2014年8月22日金曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 6/6 ――『彼方なる歌に耳を澄ませよ』

何年ぶりかにマクラウドの作品を読み返す。辺境の国カナダの、更に辺鄙なところに位置する、ケープ・ブレントン島。その地で暮らすスコットランド系移民の末裔たちの日々の暮らしを、脚色なしで(もちろんこれは言いすぎだ)描き出す。21世紀日本からはひどく遠い、土地・時代・文化の物語。

たとえば前回の『ペルソナ4』が現代日本を反映したものだとすれば、これは移民の時代(18世紀?)から1970年代まで続く、一族の物語だ。舞台はカナダ、日本からひどく遠い国の出来事だ。

カナダは、遠い。この計り知れない距離感はどこからきているのだろう?カナダのことをなにも知らないから?といって、日本の一般市民がカナダについて、どれだけのことを知っているだろう?国旗にカエデのマークが用いられていること?アメリカの北に位置すること?他には?大統領が誰かすら、そもそも大統領職があるのかすら、定かでない。もしかすると王様が国を治めていたりするかも?

これだけ遠い国の、本土から離れた島の話だ。当然日本人にとっては近づきがたいものに思える。だが、マクラウドの描くカナダの生活は、近い。場所も時代も大きく異なる物語が、これほどまでに人をひきつけるのはなぜなのか。

簡単に言ってしまえば、物語の持つ普遍性というやつなのだろう。だが、この説明だけでは不十分な気もする。普段全く自覚的でない、他者との共通点を認めたからといって、それで親近感を抱くのか?そもそも差異こそを好む時代に生きているのに、共通点をあげつらって、喜ぶ奴がいるだろうか?

だからたぶん、これは差異を理解するための物語だ。『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の冒頭に現れる語り手とその兄はまだ、自分たちとさほど離れたところにあるわけではない。彼はアル中で、酒を飲んでいないと手の震えが止まらない。そんな兄にどんな風に接すればいいのか、歯科医となった語り手にはわからない。

彼らの背景が描かれるにつれて、違いは明らかになっていく。彼らが一人の個人としてよりは、一族の中の一人として生きてきた歴史。そして、その歴史的背景が生んだ悲劇。それらはみな、現代日本では存在しない空想上のバックボーンだ。

おそらく現代に悲劇が生まれ得ないのは、こうした歴史的背景の喪失も関係しているのだろう。もはや現代において、フォークナーは生まれない。確定的に明らかなことだ。持つものと持たざるもの、それぞれの良し悪しが、マクラウドの本を21世紀の日本で読むことの意義だ。

最後に、冒頭に書いた文章、今の私ならカナダを「周縁の」国とするだろう。日本もまた、同様だ。大国の周縁にある国がどのように身を処すか。ひどく政治的な問いで、私には身に余る。ここで手を引くとしよう。

Au revoir et a bientot !


2014年8月16日土曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 6/5 ――もう一度、ペルソナ4

ようやくクリア!100hくらい費やしたが、これはなかなか大変なことだぜ(一生懸命フランス語をやったと言える月でも、50~70hくらいがせいぜいなのに)。大概のゲームは、それに費やした時間をはっきり無駄だと思うのに、今回はなかった。たぶん人生初の、ゲームをやって有意義な時間だった。

ベタ褒めしすぎか、いやいや、そんなことはない。それだけの価値のあるゲームだった、少なくとも私にとっては。前回紹介時はだらだらと書いてしまったので、今回はさくっと済ませよう。

1.コミュニケーションをとることで強くなれる
2.時間の一回性
3.攻略本ありの人生はつまらない
4.自分の弱さを受け入れるための物語

1.コミュニケーションをとることで強くなれる
作中に登場する人物には「コミュ」と呼ばれる関係があり、主人公は彼らと一緒に時間をすごすことで、絆を深めることができる。彼らにはそれぞれアルカナ(タロットカードの「隠者」、「戦車」といったもの)が割り振られており、コミュランクが上がったアルカナからは、より強力なペルソナを作り出すことができる。コミュランクを上げることが、強敵を倒すための近道なのだ。それにしても、主人公のコミュ力はすさまじい。

