2013年6月30日日曜日

揺らぎを捉えて

格好いいやん?憧れるやん?

これぞハードボイルドな古典、ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』大富豪マガンハルトを定刻までにリヒテンシュタインまで送り届ける任務を負った主人公ルイス・ケインが、派手な銃撃戦やら心理戦やらをかましながら目的地まで達する様を、巧緻な会話を織り交ぜて描く、まさにエンターテインメント小説の王道だ。

ごめん、それって映画でいいやん?

せやな。文学と映画の違いを今ここで論ずるつもりも準備もないけれど、この作品が実にビジュアル的で、ハリウッドのアクション大作向きであることに異論はないはずだ。

もっとも、この作品の最大の魅力は人物造形にあるだろう。主人公の「カントン」ことルイス・ケイン、アル中ガンマンのハーヴェイ、、産業スパイのジェネラル・フェイなど、いずれもひと癖二癖ある人物ばかりだ。

だが、それが物足りなくもある。

巻末解説で、田中光二という作家が、「エンターテインメント・プラス1」と題して、「エンターテインメイトの本質はなにか」を述べている。ただ面白ければいいのか、読後になにか残るものがあることがその条件なのか。

答えは出ていないが、エンターテインメントといわゆる純文学の違いは私の中で一つの答えが出ている。人物が一貫してるかどうか、より平たくいえば、登場人物がキャラクターかどうか。その違いだ。人物の首尾一貫性、それこそがセリーヌやジュネの小説とハードボイルド小説との混交を避ける要因だろう。

文学を人間を書くものだとしたら、その不条理さこそが書かれるべきだ。人間とは弱く、脆い生き物で、朝令暮改は当たり前、自分のルール、倫理観なんてものも、自由に融通がきいて、あってないようなものだ。

『深夜プラス1』に話を戻そう。この小説の登場人物たちはみな、魅力的かもしれないが、それぞれに与えられたキャラクターに嵌りすぎている印象がぬぐえない。ハーヴェイの言葉を借りれば、彼らは一人の例外もなく「プロ」なのだ。プロを相手にすることは楽だ。行動が予測できるから。

アマチュアを相手にするのはしんどい。なにをしてくるかわからないから。それが、人の世だ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月29日土曜日

文学のインプロヴィゼーション

もう2年も昔に、「人生にリセットボタンはないが、社会にはあるべきだ」というタイトルの文章を書いた。人の生きる時間は不可逆的で、「あのときああしておけば」と後悔してもやり直せない。その一方で、社会が一度失敗したからといって、立ち直れない仕組みになっていては、後悔にまみれた人間たちの生きる場所がなくなってしまう。

創作にも同じことがいえる。

人の一生の持つ不可逆性と、(理想的な)社会の持つ柔軟性をそのまま、ファースト・テイクとその後の修正に較べてみること。

勢いに任せてでも、呻吟しながらでも書きあげた第一稿は、それ自体ある種の聖性を持つ。加えられるにせよ削られるにせよ、あるいは順序が入れ替わるにしろ、すべて後出し、後付けにすぎない。それらはすべて、ファースト・テイクの不滅を否定するものではない。

それでは、時間が、つまるところ人生が含む一回性を推し進めていくとどうなるだろうか?ファースト・テイクの至高性を唱えたのが、ジャズのインプロヴィゼーション(即興演奏)であり、文学なら集ルレアリストの自動筆記(écriture automatique)だろう。


今回紹介するボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』も、自動筆記とは異なるものの、わずか18日で書きあげられたと言われており、ファースト・テイクを重視した作品といえる。

駅のソーセージ売りから出発した主人公が、その人間的魅力を武器に、いかにしてホテルの経営者まで上りつめるか。ドイツ文学の伝統にある教養小説(Bildungsroman)の一種とも言えるが、それよりもより中欧文化に根差しているようだ。

性的なものとユーモアの結合は、同国出身の現代フランス作家、ミラン・クンデラと共通するし、なによりハシェクの『兵士シュヴェイクの冒険』と、ストーリーの展開の仕方が瓜二つ。どちらも戦争や出世街道といった英雄譚の要素が求められる題材を、民衆の言葉と笑いを巧みに用いて、ドタバタ喜劇に転換している。

この作品を読んでなにが得られるか?「人生は一度きり。だから目いっぱい楽しもう」なんて、腐った格言めいた言葉を引き出すよりも、主人公に思いっきり影響されて、好きな女の子に告白して、見事玉砕して、周りから嘲笑され、作者を呪うほうがきっと、草葉の陰で眠る作者にとっても本望だろう。

