2012年3月26日月曜日

用意されていたかのような追悼文

イタリアの小説家、アントニオ・タブッキが亡くなった。

人間の生と死、魂を最後まで見つめ続けた、数少ない誠実な作家の一人だった。
幻想的な物語を書く一方で、現実に対して正面から向き合うことも決して止めないで、『ダマセーノ・モンテイロの失われた首』では実際に起きた事件をもとにして、警察の腐敗を糾弾した。
ポルトガル文学の教授であり、特にフェルナンド・ペソアを専門としていた。ペソアに関する論文や、翻訳も多い。

「サウダージ(郷愁)」と呼ばれるポルトガル人の国民的感情に注目しており、彼自身もサウダージの作家、と呼ぶことができよう。その証拠に代表作である『インド夜想曲』や『レクイエム』、『供述によるとペレイラは…』などにおいて、不在の者に対する優しいまなざしが見受けられる。

この最後の小説には一人の新聞記者見習いが登場する。彼の名はモンテイロ・ロッシ。ペレイラ氏は彼にはじめて出会ったとき、こう述べる。

「えらい作家が死ぬと、そのたびに新聞は故人の業績をたたえる記事や追悼文を載せなければならない。業績をたどり、これをたたえる記事というのは、すぐに書けるものじゃない。まえもって準備しておくんだよ。そこで、ぼくは、今世紀の大作家といわれる人たちについての記事を、まえもって書いてくれる人間をさがしている。」 / 『供述によるとペレイラは・・・』

ここ数回、私が書いてきた文章は、タブッキという今世紀の大作家のための追悼文としてはあまりに貧弱なものだといえる。しかしながら私は、自分が知らず知らずのうちにタブッキの作中人物となって、その小説を書いた張本人の追悼文を書いていたような錯覚に襲われる。

あえて自己引用をすると、
…『時は老いをいそぐ』から『他人まかせの自伝』へ、そこから『レクイエム』、『供述によるとペレイラは…』、『さかさまゲーム』…へと繋がっていく一連なり。
その、一冊一冊に直接の関係はないけれど、全体として見るとまぎれもなくひとつのテーマで緩やかに結ばれている読書。
読むという行為がタブッキの小説世界をなぞる、まさしく『さかさまゲーム』と言えるでしょう。

このように、作者が読者の読書に直接的な介入を行うような体験もまた、読書の愉しみの一つでしょう。 / 『人生は短く、読書は長い』


いまや物語の地平は読書から現実へ移行する。人生が小説を模倣する。
私の生がタブッキの小説世界をなぞる、「さかさまゲーム」。
亨年68歳

このゲームはしかし、作者タブッキの死によって再度裏返される。

彼の死によって、私の書いた文章はこうして追悼文の役目を果たし、私は掲載することのできない文章ばかりを書いていたモンテイロ・ロッシの役割から開放される。
そして同時に、私は、父親的な優しさに満ちた、ペレイラ=タブッキのまなざしの下から否が応でも這い出なければならない。

もはや彼が新しい物語を書くことはなく、残されたのは既存の物語だけだ。今度はタブッキが、郷愁に満ち溢れた小説を書いた作家として、私の生の中に舞い戻る。

 
…それどころか、なにが、といわれるとよくわからないのだが、なにかが恋しくなった、それはこれまで生きてきた人生への郷愁であり、たぶん、これからの人生への深い思いなのだった…

タブッキの口から新たな言葉が、もはや二度と紡ぎだされないと考えるのは、たださびしい。

2012年3月24日土曜日

100回書いたからといって世界が変わるわけでもないけど

おはようございます。

昨年の六月から始めたこのブログも、今回で投稿数が100になります。

なんともまぁ、無駄なことをつらつらとここまで書き続けてきたものだ、と思わないでもないのですが、ここは素直に、ここまで続けてきた自分に讃辞を送るつもりです。

で、久しぶりに自分が書いたものを読み直してみました。

しかし、あれですね。全然変わってない、というか、あるいはものすごく変わったと捉えるか、難しいところです。

変わってない、というのは悪い意味で。
文章、思考の深度が一年で全く変わっていない。むしろ、最近はひとつの投稿に費やす時間が減っているだけ、浅くなってるんじゃないかとすら思えます。

