2012年8月31日金曜日

本屋さんに求められる資質

――昔一緒に働いた友人へ
 
 
インターネット全盛の今でもなお、書物は、ひいては書店は知への入り口である、と思い続けたい。
 
では、良い知識(そんなものがあるとして)を得るためには良い書店を、というわけで私なりの基準をあげるならばそれは、
 
・ ジャンル分けに誰にでもわかる単純明快な規則があり、なおかつ
・ その構築された分野を越境する柔軟さを持っているか、
 
この二点に絞られる。
 
一見矛盾するこの二点、現実に即してみれば実に簡単なことで要は、本のサイズ(文庫や新書、単行本)と、本のサイズで分けた後にもなお、文庫本を関連した分野の棚、たとえば哲学思想、数学、文学、に置けるかどうか、という話。
 
客からすればとりたてて無理難題でもないこの話、肝心の書店員にとってはそうではない。なぜか。
 
売り上げが違うのである。
 
バーコードを読み取ると様々な情報が得られるのだが、そこに本の「分類」情報も入っている。
 
困ったことに、我々の考える分野と、バーコードの提供する「分類」とが、往々にして異なるのだ。
 
先にあげた例を持ち出すなら、同じ「哲学」分野の本であっても、文庫と新書、それに単行本とではバーコードに記載された「分類」が異なる。それはつまり、哲学書の担当者がどんなに頑張って「フーコー・コレクション(全6冊+別冊1)」や『精神疾患とパーソナリティ』を売り捌いたところで自分のところの売り上げにはならず、文庫担当者の手柄になる、、ということだ。
 
彼が売るべきはあくまで『監獄の誕生』であって『性の歴史(全3冊)』である。
 
ゆえになおさらのこと、その「分類」に縛られることなく本を売る姿勢は素晴らしい。これは販売する本の形而上下を問わない価値観だ。
 
そんなわけだから、マキャベリストを気取って弱者を切り捨てる経営者よりも、漫画とライトノベルを同じ棚に並べて売る一書店員のほうがより人類の積み重ねてきた知恵を有効に活用している、ということができる。
 
少なくとも 公正無私である、という得難い美徳のその一点において。
 
では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
サモトラケのニケ。ルーブル美術館にて
 
 


2012年8月25日土曜日

君が外文を読むべきいくつかの理由

おはようございます。

もし君がこれから本を読もうと思っているのなら、あるいは本を読むのは好きだけど海外文学はちょっと…と思っているのなら、一度書店の海外文学のコーナーに行ってみればいい。

そもそも海外文学の棚がまともにない、なんてそんな店に行ってはいけない。そんな店を書店と呼ぶのは間違いだ。

君を待ちうけているのは、誰もいない特別な空間だ。

海外文学を読む層は非常に薄い。パラフィン紙なみだ。

君が本屋に行ったとき、雑誌やコミックのコーナーには人があふれているのが見えるだろう。反面外文の通りは君一人だけの空間だ。君は誰に気兼ねすることも、邪魔されることもなく、じっくり本を選ぶことができる。

もし君が思春期を過ごす青年ならば、それは特別な印となり得るだろう(だからといってモテるとは限らない)。

君が手にするのはそれだけではない。君は見たことはもちろん、聞いたことも、想像もできない地名や人名、それに思想に出会うことができる。「国民」という枠は自分で想像する以上に強力に君を縛り付けている。その枠組みから束の間でも抜け出すことは、自分の今の限界を知るのに役立つ。

そしてこれが最も重要なのだが、海外文学を読むことで君は本当の孤独とはなにか、を知るだろう。

それは今読み終えたばかりの素晴らしい書物の感動を、誰とも共有することのできない哀しみのことだ。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ブキニスト。
 
 

2012年8月18日土曜日

ユマニスム

おはようございます。

ユマニスム / Humanisme とはなにか。それはヒューマニズムのフランス語読みである、だけではない。

Humanisme の英語読み、ヒューマニズムが人道主義的なニュアンスがあるのに対し、フランス語のユマニスムは人文主義の意味合いが強い。

ユマニスムの伝統は古来はギリシャ・ローマ時代にさかのぼることもできるのだろうが、より直系の先祖は、といえばルネサンス期、イタリアの文人ペトラルカになるようだ。それから、フランス思想史において本流ともいうべき位置を占めるようになる。

