2012年1月31日火曜日

Les yeux de la morte / 死者のまなざし

LES YEUX DE LA MORTE / 死者のまなざし

Cette morte que je sais                             彼女のことを僕は知っている
Et qui s'est tant meconnue                         現世では不遇をかこち
Garde encor au fond du ciel                      今でもまだ空の底から離れずに
Un regard qui l'extenue.                            彼女を苦しめる視線の下に曝されている。

Une rose de drap, sourde                         鉄製の茎の上の、
Sur une tige de fer,                                   羅紗作りのひそやかなバラ
Et des perles dont toujours                       真珠は今もまだ
Une regagne les mers.                              海から採取されている。

De l'autre cote d'Altair                             アルタイ山脈の向こう側で
Elle lisse ses cheveux                               髪の手入れをしている彼女は
Et ne sait pas si ses yeux                          瞳を閉じようと、あるいは開けようとしているのか
Vont se fermer ou s'ouvrir.                      わかってないんだ。


おはようございます。
一か月ぶりにシュペルヴィエルの詩集の翻訳です。
この詩は『Gravitation / 万有引力』中の「Le miroir des morts / 死者たちの映し鏡」 の巻頭詩になります。このブログで前回「ダブル」のテーマをして、鏡繋がりということで。
やはり、「生と死」という鏡の裏表は魅力的なテーマなのでしょう。この章はこのあと、「miroir / 鏡」、「Pointe de flamme / 炎の指先」、「La belle morte / 美しい死者」と続いていきます。機会があれば、またアップしたいと思います。

では、、また。
Au revoir, à la prochiane fois!
フランスの平野は本当にどこまで行っても平らですね。

2012年1月27日金曜日

「ダブル」と変身願望

おはようございます。10日ぶりの更新です。

もう二週間前のことですが、ある映画を見てきました。
『デビルズ・ダブル』。サダム・フセインの息子ウダイとその影武者にさせられた男、主演のドミニク・クーパーの一人二役が実にハマっている作品です。

そう、今回はタイトル通り、「ダブル」なお話です。

この主題、文学では古くから大いに使われてきたもので、私としてはこの文章を書く前に、思いついた二冊の「ダブル」関係の本を読もうと思ったわけです。まあそれが理由で更新が遅れたと思ってもらえれば…。
その二冊とは、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』、ドストエフスキーの『二重人格』です。

この二作、テーマが共にダブル=二重人格なのは疑いを入れないところですが、題材の扱い方が実に対照的。一方は品行方正なイギリス人紳士の影の面、もう一方は冴えない中年男の、これまた冴えない理想像。

この二つを同時期に読むと、ドストエフスキーの文章の冗漫さが改めて浮き彫りになります。というより、この作品はゴーゴリの模倣著しく(ほとんど『鼻』そのものと言ってもいいでしょう)、とても一人の立派な作者の作品とは言えません。

それはまぁそれとして、この二作には共通点もあります。それは、「当人の満たされなかった影の一面がもう一人(一方)の人格を形成する」という、「ダブル」のテーマには必要不可欠な要素です。
つまるところ、これは変身譚の一種だということができるでしょう。

対して映画『デビルズ・ダブル』のほうは、この法則を上手く崩していると言えるでしょう。
影武者を必要とするウダイは、すべてを己の望むがままにできる欲望の権化、欲求不満の影がない男です。
対する主人公は、そんな男に対し、一瞬だけ心惹かれるように見えるも、ついには最後まで自分自身であり続ける、意志の人間です。

有り体に言えば、自分に忠実すぎる二人の男の相克の物語なのです。

このダブル=変身願望という構図を見事に裏返している、この映画とそれを巡る思考は実に刺激的な経験となりました。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ダブルに必須な道具と言えば鏡ですね。映画でも小説でも印象的な場面で使用されています。

2012年1月17日火曜日

Re: ~し直す

おはようございます。

新年も早半月が経ちました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私はといえば、新しい友達ができたり、初めて一人で映画に行ったり、他にもいろいろな「はじめて」を経験しており、なんとなく今年はいい年になりそうな予感がしています。

