2013年6月29日土曜日

文学のインプロヴィゼーション

もう2年も昔に、「人生にリセットボタンはないが、社会にはあるべきだ」というタイトルの文章を書いた。人の生きる時間は不可逆的で、「あのときああしておけば」と後悔してもやり直せない。その一方で、社会が一度失敗したからといって、立ち直れない仕組みになっていては、後悔にまみれた人間たちの生きる場所がなくなってしまう。

創作にも同じことがいえる。

人の一生の持つ不可逆性と、(理想的な)社会の持つ柔軟性をそのまま、ファースト・テイクとその後の修正に較べてみること。

勢いに任せてでも、呻吟しながらでも書きあげた第一稿は、それ自体ある種の聖性を持つ。加えられるにせよ削られるにせよ、あるいは順序が入れ替わるにしろ、すべて後出し、後付けにすぎない。それらはすべて、ファースト・テイクの不滅を否定するものではない。

それでは、時間が、つまるところ人生が含む一回性を推し進めていくとどうなるだろうか?ファースト・テイクの至高性を唱えたのが、ジャズのインプロヴィゼーション(即興演奏)であり、文学なら集ルレアリストの自動筆記(écriture automatique)だろう。


今回紹介するボフミル・フラバルの『わたしは英国王に給仕した』も、自動筆記とは異なるものの、わずか18日で書きあげられたと言われており、ファースト・テイクを重視した作品といえる。

駅のソーセージ売りから出発した主人公が、その人間的魅力を武器に、いかにしてホテルの経営者まで上りつめるか。ドイツ文学の伝統にある教養小説(Bildungsroman)の一種とも言えるが、それよりもより中欧文化に根差しているようだ。

性的なものとユーモアの結合は、同国出身の現代フランス作家、ミラン・クンデラと共通するし、なによりハシェクの『兵士シュヴェイクの冒険』と、ストーリーの展開の仕方が瓜二つ。どちらも戦争や出世街道といった英雄譚の要素が求められる題材を、民衆の言葉と笑いを巧みに用いて、ドタバタ喜劇に転換している。

この作品を読んでなにが得られるか?「人生は一度きり。だから目いっぱい楽しもう」なんて、腐った格言めいた言葉を引き出すよりも、主人公に思いっきり影響されて、好きな女の子に告白して、見事玉砕して、周りから嘲笑され、作者を呪うほうがきっと、草葉の陰で眠る作者にとっても本望だろう。

さ、思いっきりやらかそうぜ。

Au revoir et à bientôt !
 

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