現在でも日本においては同心円的構造が安定した生活構造であることは事実です。しかしながらようやく、放射的構造を生きる人々がマイノリティとは言えない数になってきており、そうした生き方をすることに引け目を感じることも少なくなってきたのではないでしょうか。

仕事をしている自分はあくまで「世を忍ぶ仮の姿」であり、仕事とは、「この世に生きるために払う税金」のようなものであると考える(「といって、この価値観は仕事を楽しみ、また十分に有能であることの妨げになっていなかった」)。

「好きなことを仕事に」とは誰しも一度は思うことでしょうが、見方を変えれば、あくまで日本的な同心円的構造でのものの考え方だといえます。そして先の言葉を裏返して言えば、好きなことを仕事にしているからといって、その仕事で十分に有能であるとは限らないのです。仕事は仕事、好きなことは好きなことで楽しめばいいじゃない、そんな余裕を持って生きたいものです。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
アヴィニョン橋の上で踊りましょ~。正式にはサン・ベネゼ橋というらしいですよ。

2012年2月6日月曜日

王子と乞食

おはようございます。

昨日『匪賊の文化史』という本を読みました。
匪賊という社会的アウトサイダーがどのような環境、要因によって作り出されるのか、また社会にどのようにコミットしているのかを追求した本です。

その方法の是非はさておくとして、彼らの志向するところが「支配からの脱却」であることは言を待たず、それ故「都市的フラストレーションからの解放」を欲する現代人が彼らに、殊に彼らの代表的理想像であるロビン・フッドに憧れを抱くのも、不合理ではないでしょう。

彼らが求めているものを、「自由」と称していいのか、またこの躊躇いにはなにが含まれているのか、そのあたりを踏まえつつ表題の話に移ります。

『王子と乞食』はマーク・トウェインが1881年に発表した作品です。
内容はというと、王子と乞食、社会の両端にありながら、瓜二つの容姿を持った二人が、ふとした思いつきからその身分を交換して…というお話。

トウェインは『ハックルベリーフィンの冒険』を書いたことからも推測できるように、本質的にアウトサイダーや「自由」を追求する作家であったと思います。この物語もまた、その線上にあるものとして考えられます。

王子と乞食、この二つの身分が人間の持つ「自由」を両極端に表したもの、つまりは「権力欲」と「放浪癖」という、相容れないながらも志向する方向は同じ二つの願望を投影したものと考えられます。

それは、この二つがともに職業と呼ぶには抵抗がある点からも伺えます。つまりこれらは極めて象徴的な身分であり、一般の人間には実現不可能な夢、極論だと言えるでしょう。
普通の人間はこの二つの願望のあいだに揺られ、時にはこちら、別の時はあちらとたゆたうのでしょう。あるいは、一方に行けるところまで進んだり、自分の志向と現実に折り合いをつけて生きているのでしょう。

もっとも、これら二つの身分も、たとえ周縁的にせよ社会に組み込まれている点ではなんら変りなく、それらが象徴する各々の自由もまた、制限つきのものとならざるを得ません。そうした点で、『王子と乞食』の結末は象徴的です。
やはりマーク・トウェインは優れた「自由」の研究家だったのでしょう。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
道端のアイスクリーム屋さん。