さて、そんな私が今年よくやっていること、それがタイトルにもある「~し直す」ことです。

3,4回前でも書いた「読み返す」行為もそうですが、なんと言っても「思い返す」こと、これが実に多い。

なんでしょうか、30歳を目前にして、異常に記憶の中にあるものが甦ってくるのです。それは自分で掘り返すこともあれば、自然に甦ってくることもあり、どうにも自分ではコントロールできない部分が大きいようにも感じます。

もとより自分の性格として、このやり直しの行為、作業を非常に好んでいる、ということもあります。
一度書いた文章を二度三度書き直すことはしょっちゅうです(このブログも一度ノートに書いたものを再度パソコンで書く、という人から見たら二度手間なことを行っています)し、先にもあげたように同じ本を何度も読み返します。そして土地に付随した記憶を頻繁にひっぱり出してきては再検討することを頭の中でしばしば行っています。他の方はどうなのでしょうか?

まぁ、思い出すこと自体に既に「Re」の要素が含まれていて、また本を読むという行為もまた、作者の書いた作品の再創造、Re: create だと言えるでしょう。

そのように考えていくと、Re: の付かない純正の経験というのは極まれで、ほとんどが以前の行為の「やり直し」であるのですが、そのやり直し行為が描く、螺旋形の軌道をより自分らしいものにしようとして、人は意識的に記憶の領域に踏み込んで、訂正したり、これからの指針にしたりするのでしょう。

なんにしろ、やり直すことが人生の本質であって、振り返りが大切だということですね。それを怠れば、一発勝負で書いた今回のこの文章のように、薄っぺらでつまらないものになってしまいますから。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年1月13日金曜日

大人の中の子供たち――プルーストを読む

おはようございます。

今日は約束通り、プルーストについて。

『失われた時を求めて』を読むのは今回が三度目となるのですが、以前の二回はいずれも途中で放棄しています。どちらのときもさして面白いと思った記憶がなく、途中でやめることにもさして抵抗がなかったものです。

まぁしかしです、二十代最後の歳になって読んでみると、その面白いこと!文章一行だけでご飯三杯はいける、と言ったかもしれない誰かの気持ちがわかるかもしれない、そんな気分です。

どんな本にもおそらくその本を読むべき適齢期というのがあって、上手くその時期に読んだ本というのは、その後も長く人生に影響を持ち続ける、という気がします。もちろんこれは本だけに限ったことではなく、映画や絵画、音楽にも言えることでしょう。

個人的な話をさせていただくと、高校一年生のときに古本屋でカフカの『変身』を100円で買っていなければ、今頃海外文学とは無縁のまま過ごしていたように思われてなりません。人との出会いと同じように、あるいはそれ以上に本との出会いは大きな影響を持っていると感じます。

さて、プルーストに話を戻しましょう。今の私がこの本を面白いと思える理由、それはこの本が全編「回想」から成り立っているからで、これが今、昔のことをしばしば思い返しては反芻している、すっかり隠居生活に慣れ切った老人のような私の人生の軌跡と、見事に重なっているからなのです。

加えて言うならば、読書体験としてクロード・シモンを通過しているのも大きいでしょう。彼はこの10年のあいだ、私の中のNo.1作家の地位を守り続けている孤高にして至高の作家なのですが、この人の書くものときたら、プルーストに輪をかけて回想的なのですから。時代的にも表現方法としてもプルーストの正統な後継者と言えるでしょう。

もう一点、今回読んで新しく気付いたこと、それは作者が「大人の中に潜む子供らしさ(あるいはその反対)」を非常に多く見つけ出し、その発見を楽しそうに書いている、ということです。

自分の病気を「大したことないですよ」と過小評価する客は二度と呼ばない叔母、近くの隣人より遠くの他人の不幸に涙を流すフランソワ―ズ、そして不都合なことを眼前にして、見て見ないふりをするという大人の悪癖をすでに身につけている幼年時代の主人公=作者…。

