2013年2月28日木曜日

2月、200回、2度目の別れ

何年も働いていると、季節の変化には鈍感になるくせに、人との別れには敏感になる。これが20年、30年と働き続けていればまた感じるところも変わるのだろうが、それはどうやらまだ先の話になりそうだ。

今日、職員が一人退職した。仕事上では決して、有能で、誰にも代わりが務まらない、なんて人ではなかったけれど、独特のムードを持っていて、そうした意味では変えのきかない人だった。

その人も私と同様異動組で、私より一足早く今の職場で働いていた。そして今回、一足先に去っていった。2度目の別れ。3度目を期待するには少し歳をとりすぎた。これでおしまい、同じことは3度続かない。

このブログも今回で無事200回を迎えた。100回の時には記念号を書いたけれど、今回はなしだ。まぁ、これがそんなものだけれど。「100回書いたからといって世界が変わるわけでもない」し、200回書いたって自分自身でさえそんなに変わらないが、300回、400回を目指して書き続けるのが、このブログのスタンス。

2月も今日で終わり。新年もだいぶ埃をかぶってきたけれども、元旦に立てた願いや目標は、まだ古びてないだろうか?――私の目標はまだピカピカで、新品同様だぜ。

さて、明日から3月。今日去った人に代わって、新たに別の人がやってくる。新しい月に、新しい出会い。なんでも新しいものがいいわけじゃないけど、やっぱり少し期待する。何度目だろうと、何歳だろうと、その期待も持てなくなってしまうほど、まだまだ歳とっちゃないだろう…。

Au revoir et à bientôt !
日本の春、といえば桜。春ももうすぐ
 


2013年2月24日日曜日

肉と体

肉体は悲しい。ああ!私はすべての書物を読んだ
――ステファヌ・マラルメ 『潮風』
 

今日はフランス語のお勉強といこう。

上に引用した詩人マラルメの文章、「肉体」にあたる単語は2つほど考えられる。ひとつは一般的によく使われる男性名詞、corps 。もうひとつはあまりなじみのない、女性名詞の chair のという単語。ここでは後者が使われている。上記の文を原文に戻してみると、

La chair est triste, hélas ! et j'ai lu tous les livres.
となる。

それぞれの単語の意味を個別に見ていこう。

chair をロワイヤル仏和中辞典第二版で調べると、次のような意味に当たる。
 
① 肉(体) ② ひき肉 ③ 果肉 ④ 肌(色) ⑤生身

chair の概念を最もよくあらわしているのが、「la chair et les os / 肉と骨」という使い方。つまりchair とは、体から骨を除いた部位のことだといえる。なんとまあ、実にニクニクしい単語だろう。

一方の corps 。これも同辞書で調べてみると、
 
① 物体 ② 身体・肉体 ③ 胴体 ④ 死体 ⑤ 身柄 ⑥ 本体 ⑦ 団体 ...

といった具合だ。
要はこちらの単語はそのまま日本語の「体」に当てはめることができそうだ。その抽象性も含め、実にしっくりとくる対応だろう。

ここからは余談。このchair という単語、どうやら象徴派の詩人たちに好んで使われていたらしく、マラルメと同時代の詩人、ヴェルレーヌも1896年に同名の詩集を出版している。おそらくは、使い古された身体(corps)に対する反逆なのだろう。

一方で、同時代の小説家、アナトール・フランスは、corps を使ってこんな風に書いている。

L'ame [...] est la substance ; le corps, l'apparence.
精神とは本質であり、肉体とはうわっつらのものである。

うーん、なんという肉体と精神の二元論。また、少し下った時代の天才少年、レイモン・ラディゲの長編処女小説のタイトルは、『Le Diable au corps / 肉体の悪魔』だった。ここでも、corps が暗示する精神 esprit âme との対比が生き残っているようだ。

最初に引用したマラルメの文章元は、詩 BRISE MARINE / 潮風 から。逃避を主題にしたこの詩を書いたマラルメ、逃れたかったのは、使い古された「身体」のあり方だったろうか。

