2012年1月27日金曜日

「ダブル」と変身願望

おはようございます。10日ぶりの更新です。

もう二週間前のことですが、ある映画を見てきました。
『デビルズ・ダブル』。サダム・フセインの息子ウダイとその影武者にさせられた男、主演のドミニク・クーパーの一人二役が実にハマっている作品です。

そう、今回はタイトル通り、「ダブル」なお話です。

この主題、文学では古くから大いに使われてきたもので、私としてはこの文章を書く前に、思いついた二冊の「ダブル」関係の本を読もうと思ったわけです。まあそれが理由で更新が遅れたと思ってもらえれば…。
その二冊とは、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』、ドストエフスキーの『二重人格』です。

この二作、テーマが共にダブル=二重人格なのは疑いを入れないところですが、題材の扱い方が実に対照的。一方は品行方正なイギリス人紳士の影の面、もう一方は冴えない中年男の、これまた冴えない理想像。

この二つを同時期に読むと、ドストエフスキーの文章の冗漫さが改めて浮き彫りになります。というより、この作品はゴーゴリの模倣著しく(ほとんど『鼻』そのものと言ってもいいでしょう)、とても一人の立派な作者の作品とは言えません。

それはまぁそれとして、この二作には共通点もあります。それは、「当人の満たされなかった影の一面がもう一人(一方)の人格を形成する」という、「ダブル」のテーマには必要不可欠な要素です。
つまるところ、これは変身譚の一種だということができるでしょう。

対して映画『デビルズ・ダブル』のほうは、この法則を上手く崩していると言えるでしょう。
影武者を必要とするウダイは、すべてを己の望むがままにできる欲望の権化、欲求不満の影がない男です。
対する主人公は、そんな男に対し、一瞬だけ心惹かれるように見えるも、ついには最後まで自分自身であり続ける、意志の人間です。

有り体に言えば、自分に忠実すぎる二人の男の相克の物語なのです。

このダブル=変身願望という構図を見事に裏返している、この映画とそれを巡る思考は実に刺激的な経験となりました。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ダブルに必須な道具と言えば鏡ですね。映画でも小説でも印象的な場面で使用されています。

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