2012年9月16日日曜日

祈り

おはようございます。

祈ることは難しい。ことに私のような無神論者にとって。

もちろん私のそれは、神を失った西洋の激烈で選択的なそれとは異なり、日本式の折衷的な、結果としてのものではある。

それでも、神社で手を合わせて拝む、あるいは願をかけることすら面映ゆいし、結婚式を教会で、もしくは神道によってあげるなど、もってのほかだ。

あくまで「祈る」ことに限定するのなら、その対象は宗教でなくてもよいはずだ。

だいぶ前に(私の記録では6/26 )に映画、『星の旅人たち』を観た。

息子の遺志を継いで800km におよぶ巡礼の旅に出る主人公。その旅は必然的に、祈りに関する物語になる。

「祈る」ことは、自分には無縁だと思っていたけれど、それが他者に自分を預け、自分も他人の重みを担うことだとすれば、神に対するそれは、あくまで対象が形而上的であるに過ぎず、形而下のの存在である人間同士で交わされる信頼関係こそが、すなわち祈りそのものであって、そうであればこそ、「宗教は信仰と関係ないさ」という、神父の言葉が重みを持ち得、また、私のような人間が祈ることも可能なのだ、と気付かされる。

故人の冥福を祈る――この形ならば多少本来の意味からそれようとも、それに相応しい表情と心情を自分にも望むことができるのではないか。なぜならそれは、故人とのあいだに巡らされていた信頼関係の復元なのだから。

と、9・11から11年が過ぎた今に思う。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
『星の旅人たち』予告 YouTube より

2012年9月12日水曜日

『ロリータ』とその表題

おはようございます。

大江健三郎をして、「自分にはあの言語感覚には決してたどり着けない」と言わしめたウラジーミル・ナボコフの代表作。

実は今回が初めての『ロリータ』で、それを若島正訳で読めるとはなんたる幸せ、と思いつつ、今はまだ物語の途中、内容や感想を語るのは別の機会として、今回はそのタイトルについて。

「ロリータ」とはいわばひとつの愛称で、本名はまた別にある。いわばそれは、山田太郎と「ドカベン」の愛称との関係に正確に一致する。

この、「名前、もしくは愛称をタイトルにする」のは西洋文学においては古来から見られる傾向である半面、日本文学においては非常に珍しい。

西洋文学においてすぐに思い出すだけでも、『アンナ・カレーニナ』、『ガルガンチュワとパンダグリュエル』、『プヴァールとペキュシェ』、『ボヴァリー夫人』、などなど。
その一方で日本文学でぱっと思い浮かぶものは、堀辰雄の『菜穂子』くらい。それすらも読んだことがない。

どこからこの違いが生まれるかを論じるよりも、ここでは、タイトル=登場人物の名前な小説の利点を語る方を取る。

ある種のミステリアスな雰囲気、が未読の読者には提供されるだろう。その名前がそもそもなにを指しているのか、それすらもわからないこともある。『ガルガンチュワ』ってなんだよ!?地名か?それとも武器か?なんてまるで見当違いの想像をして楽しむことができる。とりわけ、日本語訳されて、カタカナ変換したタイトルは魅力的だ。原題では明らかに含まれている意味がそぎ落とされ、その空いた空間での妄想が許される。ほとんど意味を失った言語としてのカタカナ、それは実に創造的なツールだ。

既読者にとってそのタイトルは作者の明白な意志表示だ。「俺はこんな破天荒な人物像を創造してやったぜ」という気概。一方で、そのタイトルの人物を取り巻く人々にこそ、真の創造性が表れていることもよくある。ナボコフのこの作品もそうした系譜だろう。もちろんナボコフのこと、すべてが意図的に配置されているのは確かなことだ。

そのナボコフでさえ、自分の付けたタイトルがそのまま変容して、幼児愛を意味する「ロリコン=ロリータ・コンプレックス」になるとまでは想像していなかったかもしれない。それは程度は違えど日本のマスコミが、太り気味のキャッチャーに「~のドカベン」と名付けたり、小柄な女性柔道選手を「柔ちゃん」と呼んだりするのと同じ論理だ。

もっとも同作中で散々フロイトをからかっているナボコフのことだ、心理学者がそうした名称をつけることすら、想定内だったかもしれない。そうした人間の心情もまた、ナボコフによって分類され、名付けられるのだろう。そう、彼の愛した蝶のように。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ナボコフに似合うもの。ポップさ

2012年9月6日木曜日

本屋さんの明るい未来

おはようございます。

前回の話の続きをしよう。

優秀な本屋さんにとって、自分の担当する分野の本について、知り過ぎる、ということは決してない。

これはどの分野で働く人間にとっても言えることだろう。自分の職業に関する知識を得過ぎてなにかを失った、ということはないはずだ。もっともそれに執心するあまり、家族やその他大事なものを失う、なんて話は通俗的にありふれたテーマだろう。

話を本題に戻すと、では知るべき知識をすべて知り得るか、というとおよそそんなことはあり得ない。

あり得ないのであれば選択しなければならない。

そう、なにかを得るためにはなにかを捨てなければならないのだ。

要は本の取捨選択。何を読んで、何を読むべきでないか。

肝心なのは、「読むべき」本の選択ではなく、「読むべきでない」本の見極めだ。なにしろ毎月何百もの新刊が刊行されている現在、「読むべき」本でさえ自らの手に余るこの時代、確実に不要なものを「いるかもしれない」、「なにかに使うかもしれない」とダラダラ思い悩むのではなく、「必要ない」ときっぱりと断定してしまう、その心意気こそが、ひいては読むべき本のなかでも、本当に自分の必要とする本に出会うための条件ではないか。

本屋さんの選択はそのまま売り場の棚に表れる。人は本屋を訪ね、棚のあいだを歩くことで、他人の頭の中を覗き見る。結局のところ書店は(他人の)知への入り口なのだ。それは今も変わらない。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
説明するまでもなく有名な、カフェ・ドゥマゴ