Au revoir et à bientôt !
Le chaire / 説教壇。日本で見ることはまずない
 
参考辞書:ロワイヤル仏和中辞典 第二版(旺文社), Wictionnaire
 

2013年2月19日火曜日

フランス語学習者のための Kindle

Playstation も iPhone も、はじめはクソだったじゃねえか。
重要なのはその時点での完成度ではなくて、未来にかける可能性だ。

とにかく文字がキレイ。これマジです
とまあ、御託を並べてみたところで、私に各種ハードの将来性がわかるはずもない。そもそもKindle の発売元は世界最大の書店、Amazon.com なわけで、ゲーム業界に新規参入したSONY のPlaystation とも、携帯音楽プレイヤーでは圧倒的シェアを誇っていたものの、スマートフォン市場では後発だったApple の iPhone とも状況は違う。インフラ整備が完了しているKindle の一人勝ちは発売前から決まっていたようなものだったろう。

まあ、そんなことはどうでもいいだろう。一般の消費者にとって重要なのは使いやすさだ。それも「どれだけ自分に合っているか」なんて、横暴な価値観によって下される評価だ。なるほど、クソミソに言ったところで、おそらくなにも変わらない。だが、その商品をくさす権利がなくなるわけではないのだ。

Kindle Paperwhite を買ってまだ3日。早急に結論を下すのはよろしくないが、とりあえず現時点における、フランス語学習者から見た良い点、悪い点をそれぞれあげてみよう。誰かがこれを読んで、購入の参考にしてもらえれば幸いだ。

まずは良い点。

・ 「紙のように読める」という謳い文句が誇大広告になっていない、圧倒的読みやすさの e-ink ディスプレイ
・ 仏仏辞書が内蔵しており、ある程度のフランス語学習者であれば、Kindle だけで完結する
・ 20世紀以前の有名作家の作品はほとんど無料か、ただ同然で手に入る
・ 簡単に持ち運べる大きさ。普通のペーパーバックの大きさより少し小さいくらい

次に気になった点、悪い点。

・ 微妙に重い。正確には軽い(213g)のだが、重く感じてしまう。カバーをつけるとより一層だろう
・ 内蔵の仏仏辞書があまりよくない。個人的は Le Robert を使いたいのだが、Amazon.jp では未発売(使用する辞書を選択する機能があり、辞書の普及によってこの点は改善されると思われる。仏和辞書を使用することもいずれ可能になるだろう)
・ 著作権の切れた作者の本が多い代わりに、現代作家の作品はほとんどない
・ ページ送りや単語を調べるなど、一つの動作を行う際に画面が暗転する
・ カバー使用を前提とした作り。Kindle だけを持ち運ぶのは少し怖い

とまあ、こんな感じだろうか。

で、結局のところどうなの?買いなの?と聞かれたら、いろいろと不満点を挙げたものの、「絶対買いだね」と私なら答える。もっとも相手が「移動中でもずっと本を読んでいたい」、活字中毒な人間に限らせてもらうが。

明らかにこれは「移動中の使用」にこそ、最大の能力を発揮する製品であって、家なら普通の本が良い、って人も多いだろう。かく言う私もそんな一人だ。だが、e-ink の技術には圧倒された。この画面で読めるのなら、いろいろ不満はあるにせよこれで読んでもいいな、と思わせるだけの説得力がある。

フランス語学習者にとってはどうか。これは学習レベルや目的によるだろう。私が初学者なら、Kindle で本を読むのは間違いなく投げ出していた。だって、仏和辞書がないんだぜ?今も電子辞書を併用して使用しているものの、その機会はまれだ。残りはすべて Kindle 上で済ませられるからこそ意味がある。

あるいはフランス語上級者であっても、仏文学に興味のない場合はスルーだろう。バルザックだったり、モリエールだったり、サン・シモンだったり、ネルヴァルだったり、ドーデーだったり、ゴーティエだったり、ピエール・ロティだったりに興味がないのなら、避けた方が賢明だ。だって今のところ、そんなのしかないんだもの。

つまるところ、Kindle を買うべきフランス語学習者は、中級から上級レベルのフランス語を習得(仏仏辞書の使用に差支えがないレベル)しており、なおかつ仏文学(それも19世紀までの)に興味のある活字中毒者、ということになる。

そんなのニッチな市場だって?そんなの私だって、Amazon.com だってわかってる。だが「ニッチな市場」の獲得、それこそがネットの普及で最大限にまで拡大された、未来にかける可能性なんだろう。

Au revoir et à bientôt !
 