さ、思いっきりやらかそうぜ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月28日金曜日

ノーベル文学賞作家によるエロ小説

…性は民主的にはなりえない。それは選民的、貴族的であり、たがいに同意をしたうえでのある種の専制主義があって成り立つものである。
『ドン・リゴベルトの手帖 p.318』

人間の記憶なんてものは実に曖昧なものだ。クンデラのものだと確信していた文章に、リョサの小説内で出会う。前々回にも言ったように、今読み終えた本の内容すら、要約するのは容易じゃない。

つい先日、マリオ・バルガス=リョサの『ドン・リゴベルトの手帖』を読み終えたのだが、すでに内容の大半を忘れてしまっている。

それにしてもなんとまぁ、大仰な作品だろう。明らかに前作『継母礼讃』のほうが、小説としての完成度も物語性も高い。正直何度か途中で投げ出そうと思った。

物語は前作、息子フォンチートの(悪意のない)戯れによって、別居生活を余儀なくされたリゴベルトとルクレシア。二人がいかにしてヨリを戻すのか、それが物語の大枠だ。

それだけでは文庫400p 近くにもわたって書き続けられるはずがない。その間隙を埋めているのが、エゴン・シーレの素描を中心とした絵画のイメージだ。

リゴベルトが空想する、絵画のイメージの実現。それは絵画の登場人物のポーズを模倣することによって現実化する。読者は、彼の、そして息子フォンチートの奔放でエロティックな幻想を、心ゆくまで堪能すれば良い。だが正直にいって、このイメージ自体前作のほうが優れている、と言わざるを得ないのだけれど。

知的な大人だけがなし得る性的遊戯がここにある。これぞエロスだ。プレイボーイ誌の固定したイメージにはマネできないエロ。

エロスとはつまるところ、想像力の飛翔だ。女性の裸体に勃起する性器に災いあれ。人間を動物と分かつものは極限すればこのイメージの力に限られる。

固定化したイメージ、シチュエーションを楽しむのも時にはいい。もっともそれは、高級料亭の味を知った者が食べる、280円の牛丼であり、頽廃的な趣味だ。たまにはいいね、でも食えたもんじゃないね――エロ本やAVなんてみんな同じだ、とリョサは言う。

そうだ、空想にもっと自由を。飛翔せよ、我が幾千万の精子たち。時は来たれり。

Au revoir et à bientôt ! 
『継母礼讃』とアフォガート。至高の組み合わせだ…

2013年6月25日火曜日

昨日は仏検をサボった。今日から研修だ

リハビリ中。今はそんな感じだ。

フランス語の勉強はなかなか机に向かって、というわけにいかず、今はとにかくフラ語体質に戻そうと、なんとか原書だけは読んでいる。それも、日によってやったりやらなかったりだけど。

そんな風だから必然、ブログもこんなのばかりになってしまう。本の感想を書くのはいいにしても、自分の近況ばっかりなのはいかがなものか?

といいつつ、今日も変わらず近況だ。

実は昨日は仏検1級の一次試験日だった。私も試験を申し込み、そして、受けなかった。

だって時間がなかったんだもん。ごめん、それはウソだ。100%落ちるのがわかってる試験を受けに行くのが、正直面倒くさくなっただけだ。

逃げだって?好きにとってもらって結構。自分の人生だ、好きなようにすることに決めたんだ。人がどう思おうかなんて、どうでもいいことだ。

だからって、このブログがこんなしょうもない内容でもいいって理由にはならんだろ。つーか、こんなことが書きたかったのでなく、今日から5日間の研修が始まりました、またブログの更新を怠る日々が続くかもしれません、とお伝えしたかっただけです。

果たして今月中にブログは更新されるのか?それは研修の忙しさ次第だ…。

では、また。
Au revoir et à bientôt !
こんなつらい毎日、フランスの景色に癒されよう…。
 

2013年6月23日日曜日

脱・乱読宣言!

今日もまた、書店でレーモン・クノ―・コレクションの前を通り過ぎた。

20代後半の五年間でようやく、この世のすべての本はおろか、自分が読みたいと思っている本ですら、そのすべてを読むことは不可能だと悟った。

こればかりはどうにもしようがないことだ。本は限りなく、人の一生は短い。20代の頃に較べて、読書に費やす時間もお金も減った。20歳頃には年間300冊近く読んでいたのが、昨年はついにその数が100前後にまで減少した。フランス語の原書を読むようになったことを加味しても、顕著な数字だ。今年も去年と同等か、それを下回るペースになっている。

だが、読む時間が減ったのは遺憾だが、冊数が減るのはそんなに問題だろうか?