『失われた時を求めて』をじっくりと時間をかけて読む。それは「人生の継続性」について思いめぐらすことが習慣のようになった私のような子供以上、大人未満な人間にはまことに時宜を得た読書ということができるのです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
最近本当に歳をとったなぁと思う。けれど別にイヤじゃない。
写真は二十代の前半を過ごした金沢の二十一世紀美術館。たまにはこんな写真もいいよね。

2012年1月10日火曜日

カフカ、コーネル、ピカシェット...偉大なる先人たち

おはようございます。

前回、プルーストに関係した文章を、と書いたのですが、すいません、今日は表題の人々について書きたいので書かせてください。プルーストはまた次回ということで…。

彼らは私の傾倒する作家、芸術家なのですが、共通点として、「仕事をする傍ら芸術活動に勤しんだ」ことが上げられます。

その最初の出会いからその点に着目していたのではないのですが、一度この共通項に気がつくと、まだ読んだことのない作家も、この点を気にして探してしまうのだから困ったものです。「沖仲仕の哲学者」エリック・ホッファーはその最たる例となっています。もっとも、まだ読んではいないのですが。

この点が気になりだしたのはここ2,3年のことで、現実がこれらの人々が選んだ生活に限りなく近づいてきた、と思い始めてからです。

お金をもらって対価として作品をつくる「専門芸術家」ではない人々が、今やネット上ではごく普通に散見されます。そこから商品化され、結果的にお金が入るということもあるでしょうし、初めからそれを意図している人も少なくはないでしょうが、彼らが表題の人々と「兼業」という共通項で結ばれていることは紛れもない事実です。

どんな人にも発表の場が与えられていること、良し悪しがあることは承知ですが、私はこの点を歓迎したいと思う一人です。このブログもその恩恵にあずかっているわけですし。

思えば「芸術家」(作家や音楽家を含む)がそれ一本で生活できるようになった歴史はごく浅く、せいぜいここ200年ほどのことだと思います。それ以前の芸術家たちは、そのほとんどが生活に困らない基盤を持った人であったり、宮廷人であったりしました(宮廷音楽家や宮廷画家をどのように位置づけるのかは難しい問題ではありますが)。

現代は再びその時代に回帰したと言えるのではないでしょうか。それも間口をはるかに大きく広げて。

この環境が一流を減らし二流ばかりにするのか、あるいはこれまでの一流レベルに達する人が増え、一流のハードルが上がることになるのか、はたまた全く別の結果になるのか、それは私にはわかりませんが、創造することは想像すること、自分で考えることだと私は思っているので、自分で考える人間が少しでも増えることは、手放しで喜んでいいのではないでしょうか。

いずれ専任の芸術家がなくなり、「兼業芸術家」ばかりの時代がやって来る、そんな行き過ぎた妄想も、新年だからということで許していただきたいと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ピカシェットの家入り口。中は撮影禁止。Merde!



2012年1月8日日曜日

新年だから、目標ぐらい立ててみる

おはようございます。

皆さんは今年の目標を立てましたでしょうか。
私は毎年、年末から年始にかけて1年の目標~5年先の目標くらいまで考えるのですが、達成度はいつも半分少し上、くらいのところです。もっと現実的な目標にするのがいいのか、はたまた努力が足りないだけなのか…。どうも後者のような気もしますが、気を取り直して。

今年の目標。一言でまとめるなら、「バランス」でしょうか。
仕事、読書、フランス語、書くことをバランス良く一年続けられれば、どの分野でもいい結果になると思います。まぁ、こういうのを器用貧乏というのでしょうが、今の私にはすべてが密接に繋がっていて、ひとつをやらない、というのは全部をやらないのと一緒になりますので。

