たとえば前回の『ペルソナ4』が現代日本を反映したものだとすれば、これは移民の時代(18世紀?)から1970年代まで続く、一族の物語だ。舞台はカナダ、日本からひどく遠い国の出来事だ。
カナダは、遠い。この計り知れない距離感はどこからきているのだろう?カナダのことをなにも知らないから?といって、日本の一般市民がカナダについて、どれだけのことを知っているだろう?国旗にカエデのマークが用いられていること?アメリカの北に位置すること?他には?大統領が誰かすら、そもそも大統領職があるのかすら、定かでない。もしかすると王様が国を治めていたりするかも?
これだけ遠い国の、本土から離れた島の話だ。当然日本人にとっては近づきがたいものに思える。だが、マクラウドの描くカナダの生活は、近い。場所も時代も大きく異なる物語が、これほどまでに人をひきつけるのはなぜなのか。
簡単に言ってしまえば、物語の持つ普遍性というやつなのだろう。だが、この説明だけでは不十分な気もする。普段全く自覚的でない、他者との共通点を認めたからといって、それで親近感を抱くのか?そもそも差異こそを好む時代に生きているのに、共通点をあげつらって、喜ぶ奴がいるだろうか?
だからたぶん、これは差異を理解するための物語だ。『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の冒頭に現れる語り手とその兄はまだ、自分たちとさほど離れたところにあるわけではない。彼はアル中で、酒を飲んでいないと手の震えが止まらない。そんな兄にどんな風に接すればいいのか、歯科医となった語り手にはわからない。
彼らの背景が描かれるにつれて、違いは明らかになっていく。彼らが一人の個人としてよりは、一族の中の一人として生きてきた歴史。そして、その歴史的背景が生んだ悲劇。それらはみな、現代日本では存在しない空想上のバックボーンだ。
おそらく現代に悲劇が生まれ得ないのは、こうした歴史的背景の喪失も関係しているのだろう。もはや現代において、フォークナーは生まれない。確定的に明らかなことだ。持つものと持たざるもの、それぞれの良し悪しが、マクラウドの本を21世紀の日本で読むことの意義だ。
最後に、冒頭に書いた文章、今の私ならカナダを「周縁の」国とするだろう。日本もまた、同様だ。大国の周縁にある国がどのように身を処すか。ひどく政治的な問いで、私には身に余る。ここで手を引くとしよう。
Au revoir et a bientot !