2.時間の一回性
一日に行動できるのは2回、放課後と夜だけに限られている。それぞれでできることできないことがあって、ダンジョンに入るなら他の人と一緒にすごすことはできないし、勉強やアルバイトをあきらめなければならない。なにかを得るにはなにかを捨てなければならないのだ。

3.攻略本ありの人生はつまらない
ネットで攻略サイトを見れば、どうすれば完璧にコミュをマスターできるのか、会話中の正しい選択肢まで教えてくれる。そうすればゲームシステム上は完璧な人生を送ることができる。でも逆に、つまらない人生になってしまう。結末のわかっている推理小説のように。

4.自分の弱さを受け入れるための物語
ペルソナとはもう一人の自分。日常生活で決して覗き込むことのない、自分自身の暗部だ。誰にでもあるそうした弱さやいやらしさを、否定すれば暴走し、受け入れることができれば自分の力となってくれる。ありふれたテーマだとしても、そうした弱さを主人公やその仲間の高校生にだけ認めるのでなく、周りの大人たちもまた、例外なく秘めていて、向き合うことができていないことを明らかにしている、という点が素晴らしい。

子どもの頃には、「大人になったら」という言い訳が使えた。大人になった今、それはもう使えない。時間は弱さや愚かさを解決してくれず、むしろより解きほぐしがたい、絡まり合った難問として心の隅に置かれてある。自分の弱さと向き合わなければ、どんどん自分が自分でなくなっていく。だから人は嫌でもそれに立ち向かう。大人になっても、認知症になっても、死の間際までも。これは、英雄になれない凡人が生涯を通して挑む、最大の戦いだ。

それは困難でありながらも、少し楽しくもある。

Au revoir et a bientot !

2014年8月11日月曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/27 ――コミュニケーション入門

危険を感じると、人は心を閉ざしてしまう。自分とのコミュニケーションに安全・安心を感じてもらうためには、その人が大事にしてる価値観に共感する必要がある。

コミュニケーション、一言にいっても容易くはない。自分ではない他人と、意見や言葉を通わせることだ、一筋縄ではいかないことは容易に察せられるはずだ。

実際には、人はそれほどコミュニケーションを問題視しない。空気ほどにありふれており、習熟とは縁遠いものと思われているからだ。結果的に、巷にはミスコミュニケーションがあふれかえる。伝えたつもりなのに伝わっていない、自分の言っていることがなぜか理解されない…誰にでもなんかしら思い当たることはあるはずだが、だからと言ってそうそう改善しようと思わないのが、人間だ。「相手が悪い」と自分の非を棚に挙げて、人の悪いところにばかり目が言ってしまう。

コミュニケーションを仕事の中枢に据えていると、そうでない人よりほんの少し、その難しさを感じる機会が増える。認知症の方はおろか、普段何気なく接している一般の職員とも、良好な関係が保てているか、怪しく思える。

そんなふうにコミュニケーションについて改めて学んでいる最中だったから、なおのことペルソナ4に深くのめりこんでしまった。「いろんな人と関係を深めることが、自分の力になる」という哲学に基づいたシステムは、そのまま社会の反映となる。なお、あまりに深くのめりこんでしまうと、社会そのものから離れて、ゲームの世界に閉じこもってしまう模様。

コミュニケーションの要点は、「この人は私の話を聞いてくれる」と相手に思わせることだ。もっと言えば、「私を受け入れてくれる」存在になることだが、口で言うのは簡単でも、実行するのは難しい。そらそうよ。誰もが大海のように広い心の持ち主ではない。

私のような狭量な人間でも、継続してコミュニケーション技術を磨くために、必要なことをメモ代わりに書き残しておこう。

上述のように、相手にとっての「受け入れてくれる」存在になる、一番のポイントは、聞き上手になることだ。そのためには質問力が求められる。どんな質問を、どのようにするかで、その人との関係が決まる。

