2012年1月13日金曜日

大人の中の子供たち――プルーストを読む

おはようございます。

今日は約束通り、プルーストについて。

『失われた時を求めて』を読むのは今回が三度目となるのですが、以前の二回はいずれも途中で放棄しています。どちらのときもさして面白いと思った記憶がなく、途中でやめることにもさして抵抗がなかったものです。

まぁしかしです、二十代最後の歳になって読んでみると、その面白いこと!文章一行だけでご飯三杯はいける、と言ったかもしれない誰かの気持ちがわかるかもしれない、そんな気分です。

どんな本にもおそらくその本を読むべき適齢期というのがあって、上手くその時期に読んだ本というのは、その後も長く人生に影響を持ち続ける、という気がします。もちろんこれは本だけに限ったことではなく、映画や絵画、音楽にも言えることでしょう。

個人的な話をさせていただくと、高校一年生のときに古本屋でカフカの『変身』を100円で買っていなければ、今頃海外文学とは無縁のまま過ごしていたように思われてなりません。人との出会いと同じように、あるいはそれ以上に本との出会いは大きな影響を持っていると感じます。

さて、プルーストに話を戻しましょう。今の私がこの本を面白いと思える理由、それはこの本が全編「回想」から成り立っているからで、これが今、昔のことをしばしば思い返しては反芻している、すっかり隠居生活に慣れ切った老人のような私の人生の軌跡と、見事に重なっているからなのです。

加えて言うならば、読書体験としてクロード・シモンを通過しているのも大きいでしょう。彼はこの10年のあいだ、私の中のNo.1作家の地位を守り続けている孤高にして至高の作家なのですが、この人の書くものときたら、プルーストに輪をかけて回想的なのですから。時代的にも表現方法としてもプルーストの正統な後継者と言えるでしょう。

もう一点、今回読んで新しく気付いたこと、それは作者が「大人の中に潜む子供らしさ(あるいはその反対)」を非常に多く見つけ出し、その発見を楽しそうに書いている、ということです。

自分の病気を「大したことないですよ」と過小評価する客は二度と呼ばない叔母、近くの隣人より遠くの他人の不幸に涙を流すフランソワ―ズ、そして不都合なことを眼前にして、見て見ないふりをするという大人の悪癖をすでに身につけている幼年時代の主人公=作者…。

『失われた時を求めて』をじっくりと時間をかけて読む。それは「人生の継続性」について思いめぐらすことが習慣のようになった私のような子供以上、大人未満な人間にはまことに時宜を得た読書ということができるのです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
最近本当に歳をとったなぁと思う。けれど別にイヤじゃない。
写真は二十代の前半を過ごした金沢の二十一世紀美術館。たまにはこんな写真もいいよね。

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