2014年3月8日土曜日

グルーヴィ。 ピンチョンの 『LAヴァイス』

マクガフィンとはなにか。「なんでもないんだ」とヒッチコックは言う。でもそれは、無や否定ではない。むしろ、ストーリーを駆動させるために必要な小道具ですらある。小道具の内容にこだわる必要はない、と彼は言いたいのだ。エンジンをかけるキーの形にこだわる人が少ないように。

個人的な話になるが、「マクガフィン」なるこの単語、私に一人の人物を思い出させる。彼女との束の間の繋がりを思い出させるこの語が巻末解説に現れたことによってなおさら、私とピンチョンの『LAヴァイス』 との結びつきが強調されることになる。

原題は『インヒアレント・ヴァイス』。「固有の瑕疵」とは、そのもの固有の性質として備わっている悪、の意味。海上保険会社はたとえば、疲労亀裂が原因でマストが折れて事故になったりした場合、それは「固有の瑕疵」が原因だとして、支払いの拒否を主張することができる。ピンチョンはこの概念をロサンゼルス、ひいてはアメリカ全土へと広げ、アメリカという国の「インヒアレント・ヴァイス」とはなにか、語り明かす。

物語はロスの建築業界の超大物、ミッキー・ウルフマンが、シャスタと共に謎の失踪を遂げるところから始まる。主人公のヤク漬け私立探偵ドックは、彼女の身を案じ、調査に乗り出す。だって彼女、昔の恋人だから。

おわかりいただけただろうか。こうして読後の余韻に浸りながらこの一文を書いている私が、ドックとシャスタの関係に自分を重ね合わせていることに。もちろん私の知り合いは事件に巻き込まれたわけでも、かつて恋人だったわけでもない(もちろん!)。だが彼女と私とマクガフィンをめぐる冒頭のエピソードがこの記事のマクガフィンの役割を果たし、それがシャスタ(それにウルフマン)の失踪という作中のマクガフィンと呼応する。

ドックがシャスタの行方を追う、このエピソードが小説の前景にあるとすれば、ドックと裏返しの存在である刑事ビッグフットの追いかけている事件が後景にある。アメリカ社会に潜む悪を暴くことを目的としたこの旋律部分こそが、この作品の主の部分だ。

そして強引にこれを、『魚たちは群れを成して森を泳ぐ』から『映画 さよなら、アドルフ』、そしてシュペルヴィエルの翻訳を作中に何度も流れる歌に喩えれば、ピンチョンが暴き出そうとする根源的な悪を、排除の形を成す悪と比較することができる。

つまるところこの一連の流れを読むことが、『LAヴァイス』を読むことの矮小化された反復だということだ。そうすることで私自身、ピンチョンの作品を要約するという愚行に手を染めずに済み、なおかつ読者には作品の雰囲気だけでも味わってもらえる、一石二鳥で今の私ができる最良の手段ということができるのだ。グルーヴィ。

ドックとシャスタが結末近くに再会するように、私とその人物の再会はあるだろうか?おそらく、いやまず間違いなく、ない。それが私の物語だからだ。自分の人生の瞬間を小説に託すことで得られるもの、それは、次の瞬間には忘れられる心の働きを永遠に記録し、読み返すたびに反復される経験だ。これも一種のドラッグといえば、そうだ。

誰にだって連絡を取らなくなった友人、知人はいる。その人について、ある日ふと、どうしてるかなと気にかける。それが物語を動かす原動力=マクガフィンだ。その結果、ドックは巨大な事件に巻き込まれ、私はこの文章を書いた。さて、あなたは?

Au revoir et à bientôt !


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