2013年2月15日金曜日

人肉 馬肉 あるいは猫肉

なんの小説だったか、必死に記憶を手繰り寄せても思い出せないが、馬の肉を食べた男の裁判が開かれる場面から始まる物語があった。あったはずなんだが、思いだせないぜ。

今ヨーロッパで馬肉の偽装問題が日々大きく報じられている。

「牛肉100%」と表示された加工食品の一部に、様々な比率で馬肉が混じっていたらしい。中には「馬肉100%」の肉もあったとか、なかったとか。

もちろんここで問題になっているのは、偽装表記の問題であって、「馬を食べる」ことの道義性ではない(はずだ)。だが、馬を食べることを禁忌と思う文化がヨーロッパ圏にはあることも、われわれ日本人は知っておいて損はない。あくまで推測だが、彼らにとって馬肉を食すことはすなわち、ペットの犬や猫を食べることに限りなく近い行為なのではないか。

Le Point.fr のC'est arrivé aujourd'hui がそれに関連してかしないでか、面白い記事を載せている。

1779年の2月14日はイギリスの海洋探検家、James Cook / ジェームズ・クックがハワイ島で命を落とした日だそうだ。そしてその死骸は、原住民たちによって肉が骨から削ぎ落とされ、焼かれた。

最終的に乗組員らの懇願によって、遺体の一部は返還され、海軍による正式な水葬に伏されたようだが、では婉曲に表現された残りの肉は、となるとおそらく、原住民によって食されたのであろうと推測される。

だからといって彼らを野蛮だとか、文明人でないとか非難するのは間違いだろう。それに反論するには、カニバリズムが人類の誕生から地球上のあまねく土地で行われていた(もちろんヨーロッパ大陸も例外ではない)習俗であることを指摘してもいい。

一つの文化で禁忌であるからといって、別の文化でもそうであるとは限らない。当然のことだが、一つの文化圏でしか生活していないと、その当たり前が見えてこない。中国の一部に存在する猫食文化を「野蛮」だと非難するのも的外れだろう。スイスの農村でも普通に食ってるみたいだぜ?アルプスの聖少女ハイジやペーターも食べてたかもしれないな。おじいさん?彼は間違いない、顔を見ればわかる。だからといって、それが「ハイジ」のアニメ化を阻止するものにはならないのだ。

だからといって、馬肉を牛肉と偽ることが許されるかって?それとこれとはまた別の話だろう。

Au revoir et à bientôt !
おし~えて、おじいーさん!――なにをだい、ハイジ?――ネコの食べ方をさ!
日本語のニュースサイトでも「馬肉」「偽装」で検索すればヒットする。適宜参照させていただいた。
 

2013年2月12日火曜日

DEEP BLUE / ディープ・ブルー

――一つ忠告してもいいですか?
――どうぞ。
――チェスで黒が先手を取るのはルール違反ですよ。

『Le Club des Incorrigibles Optimistes』 が面白い。800p近いヴォリュームの、まだプロローグと第一章しか読んでいないが、この雰囲気、会話、文章のリズム。大好きだ。2009年の高校生が選ぶゴンクール賞を受賞したこの作品、あらすじを簡単に紹介すると、

1959年、パリ。 12歳になる Michel は、パリのカフェやビストロで、親友の Nicolas と共に、ベビーフットに熱狂する毎日を送っていた。 学生相手には無敵の強さを誇る Michel-Nicolas のコンビは、気が向くと、Denfer-Rochereau 広場にある、大人達がたむろするBalto という Aubergne 地方の料理を供するビストロに、足を運ぶ。 Balto の常連には、1対2で、相手をしても決して負けたことのない、ベビーフットの名手の Samy がいたからだ。  
Balto の奥には、ビロードのカーテンがかかったドアがあり、時折、中年の男達がドアの向こうへ消えて行ったが、Michel のベビーフット仲間に、その部屋で、何が行われているのかを知る者は、いなかった。

ある日、飲み物を給仕したウェーターの Jacky が、ドアを開け放しにした折に、Michel は、ドアに近づく。 カーテンをめくるとドアに、『Le club des incorrigibles optimistes』と書かれた札が、掛けられていた。 好奇心に駆られ、その部屋に足を踏み入れた Michel は、チェスを挟み向かい合った男達の中に、ジョゼフ=ケッセルとジャン=ポール サルトルの姿を認める。
その部屋は、鉄のカーテンで遮られている東ヨーロッパ共産圏の国から来た、亡命者達が集る、チェスクラブだったのだ…

(『フランス語の本の読書記録』さんから引用させていただきました。URLは一番下にあります)