変わった、というのは内容が。
はじめはフランスと日本の比較文化的な内容が主だった(はず)ですが、最近は完全に文学に比重がいってます。
まぁこれは仕方がないといえば仕方ないのですが。だって、半年以上前に行ったフランス旅行の話をいつまでもしてるわけにはいかんでしょう…。

さて、区切りの回なので今後の予定などを。

基本的には一カ月に10本くらいを目標に書いていくつもりです。内容はこれまで同様。激変することはまずないでしょう。仕事をしながら本を読みながら翻訳しながらフランス語で文章書きながら、そしてこれからの時期はチャリンコに乗りながらこのブログも同時並行で進めていきます。

自分で言うのもなんですが、私はなにかひとつを極める専門家ではなく、器用貧乏な人間だと改めて思います。それならそれでむしろ開き直ってやりましょう、自分の器用貧乏ぶりをトコトンまで突き詰めるのが、私という人間が最大限に生きる道なのだと。

100回書いたからといって世界が変わるわけでもないけど、自分一人くらいは良い方向に変えられると信じて次の100回を書き続けようと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
今年も冬が終わり、また春が来ます。これは去年の冬、福井にて

2012年3月20日火曜日

pushme-pullyou とオシツオサレツ――名訳を考える

おはようございます。

最近趣味とはいえ翻訳をしていると、プロの翻訳者がどのように訳しているか、非常に気になるのです。

このところ読んでいるタブッキで言えば、そのほとんどを名翻訳者の誉れ高い須賀敦子さんが訳していて、そういう観点からも注意して読んでいます。

で、須賀さんの翻訳を一言で言えば、「日本語らしい日本語で書いている(訳している)」ことです。
あまりに当たり前、といえばそれまでなのですが、ヨーロッパの言語に限らず別の言語を日本語に訳すというのは、以前に想像していたよりはるかに難しい作業なのです。

それぞれの言語にはそれぞれ固有の構造があって、それを別の言語に移すということは、とりもなおさず別の構造に作り替えることに他なりません。
今フランス語でも文章を書いているのですが、日本語で書いた文章を、一生懸命辞書を使って単語を調べて、そのままフランス語に移し替えたところで、「全く意味がわからない」と言われるのがオチなのです。

要は学校で丸暗記したように、単語と単語が一対一で対応してるわけではないんですね。
といっても、単語を暗記することも非常に大切なんですが、その際に大事なのは単語の意味ではなく、その単語の概念、ということになります。

須賀さんの文章を読んでいると、元の文章がわからない=はじめから日本語で書かれているように感じる、ことがよくあります。これこそ、名訳と言われる所以なのでしょう。

さて、今回のタイトルを見てピンときた方は、『ドリトル先生』シリーズを偏愛しているか、もしくは井伏鱒二ファンに違いありません。

pushme-pullyou とは、『ドリトル先生航海記』に初登場する、前後の別がない、双頭の動物の名前です。非常に臆病な動物で、360度の視野を持ち、眠るときも片方ずつしか眠らない、と描写されています。

この名前、一瞥しただけでわかるかもしれませんが、「push me」 と 「pull you」の二要素を合わせた単語です。「押す」ことと「引く」こと、「私」と「あなた」を組み合わせた、面白い名前だと思います。
この動物の名前を、『山椒魚』で有名な小説家、井伏鱒二さんは「オシツオサレツ」と訳しています。実に特長を捉えた、それでいて動物の名前らしい名訳ではないでしょうか。

みなさんも語学の勉強をしているのであれば、翻訳者がひとつの単語とどのように格闘しているか、その軌跡を探ってみるのも意地悪で楽しい読み方かもしれません。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
オシツオサレツの実在を証明する合成写真

