2013年12月13日金曜日

投石器で生首を投げ入れる

宗教によって救われた人間と殺された人間、はたしてどちらの数が多いのだろう。

PCの不具合が改善しようやく、 Le Point.fr の名物コーナー、"C'est arrivee aujourd'hui " を読める環境が整い、さぁブログで取り上げようと思った矢先、ぶち当たった記事がこれだよ!

十字軍によるイスラム教徒の虐殺と人肉食

もうね、こういう話題はいいんじゃないかと思ってるんですよ。こんなのはたまにやるから人の心をぐっと掴むわけで、毎日垂れ流しにしてても、浮浪者の立ちション程度の関心しか得られない。「おぅ、またやっとるわ」と横目で見て、嫌悪の表情を浮かべ、そしてすぐに忘れられる。そこまでの見事な様式美――どうせなら、1913年の同日に起きた事件、「1911年にルーヴル美術館から盗まれ行方不明になっていたモナリザがフィレンツェで発見される」のほうをやりたかったぜ。

まぁ、愚痴ってばかりいてもしゃーない。事件の全貌に迫ろう。

1098年12月12日、Ma'arra 市を包囲した十字軍の大軍は、「降伏すれば安全は保障する」とした約束と引き換えに、市内の住民2万人を虐殺。城内に十分な食糧がなかったことに激怒したキリスト教徒たちは、殺戮したイスラム教徒たちの人肉を食べた。

そのレシピが振るっている。「成人の肉は鍋で茹で、子供たちは串刺しにして直火で炙る」。まったく、フランスの美食ここに極まれり!だ。

今から1000年近い昔の社会でも、このような行為は衝撃的で非人間的だった。アラブ世界では数世紀にわたり、この事件が語り継がれたらしく、文献も数多く残っているようだ。

たとえこれに空腹を満たす以上の理由がある(異教徒を動物のように食べることで人外のものとみなす、魔術的解釈!)としても、その行為は非難されることはあっても、賞賛されることはない。これが宗教的な権威によって保障された行為だとしたら、人間性を失ってまで守るべきものなど、教会の内側にあるのだろうか?人間性=徳性こそ、宗教の最後の砦であるべきだろう。

われら21世紀に生きる異邦人、赦され、聖化された十字軍の軍隊が安閑としている天国の砦に、投石器で生首を投げ入れる。そう、彼らがイスラム教徒に対してしたのと同じように。「これが人間か」と問いながら、泣き喚きながら。

Au revoir et a bientot !
投石機にムスリムの首を入れて城壁内部に投げ入れる十字軍。この写本挿絵はニカイア攻囲戦を描いたもの Wikipedia より

参照URL:Le Point.fr C'est arrivé aujourd'hui 12 décembre 1098
Wikipedia マアッラト・アン=ヌウマーン

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