2013年12月7日土曜日

ぼくは不安定な一人称――ナボコフの『絶望』

テーマは「分身」?またかよって、ちょっと待って。我慢して50pくらい読んでほしい。読み進めていけばきっと、十分満足できるはずだから。

はっきりいってナボコフは天才だ。筋の巧みさ、小道具の使い分け、小説的技法、ナラティヴや言葉選びの遊び心――どんな深度で彼の小説を読んでも、相応の見返りをくれる。「小説家を目指す若者にとってナボコフは最良の教科書だ」と、大江健三郎が『ロリータ』の解説で書いていたが、それももっともだ。ここには小説のすべてがある。

そんなナボコフ初期の傑作、『絶望』 がロシア語から初訳された。もちろん、光文社古典新訳文庫だ。この小説もまた、彼らしい仕掛けが随所に埋め込まれている。

「ベルリン在住のビジネスマンのゲルマンは、プラハ出張の際、自分と“瓜二つ”の浮浪者を偶然発見する。そしてこの男を身代わりにした保険金殺人を企てるのだが……。」――裏表紙の作品紹介より引用。

「分身」と「犯罪小説的手法の間借り」を示唆したこの文章から物語に入ると、なるほどそんな感じもする。だが、実際のテーマは別のところにある。上の文章で言えば、「……」の部分こそが本題だ。

読者はゲルマンが一人称「ぼく」を用いて語る内容を追っていくのだが、しばらくして「ぼく」がおよそ信頼の置けぬ語り手であることに気づかされる。そう、光が観測方法によって粒子だったり波長だったりする二十世紀以降、物語られる世界もまた、語り手によって姿を変えるのは当然のことだ。

上手いのはその一人称の「ぼく」が語る内容と現実の世界のずれが、物語の転換点の役割を果たすことであり、「ぼく」=読者に見えていなかった世界が一気に露わになる、その瞬間のカタルシスにある。

といいつつこの小説においては、そうしたカタルシスとは無縁だ。なぜというに、ゲルマンの語りの向こうに常に、彼の見ていない世界が透けて見えているからであり、読者は容易に「一人称の不確実性」を見破ってしまうからだ。
そしてゲルマンによって語られない「現実」を必要以上に空想し、先走ってしまう――だって、妻とアルダリオンの関係を見抜けないってのは、いくらなんでも不自然だし、そうである以上ゲルマンはわざと見ないふりをしている、と考えるのが自然な流れだろう?――あげく、消化不良な結末を迎えることになる。

だがよそう、どうせ僕らはナボコフの手の上で踊らされる読者だ。安易な一人称の不確実さの露見も、カタルシスの不在も、おそらくは彼の意図したものだ。そう考えざるを得ないほどに、僕らはナボコフに飼いならされている。そもそも一人称の不安定性を疑う気持ちそのものが、ナボコフの文学的軌跡を追うことによって作り出されたものではないか?

先人のヘマをあげつらって、鬼の首をとったように意気揚々と掲げるその腕が、そもそもその先人によって作られたものだという事実。僕らはここに至ってようやく、ゲルマンの『絶望』に共感することができるのだ。

Au revoir et a bientot !


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