物語のスイッチは、12歳の早熟な少年 Michel がそのチェスクラブで受け入れられ、亡命者達からチェスを教わりながら東の話を聞くことで入れられる。チェスが物語の様々な場所で重要なファクターとなっているのを見るにつけ、またチェスと深い関わりのあったヴラジーミル・ナボコフのような亡命作家のことを思うにつれ、東ヨーロッパとチェスの深い相関性に思いを馳せずにいれない。

ガルリ・カスパロフ
さて、今日も Le Point.fr の『C'est arrivé aujourd'hui 』から。

1996年2月10日はIBMが開発したチェス専用スーパーコンピュータDeep Blue / ディープ・ブルー が、当時のチェス世界チャンピオンGarry Kimovich Kasparov / ガルリ・カスパロフを破った日である。もっとも、最終戦績はカスパロフの3勝1敗2分。人類の頭脳が1秒間に2億手の先読みを行うスーパーコンピュータに勝利したわけだ(翌年はディープ・ブルーがカスパロフに勝ち越している)。

この記事を読んで、Wikipedia でいろいろと調べていたのだが、これが面白い。カスパロフの経歴もとんでもないし、世界最強のコンピュータチェスプログラムを作ろうという試みは、ヒドラプロジェクトとして続いているらしい。チェスの世界ではプログラムが人間に負けることはほとんどないところまで来ているようだ。

あるいは将棋の世界では、プログラムはまだそこまでで強くない。取った駒を使用できる性質上、打つことのできる手がチェスに較べて圧倒的に多く、その分プログラミングにも複雑性が要求される。だが、そう遠くない未来に、機械が人間を凌駕することだけは間違いないようだ。

Deep Blue
特に面白かったのが、ディープ・ブルーの先駆者 Deep Thought / ディープ・ソートの名前の由来(これについては後日書く機会があるだろう)と、ディープ・ブルーの出現が、Arimaa / アリマアと呼ばれる新しい遊びを人間が創り出す契機となったこと。

アリマアの面白い点は、可能な手を端から検索するなど、いわば「力技」ともいえる従来の方法は通用せず、強いアリマアプログラムを作成するためには違ったアプローチが必要になると考えられる点にある。つまり、これまでのチェスプログラムとはまったく発想の異なるアプローチをしなければ、人間の頭脳を打ち負かすことはできない。

そう、これは新しい思考の発見であり、人間とコンピュータの新しい可能性の発見である。なんともわくわくする素敵な挑戦ではないだろうか。



Au revoir et à bientôt !
 
参照URL:  Wikipedia 各ページに名前から飛ぶことができます。
フランス語の本の読書記録 日本語でのフランス現代文学紹介はここが一番では?というくらい充実しています。オススメ。 

2013年2月10日日曜日

Mariage pour tous

君の家(部屋)の隣に男が一人引っ越してくる。彼は礼儀正しく、快活な青年で、君は一目で彼のことが気にいる。人当たりもいいが、近所付き合いを良くわきまえており、必要以上に干渉してくることはない。君たちの近所関係は極めて良好だ。

ある日、青年の家にもう一人別の男がやってくる。無愛想で挨拶もまともに交わさないこの男は、一日だけの短期滞在者かと思いきや、それからずっと隣の家に住みつく。男が君に危害を与えることはないが、家の前ですれ違っても、挨拶はおろか会釈すら交わさない。どうやら仕事もしていないようだ。ときおり隣からは怒声のような声が聞こえるようになる。君は青年に警告する、「あんな男と付き合うのはやめたほうがいい」。青年は苦笑する。

隣人の居候の存在にも慣れたころに、二人が揃って君のところにやってくる。青年は改めて居候のことを紹介する、「僕の婚約者です」と。


これが Mariage pour tous / すべての人に婚姻を の概要だ。

フランスでは昨日、火曜日から始められた110時間に及ぶ議論の結果、同性同士の結婚を認める法律を採択した。今後様々な困難が予想されるが、一度進めた針が元に戻るようなことはないだろう。

もちろん反対もある。パリでは連日、賛成派、反対派それぞれのデモが何万人の単位で繰り広げられている。デモの行列に子供が混じって、大人たちと同じように旗を振る光景には違和感がある。