ここで最初の問い、ユマニスムとはなにか、に戻ろう。これについて、ツヴェタン・トドロフはその著作、『未完の菜園』で面白い答え方をしている。

人間は自由の代償に何を差し出すか、とトドロフは問う。

自由なんてなくていいじゃない、というのが保守主義者。
自由?そんなものはない。あるのは科学の法則を知る自由だけだ、というのが科学万能主義者。
個人主義者はたとえすべてを失うとしても、人間は自由の中で自我を開放すべきだと考える。
ユマニストはいう、自由は存在し、尊重すべきものである。ただしそれは人々がともに分かち合う価値、他の人々とともにある人生、そして自分を行為の責任者と見なし得る自我のことだ、と。

要はユマニストは、人間の自由意思の擁護者なのだ。

「人間の行為は多くの要因で条件付けられている。しかしだからといってそれで全面的に決定されているわけではない」(未完の菜園 p.98)

確かに人生には思い通りに行かないことがたくさんある。しかしその一方で、自分で決めてやるからこそ、価値があることもたくさんある。

ユマニスムの根底にあるのはつまるところ、人間(の自由意思)に対する信頼なのだろう。それは人間の生活が、「未完の菜園であり、自律性は花開くように世話をしてやらなければならない植物なのだ」(同 p.108) と感じるのであれば、なおさらに。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ユマニスムの殿堂(嘘)。

2012年8月17日金曜日

アンダードッグの憂鬱

おはようございます。

前回、才能とは二つの時期によってその最低限の輪郭が示されるのではないか、と話しました。

ここにもう一点、付け加えるのなら、その人を取り巻く「環境」がものをいうでしょう。

これはひとつ目の(物事を)始めた時期に深くかかわるものですが、同時にそれ以上の要素でもあるでしょう。

たとえばここに一人の子供がサッカー少年になることを夢見ていたとして、その目標を実現するためになにより必要なことは「実現するまで続ける」ことなのは言うまでもないわけで、要はどうすれば継続できるか、であって、それを支援してくれる親なのか、良い指導者はいるか、サッカーに興味を持ち続けられる状況か、これらの要素がすべて環境要因だといえます。

さて、ここまで読んでいただいた方にはお分かりいただけるかと思いますが、私は基本的に生まれ持っての才能、というやつをほとんど信じていません。

その一方で、その人の自由意思の外で決まっていることが、その人の人生に大きな影響を及ぼすことは大いに認めています。

では、決定論者であるか、といえばそうではない。

要はこの二回にわたって書いてきたことは、それを持ち得なかったものの僻みにすぎないのですよ。自分の意志でなにかをやろうと思い立ち、実際にやってみるのだけれど、「あの人にはとてもかなわない」という人たちがなんとたくさんいることか。

でもやるしかない。やらなきゃ舞台に上がった意味がない。いや、もしかすると同じ舞台上で語ることがおこがましく、そもそもスタート地点に立ってすらいないのかもしれないけれど、それでも自分の意志で続けることだけが、アンダードッグの矜持であり、また憂鬱なのでしょう。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
アンダードッグ?カピバラだよ!


2012年8月15日水曜日

二つの時期

おはようございます。

ロンドンオリンピックが閉会したようですね。日本は過去最多のメダルを獲得したそうです。

さて、今回はそんな選手たちの活躍を見て、「(プロ)スポーツ選手になるにはどうすればいいか」を考察したいと思います。

もちろん人生で一生懸命スポーツをしたのが中学までという、こんな私に技術論や精神論を語る資格など望むべくもないでしょう。ここでは、おそらく誰もが一度は考えたことのある「才能」の有無について考えたいのです。

そもそも「才能」という言葉自体が曖昧なもので、なにを指しているのかよくわかりません。ここでは、「同じ年齢で同じ練習をしても生まれてくる差」と規定しましょう。

才能と呼ばれるものの本質を掴むことは私にはできませんが、最低限の輪郭を描き出すことは可能だと思われます。二つの時期によってそれを定めることができるでしょう。

ひとつはそのスポーツを始めた時期。早ければ早いほどいい、とはほぼ全競技に共通する要素でしょう。ここに異論のある人はいないのではないでしょうか。

もうひとつは生まれた時期、つまり誕生日です。

4~6月生まれの子供が1~3月生まれの子供の約二倍プロ選手になりやすい、という統計があります。(参照:同学年において誕生月の差が子供に与える影響

なぜそうなるかは言わずもがな。日本の入学式が4月だからです。9月が新学期の始まりであるヨーロッパでは、9~11月生まれの子供がプロになりやすいという、やはり同様の結果があるようです。

考えてみれば同じ学年でも4月生まれと3月生まれとではおよそ1年の開きがあるわけで、この差が子供にとってとても大きなものであることは疑うべくもないでしょう。

そして重要なことは、優秀であればそれだけチャンスも多くなる、ということです。むしろこのことが一番大きいのではないでしょうか。

結論としては、現在の日本においては4~6月に生まれるほうが、というよりは4月に近ければ近いほうがチャンスに恵まれているのは間違いと思います。もちろん、そのチャンスを掴めるかどうかは、本人の努力にゆだねられています。4月生まれの人がみな、プロスポーツ選手になれるわけではないのですから…。

次回は、この法則が他の分野、芸術や学問にも適用されるのか、考えたいと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
オリンピック!!