尋問にならないことが大切だ。言いかえればこれは、「自分の聞きたいこと」ではなく、「相手の喋りたいこと」と質問することだ。そのためには相手のことを良く知らなければならない。表情やしぐさは勿論のこと、普段相手がどのような言葉を使っているか(視覚的か、聴覚的か、触覚的かなど)や、どの言葉に重点を置いて話をしているか、など。

そしてその感覚や感情に自分の気持ちをあわせる(ペーシング)こと。そうすることで、相手は共感されている、と感じられる。キーとなる単語を繰り返すことは、簡単だが効果的な方法だ。

だから何度でも繰り返そう。同じような主題、同じテーマの文章を、違った時期、違ったスタイルで書くことで、自分自身への理解を深めることができるから。人によってはそれを読んで、私のことを理解しようと思ってくれる人もいるかもしれない。そんな儚い思いを抱きつつ、次回再度ペルソナ4いついて書く。

Au revoir et a bientot !

2014年8月10日日曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/16 ――ほっともっとフィールドに行こう!

※ お客様はファウルボール等がお体に当たらない様常時ご注意ください。お子様連れのお客様は特にご注意下さい。

岸田投手、2014年最後の先発登板も、はかなく散る。
初回を0点に抑えるも、その後テンポよく失点を重ね、5回で3,4失点して降板。打線も昨年と同様の反発力のなさで、なすすべもなく敗れた試合。まるで、4/9の対ロッテ2回戦のようだった。この日も先発は岸田。この日までの私の観戦成績は0勝3敗と、散々なことになっていた。

この日を境に岸田は中継ぎに配置転換、主に僅差ビハインドの試合で好投を見せてくれている。以降今日まで一度も先発として投げていない。

あ、ごめん、よくよく考えたらこれ、5/1 の試合ですわ。5/16はエース金子が先発し、首位を争うソフトバンクに完勝した試合。OSAKA CLASSIC と題して、両チームが近鉄と南海のユニフォームを着て試合をしたんだった。Tシャツを貰ったので良く覚えている。

そんなわけで、「書かれなかった過去を振り返ろう」シリーズ、通称KKKシリーズは3回目にして早くも当初決めた約束事を破ったわけだが、それも記憶の成せるワザと、諦めるのが容易だろう。オレはなんも悪くねぇ!

話を野球に戻そう。
よく、「どうしてオリックスがすきなの?」と聞かれるが、およそ求められる答えに行き着いたことがない。たぶん、「~選手が好きだから」とか、「友達(あるいは父や兄弟)がファンだったから」とかいった答えが求められているのだろう。

残念ながら期待にはこたえられない。いつもそうなのだ。自分にとっては当たり前の考えが、多くの人には異常に映る。それゆえについた嘘が、より自らの立場を危うくする…。人は因果、理由を探す。たとえそれが荒唐無稽なものに見えても、「理由なく」ファンになったとのたまう男に比べると、危険ではない。ある日突然、「よし、オリックスを応援しよう」と思ったなんて、誰に言ってもバカにされる。

だから誰にでも通用する理由を探そう。後付けだとかそうじゃないとか、そんなことは問題じゃない。「どうしてオリックス?」と、半笑いで聞いてくる阪神ファンの目を見てこう答えよう、「オリックスの、寄せ集め集団なところが好きなんです」と。

プロ野球の世界でもてはやされる「生え抜き」という思想に、これほど染まっていない(しかし無縁ではない)チームも珍しい。強くなるために、血の入れ替えを積極的に行う。成績を残せない選手はどんどんと首になる。だが、セ・リーグの金満球団のように、金でかき集めようにもお金も、人気もない。オリックスに来たがる一流選手など、聞いたことがない。