2012年3月18日日曜日

人生は短く、読書は長い

おはようございます。

このところ、『失われた時を求めて』を読むのを一時中断して、イタリアの作家、アントニオ・タブッキの本を読み連ねています。

つい先日翻訳本が発売された、『時は老いをいそぐ』から『他人まかせの自伝』へ、そこから『レクイエム』、『供述によるとペレイラは…』、『さかさまゲーム』…と繋がっていく一連なり。
その、一冊一冊に直接の関係はないけれど、全体として見るとまぎれもなくひとつのテーマで緩やかに結ばれている読書。
読むという行為がタブッキの小説世界をなぞる、まさしく『さかさまゲーム』と言えるでしょう。

このように、作者が読者の読書に直接的な介入を行うような体験もまた、読書の愉しみの一つでしょう。

さて。最近「すべての本を読むわけにはいかない」という、ごく当たり前のことにようやく気付きまして、人生の残り時間と本の数とを比較して、時間の少なさに絶望したりするわけです。
どう考えてみても、自分が読もうと思っている、またこれから出会って読むつもりである本のすべてを読み終える時間はないのです。

これって、結構ショッキングな事実ではないでしょうか。

まぁ、頭では分かっていたのですが、実際にこうして目の当たりにしてしまうと、軽く絶望してしまいます。

じゃあどうするか。といっても、たとえ読書に費やす時間を増やすことはできるにしても、人生の期限を延長するにはいかず、つまるところ読む本を限るしか方法がないことになります。

限られた時間で如何に有意義な読書体験ができるか。そのためには本の選別が必要になります。
今思うのは、「読むべき」本など読まなくていい、ということです。

30年も生きていれば、「べき」という他人から借用した価値観に頼らずとも、自分の中に本を選ぶそれなりの基準ができているものです。
どんなに偉そうな大家と呼ばれる人が、「この本は読むべきだ」と言ったって、惹かれなければ読む必要なんて微塵もないのです。その「惹かれない」、という自分の直観のほうが、こと限られた人生の読書に関しては正しい、と私は声を大にして言いたいわけです。

さあ、自分の好きな本を読もう!

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2012年3月14日水曜日

Le revenante / 死者の霊

LE REVENANTE / 死者の霊

Les corbeaux lanceraient de leur bec les nuages             嘴で雲をズタズタにしたカラスたちは

Emportant des lambeaux,                  切れ端を咥えたまま、
Coulant a pic vos angeliques equipages,                         天使が乗った移り気な船に直下して、
Versatiles vaisseaux.                                                      船を沈める。

Les cerfs a voix humaine emplissaient la montagne         アカシカは人の声で山を満たす
Avec de tels accents                                                     白いバラに満たされ
Que l'on vit des sapins s'emplir de roses blanches          横向きに倒れた
Et tomber sur le flanc.                                                   モミの木々を強調して。

Jurez, jurez-le-moi, morte encore affairee                      誓ってくれ、それを誓ってくれ、
Par tant de souvenirs,                                                    死んでもなお数多の思い出に苦悩する、
Que ce n'etait pas vous qui guettiez a l'oree                    前世との狭間で待ち構えていたのは
De votre ancienne vie,                   お前ではなかったと。

Et que la dechirure allant d'un bout a l'autre                   明けそうもない夜の
De la nuit malaisee                                                        始めから終りまで広がっている裂け目
N'etait votre oeuvre, o vous qui guettiez jusqu'a l'aube   それはお前の作じゃない、おぉ、
L'ame dans la rosee.                                                     夜明けまで待ち続ける薄バラ色の魂よ。



おはようございます。月に一度の翻訳です。
ブログには上げていませんが、今もぼつぼつと翻訳を続けています。
現在はモーパッサンの短めのエッセイを翻訳中。フランス語ではわかってるつもりでも、日本語に訳してみると全然意味が通じない、ってことがよくあります。言語の互換性は意外と低いのかもしれませんね。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!