もとより30歳を境に乱読は卒業するつもりだった。
そもそもひと月に20冊以上読んでいた頃は、本の内容云々よりも、それを「読んだ」事実が欲しくて、やみくもにページを繰っていたところがある。実際、どれだけ内容を掴んでいたか、はなはだ心もとない。

これからは一冊一冊を楽しむ、大人の読書をするとしよう。

そのためには方法論が必要だ。どれだけ「早く」読むか、ではなく、どれだけ「深く」読むことができるか、その方法が。

一番いいのはやっぱり二度読みだろう。読み終えた本をその足で間を空けず、再度読み直すやり方。以前にも何度かやったことのある方法だが、はっきり言って理解度が格段に違う。正直、一回読んだだけとは雲泥の差だ。小説、人文科学、原書、その他を問わず使える最強の手法である。

この読み方の欠点はやはり、どうしても時間がかかってしまうことだろう。同じ本を二回読むわけだから、二倍とは言わないまでもそれに近い時間がかかる。一日8時間を仕事に拘束されている社会人にとって、時間はなによりも(はっきり言ってお金よりも)貴重な資産だ。

これを解消する画期的な方法はないが、気休めはある。一度読んだだけでは理解できないのだから、一度読むだけの読書は糞だ、と割り切ってしまうこと。もちろんこれは、これまでの読書経験を否定するもろ刃の剣だがそこは、まあしゃあないやん?という思い切りで乗り切るしかない。

もっと実用的な方法としては、読み方を工夫する手もある。小説では使いにくいが、実用書や哲学書では、一度目にさっと目を通し、二度目に読み込むやり方が有効だ。それなら、つまらない本ならば、一度目で止めればいいし、二度目は一度目で大事だと思ったところ、わからなかったところだけ読むことも可能だ。

さあ、本を読む準備はできた。あとはそれをこなす集中力だけだ。もっともこれこそが、歳をとって一番失われてしまう能力なのだけれど。

Au revoir et à bientôt !
神戸の観光地、異人館うろこの家。
 


2013年6月20日木曜日

足りない「なにか」を埋め合わせるもの

「おとといは兎を見たわ、きのうは鹿、今日はあなた」。

「ロバート・F・ヤング永遠の名作」と帯広告に銘打たれたこの作品、今年5月30日に初版が発行され、既に3版を重ねているのは、海外文学ジャンルにおいては極めて異例なことだ。

もちろんこれにはタネがある。どうやら『ビブリア古書堂の事件手帖』とやらに同作が登場している模様。ライトミステリ系の作品で400万部突破、今年1月にはテレビドラマ化もされたようだ。なるほど。本と本とを繋ぐ道はどんな形でも構わない。殊にこのような形で人気が出て、絶版本が再刊されるような運びとなれば、一読者として悪いことなど一つもない。

『たんぽぽ娘』は河出書房の奇想コレクションから発売。2003年に刊行が始まったシリーズで、同作をもって全20冊完結した。内容は海外のSF、ファンタジーを主としている。

当時私は書店に勤めており、松尾たいこ氏によるカバー絵がひどく印象的だったのを覚えている。

シリーズで他に読んだのは、のちに文庫化されたシオドア・スタージョンの3作、『不思議のひと触れ』、『輝く断片』、『[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ』のみで、この4作だけでこのシリーズ全体を、更にはSFを語るのはおこがましい。

それでもあえて言わせてもらおう、SFってやつには「なにか」が足りない、と。

私もSFでは嫌いではなく、ある程度(本当に!)は読んできているつもりだが、これまでSFで「名作」と呼ばれるもので、二度読み返したものはない(例外はカート・ヴォネガッド・Jr の『スローターハウス5』)。

理由としては、このシリーズのように作品の多くが、その面白さの大部分を「奇想」に負っており、それを堪能してしまったら、後には何も残らない。

じゃあ、それが悪いか、といえばそんなことはなく、むしろ大歓迎だ。『たんぽぽ娘』も私は結構好きだぜ。もちろん、「永遠の名作」なんて言葉は少しばかり盛りすぎた、とは思うけれど。