ちなみに、各々具体的な目標はというと、読書では、『失われた時を求めて』を最後まで読むこと。フランス語は、仏検準一級試験合格。書くことでは、このブログ+italki で月15本以上の文章を書くことです。仕事は…うーん、今のところ思いつきません。来年になるとケアマネの受験資格ができるので、その勉強に忙しくなると思うのですが。

今回はこんなダラダラした文章でした。次回はプルーストに関連した文章を少し書こうかなと思っています。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
バランスと関係ある写真?うん、関係ない。



2012年1月5日木曜日

正月は炬燵で読書

おはようございます。

正月ですね、新年です。
外は寒いし、テレビは特番ばかりでつまらない。そんな時は炬燵に籠って本を読むに限ります。
もっとも我が家には、テレビもこたつも、あろうことか正月休みさえないのですが。このブログはいつもと変わらぬ日常からお送りしております。

それでも、正月なんて全く関係のない私であっても、毎年この季節になると、なぜかやたらに本が読みたくなります。それも、かつて読んだことのある本の再読することに病みつきになります。これはなんでしょう、病気でしょうか。

まあなんにしろ、冬は再読の季節というわけです。

私は25歳くらいまでは、毎年ドストエフスキーの全作品を読み直すのが恒例行事みたいになっていたのですが、ここ数年はその習慣もぱたりと途絶えています。
もちろんこの間も読もうと試み、また読みたいと思って一冊二冊は読むのですが、どうも続かない。とてもじゃないが、全作品を読み返そうという気になれないのです。

年をとったから、と言われれば確かにそれもあるのでしょう。なにしろ、ここ1,2年で読む本の傾向も数も随分と変わりましたし。
また、よく「青年時代はドストエフスキーに耽溺し、年をとるとトルストイを好む」といったことを聞きますが(誰から!?)、じゃあトルストイを読むか、と言われたら全く読まない。あんなものはちょっと良くできたメロドラマだと今でも思ってます(だからといってすごくないか、と言われたらそうでないところが文豪たる由縁なのでしょう)。

ドストエフスキーとトルストイ、二人の作家に共通する点、そして私が読みとおせないわけ、それは「登場人物があまりにもキャラクタにすぎる」という一点に尽きるでしょう。そういった点からすれば、今のライトノヴェルの読者はドストエフスキー、好きなんじゃないでしょうか。私の中では良くも悪くも、スタンダールの系譜に連なる19世紀の小説家だなぁというのが正直なところです。

また、ドストエフスキーには他にも悪癖があって、冗漫だとか、冗長だとか、無駄に文章が長いとか、いろいろあるのです。

人間っていうものは多かれ少なかれ様々に矛盾した要素を抱えていて、それを小説に書いてしまうと、「人格破綻者」だと捉えかねられないのですが、それこそが人間で、またそうした人物を上手く書くからこそ、「小説家」だと言えるのではないでしょうか。

「この人物の性格からして、この場面でこんな風に行動するとは考えられない。したがって本当らしくない」なんて批評は本来成り立たないはずです。

人はいともたやすく自分の性格という枠を飛び越えるし、かと思えば必要以上にその枠にとらわれ、籠りきりになる、そんな変わった生きものなのですから。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
教会から町を見渡す。
追記:文中でドストエフスキーを「キャラクター小説の作者」だとトルストイと一緒くたにして評していますが、その枠を(はじめて)超え出たのがドストエフスキーだ、というのが本当でしょう。その傾向は後期の作品で特に顕著で、『カラマーゾフの兄弟』はその最たる例ではないでしょうか。あくまで「キャラクター小説」の枠を使っていた作家という意味でこんな風に書かせていただきました。その枠を無視する作家が世に登場するのは、おそらくカフカまで待たねばならないでしょう。

2012年1月2日月曜日

元旦にはブログを更新するもんだって、死んだばあちゃんがいってた

おはようございます。そしてあけましておめでとうございます。

2012年になりました。今年も私ともどもこのブログをよろしくおねがいします。

今年も頑張ってブログの更新をしていきたいと思っています。

2012年がみなさんにとって良い年でありますように。

では、また。