2012年1月5日木曜日

正月は炬燵で読書

おはようございます。

正月ですね、新年です。
外は寒いし、テレビは特番ばかりでつまらない。そんな時は炬燵に籠って本を読むに限ります。
もっとも我が家には、テレビもこたつも、あろうことか正月休みさえないのですが。このブログはいつもと変わらぬ日常からお送りしております。

それでも、正月なんて全く関係のない私であっても、毎年この季節になると、なぜかやたらに本が読みたくなります。それも、かつて読んだことのある本の再読することに病みつきになります。これはなんでしょう、病気でしょうか。

まあなんにしろ、冬は再読の季節というわけです。

私は25歳くらいまでは、毎年ドストエフスキーの全作品を読み直すのが恒例行事みたいになっていたのですが、ここ数年はその習慣もぱたりと途絶えています。
もちろんこの間も読もうと試み、また読みたいと思って一冊二冊は読むのですが、どうも続かない。とてもじゃないが、全作品を読み返そうという気になれないのです。

年をとったから、と言われれば確かにそれもあるのでしょう。なにしろ、ここ1,2年で読む本の傾向も数も随分と変わりましたし。
また、よく「青年時代はドストエフスキーに耽溺し、年をとるとトルストイを好む」といったことを聞きますが(誰から!?)、じゃあトルストイを読むか、と言われたら全く読まない。あんなものはちょっと良くできたメロドラマだと今でも思ってます(だからといってすごくないか、と言われたらそうでないところが文豪たる由縁なのでしょう)。

ドストエフスキーとトルストイ、二人の作家に共通する点、そして私が読みとおせないわけ、それは「登場人物があまりにもキャラクタにすぎる」という一点に尽きるでしょう。そういった点からすれば、今のライトノヴェルの読者はドストエフスキー、好きなんじゃないでしょうか。私の中では良くも悪くも、スタンダールの系譜に連なる19世紀の小説家だなぁというのが正直なところです。

また、ドストエフスキーには他にも悪癖があって、冗漫だとか、冗長だとか、無駄に文章が長いとか、いろいろあるのです。

人間っていうものは多かれ少なかれ様々に矛盾した要素を抱えていて、それを小説に書いてしまうと、「人格破綻者」だと捉えかねられないのですが、それこそが人間で、またそうした人物を上手く書くからこそ、「小説家」だと言えるのではないでしょうか。

「この人物の性格からして、この場面でこんな風に行動するとは考えられない。したがって本当らしくない」なんて批評は本来成り立たないはずです。

人はいともたやすく自分の性格という枠を飛び越えるし、かと思えば必要以上にその枠にとらわれ、籠りきりになる、そんな変わった生きものなのですから。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
教会から町を見渡す。
追記:文中でドストエフスキーを「キャラクター小説の作者」だとトルストイと一緒くたにして評していますが、その枠を(はじめて)超え出たのがドストエフスキーだ、というのが本当でしょう。その傾向は後期の作品で特に顕著で、『カラマーゾフの兄弟』はその最たる例ではないでしょうか。あくまで「キャラクター小説」の枠を使っていた作家という意味でこんな風に書かせていただきました。その枠を無視する作家が世に登場するのは、おそらくカフカまで待たねばならないでしょう。

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