結局、チームにはあぶれ者ばかりが集まる。能力はあるが契約交渉でもめたもの、結果を残しながら生え抜き主義に押し出され、チームを追われたもの、そもそもチャンスが与えられず、戦力外になったもの、はたまた誰かの「おまけ」として、複数トレードでやってきたもの…。そもそも、チームの成立過程からして、近鉄とオリックスとの歪な合併という、誰も得しない経緯がある。

そんなオリックス・バファローズが私は好きだ。どの選手にもなんらかの因縁があり、物語性がある。選手も監督も、果ては球団までも、みんなよそ者。どちらを向いても敵敵敵…。いや、そもそも敵としてすら認められていないかもしれない。

そんなチームが今年は大正義、ソフトバンクホークスと首位争いを繰り広げている。8/9 現在、首位と4ゲーム差の2位につけている。去年は平均10000人くらいだった観客数が、今年は20000人を超えている。実に二倍。関西の阪神人気を苦々しく思っている人が、こんなにもいるんだぜ。

頑張れ、オリックス・バファローズ。男なら、ドカンとぶつかり星となれ。どんな結末になろうと、その散りざま、とくと見届けてやろう。

Au revoir, et à bientôt !

2014年8月9日土曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/6 ――世界の果ての通学路

すごく良いドキュメンタリー映画。「日本に生まれた幸せ」ってよく言われるが、普段実感することはなかなかない。これはそれを感じさせてくれる貴重な映画だ。


学校に行くために、毎朝ゾウに襲われる危険を冒しながら、アフリカの赤銅色の大地を駆ける二人の兄妹がいる。妹と共に馬に乗って通学する、アルゼンチンの12歳の少年がいる。ボロボロの車イスを押して、泥道や川を越えるインドの三人兄弟や、週末だけ家に戻り、週の始めには22kmもの距離を歩いて通学するモロッコの少女がいる。

日本にはない地形、風景。野生のゾウやキリン、サイが利用する同じ道を通って、兄と妹は学校へ走る。ときに野生動物の襲撃を恐れ、岩肌をよじ登って遠回りをし、あるいは草むらに身を隠す。そんなところにも学校は存在するのだ。まず、そのことに驚く。

週に2回、少女は学校までの道のりを歩く。22km、石ころだらけの山道を、近くに住む二人の友達と一緒に。何時に起きる必要があるのだろう?5時にはもう、両親の住む家を離れ、学びの宿舎に向かっている。

馬なんて、日本ではもう神話的生き物だ。街中で見ることはまずない。それはイベント、祝祭的な動物だ。アルゼンチンの12歳の少年にとって、馬に乗ることは日常だ。小さな妹を連れて、馬に跨り、学校に向かう彼の姿は、日本に住む私には少年神のように見える。

インドでは、まだ日本的にも見慣れた光景がある。3人の兄弟が電柱の並ぶ道(そういえば、最近では電柱もあまり見なくなった気がする)を、車椅子を押して進む。
長男は脚が悪い。でも二人の弟は兄のことを誇りに思う。だって彼は勤勉で、頭がいいからだ。自慢の兄を、二人は毎朝車椅子に乗せていく。舗装されていない道を行くことは困難だ。彼らにとって通学は、毎日冒険だ。

映画だから描かれていない事実もある。同じように苦労して学校に行っているからといって、みながみな彼らのように勤勉で意欲的に学んでいるわけではない。それは映画の外にある事実だ。パンフレットではその事実は隠されていない。

映画に映る彼らはみな、まぶしい。自分の勉強が、未来に繋がっていることを強烈に信じている。それは、今の日本にはない。選択肢の多様さが、活力を奪っている、という面もあるように思う。

学校は嫌いだった。でもこの映画の、喜びを全身から発散する子どもたちの姿を見ると、あらためて、学ぶことは止めないでいようと思う。もう学校に行くことはなくても、図書館へ、書店へ、職場へ、世間へ、学びに出かけよう。馬の代わりの自転車に乗って。

Au revoir et a bientot !

