2011年10月19日水曜日

集まる、散らばる

おはようございます。

随分久しぶりの更新な気がしますが、いつものように。

「日本は道を基準に町が作られ、ヨーロッパは広場を中心に町ができる」という話を以前どこかで読んだ記憶があります。

日本が道中心の社会であることは言を俟たないと思います。地方都市においては殊にそうで、一本の主要な道路があって、その道沿いにどんどん大型店舗ができて繁栄する一方、その道から外れた商店街などはさびれていく…公共交通機関の発達している都市部以外では例外なく見られる光景、現象でしょう。それが一昔前の政治家が選挙に勝つために道路の敷設を公約に掲げた理由であり、地方都市の驚くほどの画一的風景の要因だと思われます。

一方、ヨーロッパでは、確かに広場というものが大きな中心を占めていると思われます。村、町の構成単位として、広場(と教会)は欠かせない要素なのでしょう。

二つを比較した場合、広場は放射線、あるいは同心円的に、一方の道路は直線がだんだんとその幅を広げていくように拡大していくことになると思われます。

その結果どうなるのか?

道路型では人間が拡散して住み、広場型では集束することにならないでしょうか?

仮にこれが事実だとすると、非常に面白いと思います。なぜなら、可住面積の狭い日本で拡散型の道路社会が成立し、可住面積の広いフランスなどのヨーロッパにおいて集束型の広場社会が発展しているのですから(ヨーロッパと括るとあまりに広すぎるので、フランスのみを考えてます)。

更に一般論に展開すると、人間は、狭いところでは離れたがり、広いところでは集まりたがる性質を持った生き物だということになります。

私の個人的な感覚では理解しやすいのですが、社会というそれぞれ性質の異なる人間の集積が、一個人と同じ感覚を有しているというのは、それもまた不思議な気がします。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
コンコルド広場。人によってはModern Jazz Quartet の同名アルバムの印象が強いかも。

2011年10月13日木曜日

帯に短し、襷に長し――新しい職場三日目

おはようございます。

新しい職場で働き始めて三日が経ちました。

前の旧ソ連のような職場に較べるとまったく普通です。
言語統制もなし、意味のわからないパワハラもなし、平穏に働いていけそうな気がします。

が、不満もやっぱりあるんですね。
言い出したらキリがないのでここでは一々挙げませんが、それで思うのは人間、欲望に限りなし、というところですね。

大体自分の思っているような理想の職場なんてあるはずもなく、そもそも自分がどんな理想を持って働いているかも明らかでないのだからなおさらで、どこに行っても何らかの不満は出てくるわけです。表題に挙げた諺を援用すれば、「帯にするには長さが(いつも)足りない」のです。

仕事をしていく上で大事なのは、要はこの帯=理想に対して足りない部分、長さをどのように補うかが問題になるのだと思います。

それは、仕事から目を逸らしてフランス語に打ち込む(え?)のもいいでしょうし、自分で努力して職場を変えるのもいいでしょうし、あるいは自分が職場に変えられるのもいいでしょう。

ただ願わくば、理想を短くするようにではなく、現実を長くするような自分の力の使い方をしたいものです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
飴と鞭で自らを鼓舞する。これは飴ばかり

2011年10月8日土曜日

坂道。このマージナルな空間

おはようございます。

いつものように更新しているような気がするのは気のせいです。

そろそろ三十歳に手が届こうかという年齢にもなると、自分自身の好み・性向がある程度掴めてくるように思います。

そんな歳になるまで…という声も聞こえてきそうですが、自分のことって意外とわからないものですよね。人の欠点ばかり目について、自分のそれには気付かない、なんてことは良くあるのではないでしょうか。

さて、自分自身の好みの話に戻しますと、最近「坂道が好きだ!」と改めて強く思うのです(改めて、というのは以前から以前から好きだったわけでして)

坂の良さはなんといっても風景の劇的な変化が味わえることでしょう。少し歩く(登る)だけで、平坦な場所ではあり得ないような変化に出くわします。それは鳥瞰的な視界の獲得であるとか、家屋のすぐ後ろにそびえる絶壁であるとか、途切れた坂の上に落ちかかっている空であるとか、実に様々です。

