2012年8月17日金曜日

アンダードッグの憂鬱

おはようございます。

前回、才能とは二つの時期によってその最低限の輪郭が示されるのではないか、と話しました。

ここにもう一点、付け加えるのなら、その人を取り巻く「環境」がものをいうでしょう。

これはひとつ目の(物事を)始めた時期に深くかかわるものですが、同時にそれ以上の要素でもあるでしょう。

たとえばここに一人の子供がサッカー少年になることを夢見ていたとして、その目標を実現するためになにより必要なことは「実現するまで続ける」ことなのは言うまでもないわけで、要はどうすれば継続できるか、であって、それを支援してくれる親なのか、良い指導者はいるか、サッカーに興味を持ち続けられる状況か、これらの要素がすべて環境要因だといえます。

さて、ここまで読んでいただいた方にはお分かりいただけるかと思いますが、私は基本的に生まれ持っての才能、というやつをほとんど信じていません。

その一方で、その人の自由意思の外で決まっていることが、その人の人生に大きな影響を及ぼすことは大いに認めています。

では、決定論者であるか、といえばそうではない。

要はこの二回にわたって書いてきたことは、それを持ち得なかったものの僻みにすぎないのですよ。自分の意志でなにかをやろうと思い立ち、実際にやってみるのだけれど、「あの人にはとてもかなわない」という人たちがなんとたくさんいることか。

でもやるしかない。やらなきゃ舞台に上がった意味がない。いや、もしかすると同じ舞台上で語ることがおこがましく、そもそもスタート地点に立ってすらいないのかもしれないけれど、それでも自分の意志で続けることだけが、アンダードッグの矜持であり、また憂鬱なのでしょう。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
アンダードッグ?カピバラだよ!


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