だが大事なことは議論することだ。現在、アメリカ、イギリスでも同様の議論は喧しい。多くの国では同性婚を認める方向で議論されているようであるが、ソドムとゴモラを悪徳栄える都市とする宗教が大勢を占める国々のことだ、どうなっていくかはわからない。

かたや日本では、同性愛の存在は無視されている。多くの人にとって同性愛者はテレビで見る「オカマ」に分類され、半ば公然と嘲笑の対象とされているようにみえる。それは決して自分に身近な話題、議論に値することだと考えられていない。もし隣人が同性愛者だったら、という仮定は、荒唐無稽なものとして受け取られる。

そうじゃないだろう。これは消費税が上がる、というのと同じくらい身近な問題だ。政治家が議論しないのなら、市井の人で話し合おう。日本で同性婚が議論されないのは、同性愛者が少ない、いないからではなく、「臭いものに蓋」の国民性で、見ないふりをしているだけだから。

「父親(母親)しかいないのは、子供の成長にとってよくない」なんて、ただのキレイごとだ。――本当は自分が尻の穴を掘られるのを恐れているだけなんだろう?父親しか、母親しかいないながらも立派に育った子供はたくさんおり、それ以上に父母がいながらダメ人間になった子供の数は多い。上手くいっている夫婦もあれば、上手くいかない夫夫もあり、教育熱心な婦婦もあれば、そうでない夫婦もあり。逆もまたしかりだ。


君の家の隣に、男が一人引っ越してくる。彼は好青年で、同性愛者だ。君たちは上手くやっているが、ある日やってきた彼の婚約者はならず者だ。二人が君の家を訪れ、同性愛関係を告げる時、君が浮かべるのは事実を否定する苦笑いだろうか?あるいはすべてを受け入れたうえで、あえてこう忠告するだろうか、「もっといい男を探しなさい」と。

Au revoir et à bientôt !
Deux femmes s'embrassent lors d'une manifestation en faveur du mariage pour tous, à Paris le 27 janvier 2013 Kenzo Tribouillard afp.com
 
参照サイト:「Mariage pour tous」で検索すればフランスの様々なサイトがヒットする。今回はいつものように 20minutes.fr の記事 を主に参照させていただいた。

2013年2月6日水曜日

決闘の様式美――プルーストの場合

先日AKB48の峯岸みなみ丸刈り騒動に対するフランスでの反応を紹介した。そのうちの何人かが、彼女の行動を「名誉(あるいは面目)」の観念と結び付けており、中にはそれがフランスでは失われた観念だ、と皮肉たっぷりに述べているのもあった。

それじゃあ君たちは名誉をどんなふうに考えているのか。一つ見てみようじゃないか。

Le Point.fr に"C'est arrivé aujourd'hui" という記事がある。毎日歴史上で起きた同日の出来事を振り返るもので、要はフランス版「今日はなんの日?」だ。

それによると1896年のこの日、若きプルーストがMoudon の森で決闘をした。

相手のJean Lorrain は当時42歳の批評家兼劇作家で、19世紀末フランスデカダンスの代表的人物であったようだ。その筆先は鋭く残酷で、それが因果でこれまでにも何度か決闘沙汰を起こしたことがある。うん、うぬぼれ屋の完璧なステレオタイプだな。

事の発端はこの批評家がプルーストの同性愛について記事の中で言及したことにある。

ジャン・ロランはLe Journal 誌上で、プルーストの最初の小説、『Les plaisirs et les jours / 喜びと日々』をこきおろしている。

その中で彼はプルーストのことを「弱虫」だとか、「希少種」などと揶揄しているわけだが、それが決闘の理由ではない。彼はプルーストの次作にアルフォンス・ドーデーが序文を書いたことに対して、「(ドーデーの)息子のリュシアンのために断れなかったのだろう」と書いている。これは読む人が読めば、プルーストとリュシアン・ドーデーとの同性愛関係の仄めかし、と了解される。

これにプルーストが激怒した。決闘は規定通り二人の介添え人とともに夜明け前に行われた。

ところでなぜ、ロランはそうまでプルーストに突っかかったのか?――最も可能性の高い仮説は、プルーストに対する嫉妬だ。

プルーストは Robert de Montesquiou という紳士から庇護されており、対してロランはといえば、相手にされず、あろうことか軽蔑されていたのだ。そのことに彼は嫉妬していたのだという。

…くだらないぜ。実にしょうもない、どうでもいい話だ。ニュースのタネとしては、先日の丸刈り騒動と同等、あるいはそれ以下の価値しかない。

さて、決闘はおよそ文学的な結末に終わった。二人はお互いにピストルを地面に向けて打ち合うことで同意(!)し、その後プルーストに至っては、仲直りの握手さえしようとしたのだ!