2012年8月12日日曜日

友情――沈黙の誓約

おはようございます。

前回の続きを書こうと思って、クンデラの原典を探して我が家の本棚を漁っていたのですが、見つからず。あきらめたままに二週間近くが過ぎてしまいました。

どうやらエッセイ集『裏切られた遺言』に入っている気配なのですが、不幸にして我が家に見当たらず、正確な引用ができません。

そんなわけなので今回は仕方なく、私が覚えている限りでクンデラにとって「友情とはなにか」を話したいと思います。もちろん私の記憶に基づいているので、原典に忠実ではありません。正確な内容を知りたい方は是非、『裏切られた遺言』を手にとってみてください。

ある有名な女優と恋仲の噂があった男が死ぬ。人々は大挙してその男のただ一人の友人の下に押し寄せ、こう問いただす、「実際のところ、どうだったんだい?」と。
友人は返答を避ける。イエスとも、ノーとも言わない。ただ沈黙で答えるだけ。

友人の沈黙は、真実(というにはあまりに卑俗だが)を知りたがる人々の不興を買う。「もう彼は亡くなったのだから、言ってくれてもいいだろう」。人がなんと言おうが、友人の沈黙を破ることはできない。秘密は妻に対しても守られ、妻は夫の態度に憤慨し、夫婦の仲は険悪になる。

はたして友人は亡くなった男の秘密を知っていたのだろうか。それはここでは問題ではない、とクンデラはいう。大切なことは、友人が亡くなった男の知られるべきでない秘密を、その死後にいたるまで守り通したことだ。

この話を聞くまで友人とは、なんでも気兼ねなく話すことのできる人間のことだと思っていた、とクンデラはいう。しかしこの話を聞いてから、(あるいは共産主義下のチェコを生きてから)、他の人に対する沈黙の壁となってくれる人物こそ、なにより貴重な友人ではないかと思うようになったという。

友情とは、いわば死後にも続く沈黙の誓約なのだ、そのような考えは、友情というこの人の生において希少な光を放つ存在に、新たな角度から光を当てて、別の光輝を発見させる美しさではないでしょうか。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!


2012年8月2日木曜日

友情――淡交

お久しぶりです。

といっても一週間ほどしか間が空いてないんですね。自分の中ではかれこれ一か月くらいこのブログを書いていなかった印象です。ついでに言えば仏作文も。

じゃあこの一週間、なにをしてたのかといわれると、怠惰の極みであったと答えるしかないのです。普段日常的に行っている読書やフランス語の勉強、このブログのように文章を書くこと、果ては知人から来たメールの返信まで・・・すべてなおざりにしてきたのです。

生活にはリズムがあって、どうしても落ち込む期間が出てくるのは仕方のないことだと思いますが、今回はそのあまりの怠惰ぶりに、自己嫌悪に陥らんばかりです。

さて、今日から八月ということで、心を入れ替えて頑張ろうと思い、久しぶりにItalki.com やFacebook を覗いたわけです。

そこである友人からのメッセージを見つけました。

内容自体は別になんてことはない、普通の近況報告なのですが、この、あまりにも時機にかなったタイミングに思わず知らず笑みがこぼれてしまいました。

ここで思い出したのは友情に関する二つの言葉です。
ひとつは「淡交」。もうひとつはミラン・クンデラによる友人の定義です。今回は前者について。

「淡交」とは、真の友情について語った「荘子」中にある次の文章、

「君子之交淡如水 小人之交甘如醴」

に由来するようです。

「君子の交わりは淡きこと水の如く、小人の交わりは甘きこと醴(甘酒のようなもの)の如し」
と読まれるこの語句はつまり、真の友とは、順風満帆のときにあっては招かれたときにのみ現われ、逆境にあっては招かれずとも現われるものである、ということを意味しているそうです。

メールをくれた友人はまさに、私の知らぬうちにそのような真の友人と呼ぶに足る、必要不可欠な友となっていたのでしょう。

続きは次回。では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
水と緑の淡くはない交わり方