この作品集で優れているのは表題作と、ラストの『ジャンヌの弓』。どちらもSF的小道具を上手く使って、人間性を、より正確には恋の素晴らしさを賛美している。とりわけ後者の作品は、すべての道具立てが巧妙に組み合わされて使われており、ラストシーンは感動的ですらある。

確かに、私にとってSFとは「なにか」物足りなさを感じさせるジャンルだ。だがそれを埋め合わせる要素もここにはちゃんと入っている。それは、失われた楽園=青春への限りない憧憬だ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年6月16日日曜日

『アサイラム・ピース』と地獄のイメージ

恥ずかしながら、アンナ・カヴァンの名前は初めて聞いた。

アンナ・カヴァン / Anna Kavan(1901-1968)。フランス生まれのイギリス作家。ここに「女性」とか「SF]とかの属性を付け加えても構わないが、それに大した意味はない。幼い頃から不安定な精神状態にあり、最初の結婚生活が破綻したころからヘロインを常用。1929年に最初の小説を発表後も何度も自殺未遂を繰り返す。1940年、初めてアンナ・カヴァン名義の作品『アサイラム・ピース』を発表。1967年には終末のヴィジョンに満ちた長編『氷』を発表。その翌年、自宅で死亡しているのが発見された。

今回手にしたのは国書刊行会から2013年1月に刊行された『アサイラム・ピース』。短編小説集の体裁をとった長編(より正確には中編)小説だ。

彼女の描く世界観を、解説・翻訳者は繰り返し「カフカ的」と形容するが、およそこの語ほど相応しくないものはない。

表題作を見てみよう。一見短編小説集の形をとったこの作品の中ごろから終りにかけて(p115-186)、約70pに渡る、作中で質量ともに最も重要な一編だ。

描かれた舞台は、イギリスのどこか(対岸には自由の国、フランスが見える)にあるサナトリウム。そこに収容された人間の多くは、自らの遺志に反して入れられている。

彼らの抱く不安や焦燥、絶望がひとりひとりに焦点を当てて丹念に、と言っていいのか繰り返し絵が描かれる。なぜ自分はここにいなければならないのか。この問いは、「なぜ自分は(ここで)生きているのか」という、人間存在の根源を問う設問と通底する。

だが、カヴァンの世界は良くも悪くもその道を行かない。彼女が書くのはあくまで、見捨てられた境遇にある人々だけだ。彼らの感情の揺らぎや起伏、それだけを執拗に描く。そうすることで、自分が幼少期から捕らわれていた不安を取り除こうとする、いや他の人に押しつけようとするかのように。

これは近しい人から見捨てられた人々の物語であり、それ以上でもそれ以下でもない。そうした意味において、彼女の作品は「カフカ的」ではないし、同様にサナトリウムを舞台にしたトーマス・マンの傑作『魔の山』とも境遇を異にする。彼女の願いはただ一つ、近しい人々から(再び)受容されること、それだけなのだ。

すがるように手を伸ばしながら、掴むことのできるはずの慰めすら求めない。それが自らが創出した幻想にすぎないからなのか。伸ばした手の空虚な所作を自ら嘲るように、カヴァンは物語の最後、夫に再度見捨てられた少女に向かって、看護師がこう言うのを許す「ばかなおちびさん!…今日は松籟館(*)よ」。

われわれはみな例外なく、無関心と嗜虐性からなる看守の才能を持ち合わせているのだ、嫌になっても逃れられないほどに。

Au revoir et à bientôt !
  
(*)作中で最も症状の重い者、最大限の監視が必要とされる者が収容される場所

2013年6月15日土曜日

薔薇は萎れてしまった

物事には時機がある。

時機の則した、していないは非常に重要な問題である。なぜならそれは物事の運命を決定づけるものであるから。より宿命論的に言うならば、時機に則して物事を行う(書く)ことは、それを宿命と寄り添わせるようなものだ。逆に時機を逃すことは、宿命と添い寝する機会を逸するようなものだといえる。それはある種、神に対する予期せぬ反逆だ。

ここにそんな袋小路に落ち込んでしまった一編がある。

『Altera Rosa 運命に翻弄された街で薔薇と踊る』 と題したこの article は、本来なら一月前にアップされるべきものだった。先月にアヴィニョンで行われた「バラ祭」の映像と、旅行で訪れた思い出を、かの地にまつわる歴史と絡めて書く、書いたつもりだった。

今では時機を逸してしまい、それはほとんど色あせて見える。けれどもこのまま棄ておくにはもったいない。だってまだ使えるだろ?――そんなわけで、私の37の悪癖の一つ、自己引用でもってなんとか再構築を試みる次第である。