プルーストの傷つけられた名誉とは一体、どこに行ってしまったのだろう?なるほど、確かに誰をも傷つけない解決法だ。だがそれならば、そんなあらかじめ了承された決闘の真似事などして、何の意味があるのだろう?そんなものははた迷惑でしかないだろう。

答えは前回の丸刈り動画と同じことだ。二つの出来事の根底には、「命を懸ける」ふりをすること、パフォーマンスとしての丸刈り(切腹の代替行為?)、決闘がある。はたから見れば愚かしいとしか思えないその行為が、意味記号(=Signe)を共有する社会の中では、立派に命がけの行為として通用する。する側と見る側の共犯関係。

プルーストはこの記号論的行為を生涯誇りにしていた。これが彼の「最も男らしかった」記憶であり、彼の名誉は、この行為によって回復されたのである…。Ha ha ha, なんて素晴らしい名誉観!

Au revoir et à bientôt !
Marcel Proust (à gauche), a provoqué en duel Jean Lorrain.© DR

参照URL:Le Point.fr C'est arrivé aujourd'hui 6 février 1897


2013年2月4日月曜日

そんな名誉は犬の糞みたいに持ち帰れ

コンセプトは「腹を切れるアイドル」。

AKB48の Minami Minegishi / 峯岸みなみ が先日、恋人との一夜をスクープされ、l頭を丸刈りにして謝罪する動画をネットにアップし、話題になった(2/4 付けで削除)。

――って、誰だよそれ!

ごめん、私はまったく知らなかった。ニュースによると、AKB48の最初期から在籍しているメンバーなのだそう。へぇ。テレビを全く見ない私と比較するのもあれだが、一部のコアなファンを除けば、一般の人の反応はそれよりも少しまし、くらいなもんだろう。

自分がまったく知らない・興味のない分野のニュースにぶっ込むのも、このニュースがフランスでも配信され、少なからぬコメントがついていたからだ。やや軽めのニュースサイト、20minutes.fr 2/4 付けでFacebook のいいね!を791と、同ページ上で33のコメントがついている。
参照:20minutes.fr Une popstar japonaise se rase la tête après avoir passé la nuit avec son boyfriend

これは、先日北海道の十勝地方で観測した震度5強の地震に対するコメントが0、安部総理の隣国に対する断固たる姿勢を報じたニュースに対するものが1しかないことに較べれば、いかにフランス人の興味をそそったか、よくわかる数字だ。

報道内容と反応を見ていこう。

「L'acte de contrition ultime. / 悔恨の究極の形」と題し、彼女が丸刈りにした理由を述べている。
AKB48内では恋愛が禁止されており、それに違反したことに対する謝罪として、「誰にも相談せず」頭を剃ったのだという。
「Au pays du seppuku / 切腹の伝統がある国で」、13歳の頃からアイドルとしての活動を始めた彼女が、このような公的な辱めを自ら選んだのにはどのような脅迫観念が存在していたのか。
プロデューサーの秋元康は金曜日、彼女のメンバー降格を言い渡した。これは比較的マシな処置だという。同様の状況において、多くの少女たちがこの冷酷な男によって追放された。

この「吐き気を催す」行為に対する反応として至極当然なのが、「20歳の女の子に恋愛禁止なんてありえない!」というものだ。おそらく、多くの日本人もこれに同意するだろうし、そもそも彼女らが恋愛していようがいまいが、どうでもいいことだ。

あるいは「machisme / 男性優位主義、男尊女卑」の観点から見たコメント。恋愛禁止といった馬鹿げた規則を作った人間の「machisme」が非難している。その一方で、「アイドルは大衆の理想像であるべき存在。男性アイドルであってもそれは一緒」といった、悟ったような意見も見られる。

気になるのはこれを「日本人の国民性」だと解したコメントが少なくなかったことだ。

いや、日本人から見ても異常です。記事自体が「seppuku / 切腹」を引用しミスリーディングを誘っているところもあるが、この行為を日本人の「l'honneur / 名誉」の観念としているコメントも多い。中には、「フランスではこのような名誉の観念は失われて久しい」と嘲笑的ととれるコメントもある。