2012年3月9日金曜日

座標軸の歪みを正す

おはようございます。

このところ寒さも随分やわらいできて、コート姿の人の数もめっきり減ったように感じます。
今年もまもなく春が来るんだなぁと実感します。

日本の春といえば桜の季節ですが、それ以上に卒業・入学式があり、年度の切れ目の意味合いが強くありますね。
最近話題になっている、東大の9月入学ですが、もしこれが小学校から採用されるようになれば、春という季節もまた、大きな影響を被ることでしょう。

しかし、春ってやる気が起きませんね。

「春眠暁を覚えず」なんて故事があるように、もともと春はそんなに活動的になる季節ではないのだと思うのです。それが入学・卒業式やら、人事異動やらで環境が変わり緊張を強いられる、ってのはどうもあんまりよろしくないように思います。

私はといえば、異動とは関係なかったのですが、やる気の出ないこと甚だしく、今年に入ってこれまで順調に進めてきたフランス語の勉強やら、読書やら、ブログの更新やら(!?)が、ここにきて一気に停滞してしまっています。

やる気が起きないからダラダラしてしまい、ダラダラしている自分に嫌気がさして、投げやりになって、やる気をなくしてしまい…という悪循環に嵌ってしまっています。

やりたい気持ちは大いにあって、やらなきゃいけないとも思うのですが、身体がついてこない。自分の心や意志のある位置と、自分の身体がある位置がずれている感覚です。

こんなときみなさんはどのような解決法を持っているのでしょうか?

私の解決策としては、「眠れなくなるまでとにかく眠る」、「自転車に乗って身体を調整する」、「フランス語の辞書の適当なところを読む」などでしょうか。でもこれも、本当にやる気がないときにはなかなか効果が上がらないんですよねぇ。

要はどこぞの脳科学者が言ってたように、「やり始めないとやる気は出ない」ということですよ。やる気がなくてもやらなきゃ、ね。ということで、こんなグダグダな文章を書いてみました。やる気は出たか?それは御想像にお任せします。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
別に意味はないぜ!

2012年3月6日火曜日

失うことを恐れて愛しすぎない

おはようございます。

京都から引っ越して8ヶ月、大抵のことには満足しているんですが、唯一物足りないのは、「良い古本屋」の存在。これがあんまり見つからないんですよねぇ。けっこういろいろと探索しているつもりなんですが。

この時期はやはり引っ越しの季節ということもあって、いろんな本が新たに古本市場に出回ります。普段ほとんど商品の変わらぬ店が、その品揃えを一変させていることもあり、この時期の古本屋巡りはいつもと違った店に行くこともよくあります。

私の好きな古本屋、金沢いたころによく通ったのは、片町から犀川大橋を渡ってちょっと行ったところにあった「かも書房」(だったかな?)。
とにかくセンスが抜群で、ポール・ヴァレリーの『Cahier / カイエ』が原書で置いてあって、いつかそれを買って読もうと思ってました

京都では、美大の前にあった古本屋さん。ずっと左京区に暮らしたので、他には百万遍とか一乗寺とかに行ってたけど、ここのいいとこは、美術書が安かったこと。
それで、なにげに海外文学の絶版を普通の値段で売っていたり。
閉店の前日にたまたま店に寄って、ジッドとデュ・ガールの往復書簡集を買って、なにも言わずに千円引きにしてくれたのは、いい思い出です。まぁ、まだ読んでないんですけど。
どちらの古本屋も今はもうありません。

残念なことに、私の好きな店や偏向するものは大抵閉店したり、店頭から姿を消したり、といった憂き目を見るようです。

それはもちろん、「私が好きになったから」ではなくて、「私の好きなものが崩れる間際で堰き止められているものだから」でしょう。言い換えれば、新しくも、「レトロ」と名され古さに価値がつけられてもいないもの、また言い換えれば、観光名所でも廃墟でもなく、不断に使用されているもの、あるいは使わなくなってから少ししか時が経っていないもの。そんなものに執着するのです。

「注目を浴びていないから」、「変わったものを好きになることで自分も変わった人間と思われるから」…好きになる理由はなんでもいいのですが、一度そうした関係を結んでしまうと、こちらから一方的な好意を寄せるだけで、あるとき予告もなくふいにいなくなってしまう。次に会えるのは、再び価値の水面に浮かび上がってくるときで、その時には好きになった理由に背反し、まるで別の存在のようになってしまう…。