Avignon / アヴィニョン。パリからTGVで3時間40分ほど、快適さ、近隣に散在する街へアクセスする利便性、そしてなにより街自体が持つ魅力が、この街を忘れがたい存在にしている。

Avignon / アヴィニョン。この街は私にとって縁深い。滞在期間の長さがこの執着の形成に一助を買っているのは当然として、その文化的背景や最近お気に入りの作家、Henri Bosco 生誕の地という付加価値が、より一層執着心を煽り立てる。パリがフランスの首都であることに異論はないが、私にとってフランス第二の都市は、マルセイユでもリヨンでもなく、この街なのである。

なによりも教皇庁によって有名なこの街には、他にも有名なものが多々存在する。イベントに限れば今年も演劇祭が行われるし、この時期には"Altera Rosa" と呼ばれるバラの祭りが催されている(協賛には日本でも有名な香水会社 L'Occitane / ロクシタン も名を連ねる)。

祭りの見どころはバラもさることながら、教皇庁を巨大なスクリーンとして使用する映像芸術だ。なるほど、今の時代YouTube でいつでもどこでも見ることができる。しかしながら実際に体験するとなるとやはり、現地に赴くより他に方法はない。

とりあえず、なにも考えず言ってみよう。今年第9回目を数えるAltera Rosa / バラ祭 の開催期間は5/9 ~ 5/12 まで。

って、終わっとるやないかい!!



…まぁ、あれだ。つまり最初に書いた時点ですでに時機を逃してしまっていたわけだ。間にあうもあわないもない、後出しでやった失敗。

いいさ、季節外れの花もまた、見る人の心によっては美しい。萎れた薔薇にも使い道はあるだろう。萎れた薔薇を胸に挿して、街を歩こう。宿命の角を曲がるとき、同情くらいはひけるだろう。

Au revoir et à bientôt !

習慣をなくした今、僕はこんなありさまだ。

いくらなんでも、久しぶりすぎ。

5月は順調に18日まで書いていた。3日に1本のペースは、「月10本」と自分に課したノルマに一致していた。

更新が途絶えるのは突然だった。

理由なんてないさ。ただ書けなくなっただけだ。

今日は6月15日。空白の期間はおよそ一カ月。ブログを再開するためにこれだけの時間を要した。

理由なんてないといいつつも、言い訳めいたことを言わせてもらうと、契機は5月20日から3日間続いた研修にあった。普段のルーティンと異なることをするのには、いつもより余計に活力がいる。そんな余分な活力が、梅雨時の私にあるはずがない。

そもそも一日のノルマを取り戻しにくい日々を送っていることにも要因がある。たとえば、一週間の勉強量。これは1日4時間×7日間=28時間と決めている。これは、休みの日にゆっくりできる一方で、平日の負担が大きいこと、2,3日やらなかった場合のリカバリーが難しい。

人によってはこの時間を、平日2時間、2日の休日には9時間ずつの計28時間にする人もいるだろう。この場合は簡単だ。休日に気張ればいい。平日何日か休もうと、他の日でカバーすることは簡単だ。

2,3日やらなかったら、もうめんどくさくなっちゃうんだよ。投げ出して、投げやりになってしまう。あげく、なにもしない。今回はこの期間が二週間続いた。その後少しずつ以前の習慣に戻ろうという反発力が働き出し、現在はその回復途上にある。それゆえこんな駄文も仕方がない、と思っていただければ幸いだ。

なんにしろ、今日から再開だ。こんなときにいつも思い出す、堀江敏幸氏の言葉を引用して、再びやり直そう。準備はいいかい?オレはできてる。

気持ちよく遊び、いちばん身体にあったリズムで精いっぱいの仕事をする。そういう自由を手にする権利は誰にでもある。しかし一生懸命やったから負けてもいいと試合の前に悟ってしまうのは見当ちがいだし、かといって是が非でも勝たなければと自分を追いつめるのもおこがましい。このふたつの矛盾のあいだでじっと動かずに待つときの気持ちの匙加減はとても難しいのだが、正吉さんの表現をいくらか変形するなら、普段どおりにしていることがいつのまにか向上につながるような心のありよう、ということになる。…変わらないでいたことが結果としてえらく前向きだったと後からわかってくるような暮らしを送るのが難しい…
『いつか王子駅で』(p.155-156)

Au revoir et à bientôt !