こんな吐き気を催す名誉の観念が、今も日本に残っているのか?表に出ることは少ないが、やはりあるのだろう。道端で犬の糞を見かけることは少なくなったが、犬が糞をしなくなったわけではないように、日本人の精神性を読み解く上で欠かせない、裏の文脈として生き延びているのだろうか?私にはわからない。
なるほど、日本人にも理解しがたい精神性が、パリの街中至るところに落ちている犬の糞(merde du chien)を踏んづけて、「Merde ! / クソがっ!」と叫ぶフランス人に、理解できるはずもない。

Au revoir et à bientôt !
パリは脱糞天国。
 

2013年2月1日金曜日

自由をドングリと引き換えにして

妻が家を買う気になっている。

確かにそろそろ家を買うのもいいかな、なんて話をした。ネットでいろいろ調べて、あれがいい、これがいいとか言いはした。でもあくまで購入は2,3年後の話であって、今はそのために必要な資金を貯めるのが先決だと思っていた。

――どうやら、私の思い過ごしだったようだ。今やすっかり今年中、いや3ヶ月以内に購入しようという勢いになっており、先日はついに物件を見に行きさえした。この案件はもはや私の手から離れてしまった。もうどうしようもない。私はただ唖然として、成り行きを見守るだけだ。

もっとも個人的には、風雨をしのぐ壁と天井があって、本を収納するだけの十分なスペースがあれば、それ以上はなにも言うつもりはない。投げやりなのではない、精神の自由を保持し続けているだけだ。

人間の居住への執着心には驚くべきものがある。これが古来からのものなのか、といえば居住に関してはそうかもしれないが、定住に関してならNon だ。

『古代文明と気候大変動』の著者、ブライアン・フェイガンによると、人間の生活スタイルは気候に大きく左右されているという。これまで幾度となく大小寒暖様々な気候の波が地球上に押し寄せ、そのたびに人類はその生活形態を改めてきた。

人類が本格的に定住生活を始めたのは前13000年以降、2000年に渡って降雨量が飛躍的に増加した結果である。急速な温暖化に伴い大型動物の多くがこの期間に絶滅した(マンモスなどはその最たる例だ)。代わりに、ドングリやピスタチオといった食用可能な実をつける樹木が勢力を拡大し、人類は安定した食料となるそれらを求めて、森林の近くに居を構えた。

安定した食糧源を得る代償として、人々はそれまで最大の長所だった能力、すなわち環境に合わせて移動する柔軟性や社会の流動性を失った。ドングリを食用とするには、膨大な時間を加工作業に割かねばならなかったのだ。人間はドングリと引き換えに自由を失ったのである。

先日日本の東京で、4000年前の縄文時代の人骨が発見されたとニュースで報じられた。そのニュースの報道の仕方が、あまりに現代東京史上主義であったのには思わず笑った。「およそ4000年前の東京人。縄文時代の骨が見つかったのは都会のど真ん中…」と言ってのけるには、よほどの厚顔さが必要だろう。4000年の昔から、そこには高層ビルが建ち並んでいたようだ。
(引用:テレ朝NEWS 4000年前の生活は?新宿区で縄文時代の人骨発見

ここには今に腰を据えて安住する傲慢さがあるだろう。40万~25万年前まで遡るホモ・サピエンスの進化史や、約7万年前から住んでいたと考えられる日本列島民の存在はここでは考慮されておらず、最大限遡行しても江戸時代からのたかだか400年の歴史を中心に据えた、狭隘な視界しかない。

誰だって生まれる時代や場所を選ぶことはできない。だが大人になれば、どこに視座を置くかは自由だ。その位置すら固定してしまったら、それこそ人間に残された最後の長所すら、自ら放棄することになる。ホモ・サピエンスが最後まで持ち続けてきた心の自由すらも、精神的保守主義と交換してしまうのか?それは、ドングリと交換された移動の自由よりなお悪いだろう。

移動の自由は失ったとしても、考える自由までは手放さない。今に腰を据えて安住せず、どこまでも歩いて見て回る。そうすれば気候の変化も狩の獲物も、ドングリだって見つかるだろう。そんな風に自分の足で頭で考えて見て回る、それが大人になるということだ。

Au revoir et a bientot !
エズの街並み。人類はこんなところにも住むんです
参考文献:『古代文明と気候大変動』ブライアン・フェイガン著 河出文庫 2011年第7版