2014年8月8日金曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/2 ――アンドレアス・グルスキー展

ミニマルミュージックの視覚化された表現。写真界のスティーヴ・ライヒ。

大阪の国立国際美術館で2/1~5/11まで開催。チケットには「これは写真か?世界が認めたフォトグラファー、日本初の個展」の文。

郊外のアパートメント、油の浮いた川面、100均に並んだカラフルな商品...日常的にありふれた風景が、彼の手(いや目か?)にかかれば、一瞬にして不自然な、見慣れぬものに変容する。

資本主義に対する皮肉を読み取ることもできるだろう。でもそんな政治的意図を抜きに見たほうが美しい。同じもの(郊外の窓、100均の商品)が微妙な差異をもって反復されるとき、あるいは微視化/拡大視化されて、普段目に入らないものを無理やり可視化される(油の浮いた川面や、高高度から見下ろした大洋)とき、僕らは日常に潜む美しさを知り、少しだけ謙虚になる。

でも、その美しさは現実ではない。これらの写真の面白みは、どの写真も写真家自身によって、手を加えられていることだ。

そこに展示されているのは、「あるがままの」現実ではない。まして写真家グルスキーが切り取った/見た 現実でもない。彼が創り上げた芸術作品なのだ。

当たり前のことを言ってるだろうか?そうかもしれない。だが案外、人は写真や絵画の中にリアルを見るものだ。客観的な現実は今更求めないにしても、少なくとも主観的な現実ではあってほしい、と願う。この美しさが全部うそだなんて、耐えられないよ。

リアルをベースにした空想。その、リアルと空想の曖昧さが、観る人に錯覚を生み出す。その錯覚に自覚的であろうとすればするほど、境界線を見分けようとして、グルスキーの罠に絡め取られる。もう、逃げられない。グルスキーの描く現実と空想は、ダニエル・カーネマンの提示する記憶する自己と経験する自己の関係に、奇妙なまでによく似ている。

確かなのは作品とそれを飾る壁のあいだの境界だけではないのか?だがそこにも幾ばくかの不安が付きまとう。もしやこの壁すらも、グルスキーによって創られた、作品の一部ではないだろうか?そして今を生きているこの私も、記憶に裏打ちされていない、忘れ去られる現在時ではないだろうか?

Au revoir et a bientot !

2014年8月7日木曜日

書かれなかった過去を振り返ろう

人間は経験する自己よりも記憶する自己に固執する。

誰の受け売りかって?2002年ノーベル経済学賞受賞のダニエル・カーネマン。彼は人間にとっては経験そのものよりも、その記憶のほうが大切だと喝破した。

そのための思考実験として、カーネマンは次のような例を挙げる。

休暇の終わりに、撮影した写真やビデオをすべて破棄するとします。さらに、休暇の記憶をすべて消してしまうような薬を飲むとします。
事前にこれらのことがわかっている場合、あなたの休暇のプランに影響はありますか?
記憶に残るふつうの休暇と比べた場合、記憶が消失される休暇にいくら払いますか?

カーネマンの結論によると、記憶の抹消は経験の価値を大きく損なってしまうようだ。ある人は記憶がなくなってしまうなら、わざわざ出かける必要はないという。気持ちはよくわかる。ところで、経験と体験の違いってなんだろう?

4月末からブログをほとんど更新しておらず、ブログの開設三周年を自分で祝う機会も逃してしまった。その間、いろんな場所に行って、いろんなものを見聞した。その記憶を、手帳に残された僅かな手がかりをもとに、再構成する。そんな企画を今月はやろうと思う。経験した自己を、記憶する自己に変容させるのだ。

以下のようにルールを定めよう。
・ 5月~現在までの手帳に残された記録を元に、時系列で書く。
・ 本や映画の感想は、その本を読み返さず、残っている記憶と記録だけを頼りに書く。
・ 自分の残したメモを引用する――自己引用の悪癖!

次回は、アンドレアス・グルスキー展(5/2)について。

Au revoir et à bientôt !
2014年の手帳。ボールペンはuni のJETSTREAMを愛用。