坂はこの世とあの世を結ぶ「あわい」の空間、私の好きな言葉では「周辺的な=マージナルな」空間です。

古代・中世には坂の途中に市が立ったことにも、坂の周辺的な性質が表れていると網野善彦氏は言い、坂の町金沢で生まれ育った泉鏡花は幻に戯れる作品を数多く残しています。

すぐそこに見える目的地にたどり着くのに、あっちに行き、こっちに行きと右往左往し、上下に昇降する身体の感じる戸惑いが、そのまま頭にも繋がっているのか、目に見えるものと身体の感じるものとのギャップ、不均衡、そして目に映るものもまためまぐるしく変化していく…。坂は非常に劇的な空間なのです。

すれ違った親子と挨拶を交わして、しばらくして振り返り、仰ぎ見ると、子供の笑い声だけが、どこからともなく聞こえてくる。どんなに人間の住む環境が変化しようとも、そこにある限り坂道は、想像力を刺激してやまない空間であり続けるでしょう。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

街中の細い路地を進むにつれ、坂道や階段に変わっていく、そんな道が好きです。 Lyonの旧市街地にて


2011年10月6日木曜日

近況報告 10月

おはようございます。

今日は個人的な話、近況報告を。

・ 仏検準一級の試験まであと50日を切りました。

・ 新しい職場が決まりました。今月12日初出勤です。

そんなわけなので、ブログの更新頻度が遅くなるかもしれません。逆に早くなっていたら、現実逃避をしている状態です。


さて、せっかくなので私が仏検対策で行っている勉強法を書こうと思います。

今やっている問題集は全部で4冊。以下に挙げると、

① 仏検準一級公式問題集(2009年度版) / 財団法人フランス語教育振興協会

② 仏検合格のための傾向と対策(準一級) / エディションフランセーズ

③ 仏文和訳の実際 / 大修館書店

④ 日常フランス語会話 ネイティブ表現 / 語研

+文法、表現などの参考書や辞書3,4冊を参照しながら、やっている感じです。①と④は既に4,5回やってるのですが、③が難しくてなかなか進まない。②はこの前買いました。
① と ② で仏検特有の問題対策を、③ では日本語 → フランス語訳の勉強を、④ で一般に良く使われる表現の丸暗記+聞き取り対策、といったところ。①は2011年度版を買えよ、というとこなんですが、解説があまり詳しくない+問題数が少ないので悩みどころ。②が同じような内容で問題数も多いので、これを残り1カ月とちょっと、やり込むつもりです。

課題はやっぱり、「単語力」ですね。こればっかりは時間をかけて覚えていくしかない。この地道な作業をやるかやらないか、一つの単語を知っているか知らないかが明暗をわけるんです。

あと基礎はめちゃくちゃ大事だな、とここまできて改めて感じます。全ては文法に則っているわけです。その文法をきちんとやってれば、文章の構成も良くわかって誤訳も減るし、自分で表現するのも容易になる。今やり直してます。

はい、だらだらした文章でした。すいませんでした。次回からまたいつも通りの予定です。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
勉強に疲れたら、フランス関連本を読んでテンションを挙げる。モチベーションの維持は大事なのです。

2011年10月5日水曜日

バリアフリーな社会を目指して

おはようございます。

大仰なタイトルをつけましたが、バリアフリーについてです。

日本で「バリアフリー」と聞いて思いつくのは、建築、ハードに関連した事柄が多いでしょうか。
車椅子のためのスロープや、歩行困難者のための手すり、視覚障害者のための点字ブロックや標識など…。

その前にまず基本をおさらいして、「バリアフリー」とはどういった意味でしょうか。
二つの意味に分割できます。「バリア」と「フリー」。単純に解釈すると、「バリア=障害」から「フリー」になること、あることとなるでしょう。あえて日本語に訳すると、「障害から自由であること」、「障害を取り除く」、「障害のない」といった意味でしょうか。

今日本語に訳してみても、「バリアフリー」という単語のどこに重点が置かれているか、どこの解釈が大事と思われているか、明らかです。それは「フリー」の概念をどのように捉えるか、に終始しています。
「フリー」の語を考えることは、「どのように」障害を取り除くか、その方法論の模索だといえるでしょう。

