2013年12月26日木曜日

可能性としての自分

ちょっと間が空いたけど、前回途中になっていた分身と時間について話を進めよう。

といっても論旨は単純だ。直線的時間を生きる西洋人(その終着点では最後の審判が待ち構えている)にとって、生まれ変わることは日本人に較べてはるかに難しい。

というのも多くの日本人は、人生を繰り返される一年の連続として捉えているからだ。いってみればそれは、薄く重ねられた螺旋形をしている。一年で一周しながら、31日から1日の連結点において転生が行われる。

毎年この季節に、一年の終わりを感じない日本人はいない。年末は一年の決算日としてあり、年始は新しい年が始まる清らかな日だ。31日から1日にかけて、除夜の鐘とともに時間は一度殺害され、その後蘇生される。と同時にわれわれもまた、新たな時間へ移行するのだ。われわれは一年ごとに死に向かう螺旋階段を一歩ずつ上っている / 下っているのだといえる。

西洋的な時間ではどうだろう。それを十分に語ることができるほど、直線的時間に精通してもいないし、実感してもいない。あくまで推論だ。

時間が直線的に流れる以上、他の位相と交わる機会はない。線上に入学や結婚といった区切りは存在するとしても、それはあくまで線上の一点に過ぎない。時間は前後には延びていても、上下には伸びていないのだから、上下と見比べることもできない。繰り返される時の流れのなかで、意図的にしろ無意識にしろ、混交することも少ない。

となると、可能性としての自分を見つけるためにはこう考えるしかない。自分が住んでいる世界線と平行に、何本も別の線が走っていて、今のこの世界と限りなく似た時間が、少しずつずれて繰り返されている。その平行世界からの闖入者として、分身やドッペルゲンガーは存在しているのではないだろうか。

分身小説の系譜は長い。まぁ、今思いつくだけでもたくさんある。イギリスではスティーブンスンの『ジキル博士とハイド氏』。アメリカはトウェインの『王子と乞食』。ロシアにはゴーゴリの『鼻』やドストエフスキーのそのまま『分身』なんてタイトルも。先日紹介したナボコフの『絶望』はこれらに対する反・分身小説と位置づけられるだろう。

そんな風に考えを進めていくと、今度はこんな疑問にぶち当たる。「もしや西洋人と日本人の記憶の仕方は全く異なるのではないか?」考えてみれば当然だろう。記憶とは、時間をどのように折りたたんでいるかの結果であり、時間の概念が異なる以上、記憶の仕方が違っても驚きはない。

この問題には様々な方面からアプローチが可能だろう。文学上の参考文献を挙げてみると、日本からは明治・昭和の私小説にアンチ私小説としての大江健三郎の小説群。南米代表はガルシア=マルケスの『百年の孤独』やボルヘスの『アレフ』などは必読だろう。そしてフランスからはプルーストの『失われたときを求めて』。

Au revoir et a bientot !

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