やはりこういった事物を偏愛する際には、表題のように「失うことを恐れて愛しすぎない」といった態度がもっとも無難なのかもしれません。まぁ、その無難さを受け入れられるのなら好きになっていないのですが。
あ、これ古本屋の話です。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois! 
リヨンの古本屋さんの店先にて

2012年3月3日土曜日

あえて境界線を引きたがる

おはようございます。

今回も前回と関連する話題を。

と思って自分の書いた文章を読み直してみたのですが…、全くなにが言いたいかわかりません。ひどいもんですね。

そんなわけで、まずは前回の話を簡単にまとめることにしますと、「弱さ」を強調することが笑いに繋がり、それが社会での関係を円滑にする、といったところでしょう。

で、ここから今日の話。
「弱さ」を誇示することの意味は、本当にそれだけか?
というのも、明らかにそうでない事例も数多く見受けられるからです。

人間の真理として、不確定なものよりは、たとえそれで自分が損することになっても、決まっていてほしい、というのはあると思います。
けれどもそれだけでなく、「弱さ」の両側から、境界線を確定させようとする動きがあるように思うのです。

ここまで書いて、話があまりに抽象的なキライがあるので、ここからはあえて「弱さ」=「病」と限定します。自分にとってもそれが一番語りやすいですし。

例えば、「認知症」と診断されることでほっとする、それも本人も家族も、そして医療従事者も、ということです。
まるで病名を確定することで、その病気がその人の否定的側面すべてを担ってくれるかのように。
もちろんそう診断されたからといって、その否定的側面がなくなるわけでなく、多く家族のほっとした気持ちは、ぬかよろこびに過ぎず、それからも同じようにその面と付き合っていかないといけないわけですが。

外部の人間がその人を病気の中に閉じ込め、その人自身が病気の中に閉じこもる。ここには先に挙げた「確定」の利点の他に、病気それ自体に異端者の役割を押しつけられる、という点があるのではないでしょうか。

要はすべて病気のせいだ、という発想ですね。こう考えることで、本人も性格の否定な面を直視せずに済み、周りの人間も直接的に本人を責めずに済む。間接的であるだけその分辛辣にもなりうるのがこの発想の秀逸なところでしょうか。

今回はこのあたりで。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ここから私道。入るべからず

2012年3月2日金曜日

弱さを誇示する

おはようございます。

さて、落ち武者から小さいオッサン、トリックスターを経て、こんな大仰なタイトルまでたどり着いたわけですが、ここまでの道筋をプレイバックと銘打って再創造してみると、

共有化されたイメージが笑いを引き起こす
時代とともに共有されたイメージは変化する

ここまでが前々回の話で、
普遍化した「笑い」
人々が笑わせる立場になる
道化役者=トリックスターの消失
中心・周縁という対立構造の崩壊

というとこまでが前回の話です。
「全然そんな話してない!」と思われる方は、前回、前々回に戻り、私の書いていない大部分を想像力で補っていただきたいです。

さて、ここから表題について書いていくのですが、ここでいう「弱さ」とは、そのまま弱点と言い換えてもいいですし、持病であったり、失敗でもいいでしょう。

ここで問題になるのが、この「弱さ」が決定的なもの、深刻な失敗や重病には当てはまらない、ということです。

神話上のトリックスターの生存条件として必須だった決定的な差異はタブーとされます。その差異は「笑い」にはならず、深刻な、「笑ってはいけない」ものとして、見ないふりをされ、排除されるべきものなのです。

反対に軽い、小さな「弱さ」が現代の、この名称で呼ぶことが不適切なトリックスターにとっては必要不可欠なのです。なぜならその微小さこそが、差異として認められる適切な大きさなのですから。

それが、病気の誇示であったり、失敗を他人に先んじて自分で笑うことであったり、不幸自慢であったりするのでしょう。これが許されるのはあくまで前提として、社会の均質化と差異の微小さがあるときに限ります。

現代の笑いは、社会の構造を変えるのではなく、自分と社会のあいだにある小さな歪みや軋轢を少なくする、潤滑剤としての役割のほうにシフトしているのでしょう。

「哄笑」から「微笑」へ、これが笑いの生存戦略なのかもしれません。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!