一方「バリア」のほうはどうか、といえばこちらが今回の本論なわけです。

私は「臨床」という語が福祉の分野で特に好ましいものに思われ、もっと使ってほしいと思うのです。この語をよく使われる言葉に直せば「現場」という語にそのまま置き換えることができるでしょう。
臨床という体験を大事にした専門家に、臨床心理学の河合隼雄氏、「臨床哲学」の語を創造した鷲田清一氏がいます。この二人の対談集『臨床とことば』は非常に刺激的です。

「バリア」はその人が直面している障害、問題です。まずこの「問題がなにか」を知ることが「臨床=現場」の仕事となるでしょう。
これが意外と難しい。なぜなら、各人が直面している問題は実に様々で千差万別。一見しただけではそれと見抜けないことが多いのです。

例えば、ここに両下肢麻痺の人がいるとします。彼は普段車椅子生活を送っています。
で、彼が「旅行に行きたい」と思っているのだが、なかなかその実行を渋っている。どういった理由で?

その理由を安易に彼が「両下肢麻痺で車椅子生活を送っているから」、と捉え車椅子でも移動可能な環境を整える(最初に書いたスロープやエレベーターの設置)だけでは、「バリアフリー」を実現したことにはならないでしょう。
それは、彼が車椅子で移動することに劣等感を覚えているから(心理・社会的障害)かもしれないし、お金がないから(金銭的障害)かもしれないし、日常が忙しく、時間的がないから(時間的障害)かもしれないし、あるいは…

その人が直面する「障害」を表面的な事象に捕われず、正確に把握すること。これが福祉用語の「アセスメント」の要点でしょう。噛み砕いていえば、「億劫に思っているその理由を突き詰めて考える」ことですね。このあまりにも臨床の場に即した体験こそ、一般的な「バリアフリー」の理解に欠けている部分ではないでしょうか。

ようは「バリアフリー」の考え方は、目的を達成するための「方法論的(=フリー)」アプローチと、「臨床=現場的(=バリア)」アプローチの両輪があってはじめて成り立つ概念であるといえます。

以上、自分なりにバリアフリーについてまとめてみました。
では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
何に障害を感じるか、まさに人それぞれです。横との距離が近すぎるトイレ







2011年10月4日火曜日

デンマーク、デンマーク!!

おはようございます。

もう10月も4日です。知人のブログにキンモクセイの香りが…と書いてありましたが、なるほど、確かに秋の訪れです。

今日は福祉先進国デンマークについて。

といってもデンマークについてなにも知らないので、wiki で少し調べてみました。著名な人物としては、物理学者のニールス・ボーア、哲学者のキルケゴール、童話作家のアンデルセンなどが挙げられています。あと、自転車競技チームのサクソバンク・サンガードもデンマークを本拠地にしていたんですね、知らなかった。

さて、本題。デンマークの福祉について。
今はそれほどでもない気もしますが、一時期は「福祉の理想=デンマークの福祉」という等式が成り立っているようなところがありました。

で、実際にそれを取り入れよう真似しようという動きが出るのですが、当然のように上手くいかない。それは何故か?

行政だけがやっても、現場だけがやっても駄目。その両方が同じ方向を向いて進むこと。
なおかつ、サービスの受け手が変わらなければ難しい。

というのも、やっぱり「人間」の捉え方が日本とヨーロッパでは違いますよ。その結果今現在できている「社会」が違う。日本人が作り上げてきた社会に欧米の考え方をそのまま持ち込んでも上手くはいかない。殊にデンマークの福祉のような限りなく社会主義的政策は、資本主義万歳国家日本とあまりに相性が悪いと思うのです。

西欧型の民主主義がアラブ諸国では上手くいっていないように、万国共通で使用可能なツールというものはなかなか見つからないものだと思います。もちろんそのような万能ツールを探す試みも必要ですが、まずはそれぞれの社会、環境、文化の違いにしっかりと目を向けることが、遠回りなようですが、誰もが暮らしやすい理想的な福祉国家の樹立のために必要なことではないでしょうか。

それでも、私が思う今すぐにでも日本で広めたい要素がひとつ、それは「バリアフリー」の概念。

なにを今更、と言われるかもしれませんが、この考え方の根っこの部分が上手く伝わってないように思うのです。
どういうことか、を書こうと思ったら長くなりそうなので次回に。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
本文に全然関係のない、アンリ・ルソーの絵。オランジェリー美術館所蔵