20代後半の五年間でようやく、この世のすべての本はおろか、自分が読みたいと思っている本ですら、そのすべてを読むことは不可能だと悟った。
こればかりはどうにもしようがないことだ。本は限りなく、人の一生は短い。20代の頃に較べて、読書に費やす時間もお金も減った。20歳頃には年間300冊近く読んでいたのが、昨年はついにその数が100前後にまで減少した。フランス語の原書を読むようになったことを加味しても、顕著な数字だ。今年も去年と同等か、それを下回るペースになっている。
だが、読む時間が減ったのは遺憾だが、冊数が減るのはそんなに問題だろうか?
もとより30歳を境に乱読は卒業するつもりだった。
そもそもひと月に20冊以上読んでいた頃は、本の内容云々よりも、それを「読んだ」事実が欲しくて、やみくもにページを繰っていたところがある。実際、どれだけ内容を掴んでいたか、はなはだ心もとない。
これからは一冊一冊を楽しむ、大人の読書をするとしよう。
そのためには方法論が必要だ。どれだけ「早く」読むか、ではなく、どれだけ「深く」読むことができるか、その方法が。
一番いいのはやっぱり二度読みだろう。読み終えた本をその足で間を空けず、再度読み直すやり方。以前にも何度かやったことのある方法だが、はっきり言って理解度が格段に違う。正直、一回読んだだけとは雲泥の差だ。小説、人文科学、原書、その他を問わず使える最強の手法である。
この読み方の欠点はやはり、どうしても時間がかかってしまうことだろう。同じ本を二回読むわけだから、二倍とは言わないまでもそれに近い時間がかかる。一日8時間を仕事に拘束されている社会人にとって、時間はなによりも(はっきり言ってお金よりも)貴重な資産だ。
これを解消する画期的な方法はないが、気休めはある。一度読んだだけでは理解できないのだから、一度読むだけの読書は糞だ、と割り切ってしまうこと。もちろんこれは、これまでの読書経験を否定するもろ刃の剣だがそこは、まあしゃあないやん?という思い切りで乗り切るしかない。
もっと実用的な方法としては、読み方を工夫する手もある。小説では使いにくいが、実用書や哲学書では、一度目にさっと目を通し、二度目に読み込むやり方が有効だ。それなら、つまらない本ならば、一度目で止めればいいし、二度目は一度目で大事だと思ったところ、わからなかったところだけ読むことも可能だ。
さあ、本を読む準備はできた。あとはそれをこなす集中力だけだ。もっともこれこそが、歳をとって一番失われてしまう能力なのだけれど。
Au revoir et à bientôt !
神戸の観光地、異人館うろこの家。 |
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