2014年8月8日金曜日

書かれなかった過去を振り返ろう 5/2 ――アンドレアス・グルスキー展

ミニマルミュージックの視覚化された表現。写真界のスティーヴ・ライヒ。

大阪の国立国際美術館で2/1~5/11まで開催。チケットには「これは写真か?世界が認めたフォトグラファー、日本初の個展」の文。

郊外のアパートメント、油の浮いた川面、100均に並んだカラフルな商品...日常的にありふれた風景が、彼の手(いや目か?)にかかれば、一瞬にして不自然な、見慣れぬものに変容する。

資本主義に対する皮肉を読み取ることもできるだろう。でもそんな政治的意図を抜きに見たほうが美しい。同じもの(郊外の窓、100均の商品)が微妙な差異をもって反復されるとき、あるいは微視化/拡大視化されて、普段目に入らないものを無理やり可視化される(油の浮いた川面や、高高度から見下ろした大洋)とき、僕らは日常に潜む美しさを知り、少しだけ謙虚になる。

でも、その美しさは現実ではない。これらの写真の面白みは、どの写真も写真家自身によって、手を加えられていることだ。

そこに展示されているのは、「あるがままの」現実ではない。まして写真家グルスキーが切り取った/見た 現実でもない。彼が創り上げた芸術作品なのだ。

当たり前のことを言ってるだろうか?そうかもしれない。だが案外、人は写真や絵画の中にリアルを見るものだ。客観的な現実は今更求めないにしても、少なくとも主観的な現実ではあってほしい、と願う。この美しさが全部うそだなんて、耐えられないよ。

リアルをベースにした空想。その、リアルと空想の曖昧さが、観る人に錯覚を生み出す。その錯覚に自覚的であろうとすればするほど、境界線を見分けようとして、グルスキーの罠に絡め取られる。もう、逃げられない。グルスキーの描く現実と空想は、ダニエル・カーネマンの提示する記憶する自己と経験する自己の関係に、奇妙なまでによく似ている。

確かなのは作品とそれを飾る壁のあいだの境界だけではないのか?だがそこにも幾ばくかの不安が付きまとう。もしやこの壁すらも、グルスキーによって創られた、作品の一部ではないだろうか?そして今を生きているこの私も、記憶に裏打ちされていない、忘れ去られる現在時ではないだろうか?

Au revoir et a bientot !

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