京都から引っ越して8ヶ月、大抵のことには満足しているんですが、唯一物足りないのは、「良い古本屋」の存在。これがあんまり見つからないんですよねぇ。けっこういろいろと探索しているつもりなんですが。
この時期はやはり引っ越しの季節ということもあって、いろんな本が新たに古本市場に出回ります。普段ほとんど商品の変わらぬ店が、その品揃えを一変させていることもあり、この時期の古本屋巡りはいつもと違った店に行くこともよくあります。
私の好きな古本屋、金沢いたころによく通ったのは、片町から犀川大橋を渡ってちょっ
とにかくセンスが抜群で、ポール・ヴァレリーの『Cahier / カイエ』が原書
京都では、美大の前にあった古本屋さん。ずっと左京区に暮らした
それで、なにげに海外文学の絶版を普通の値段で売っていたり。
閉店の前日にたまたま店に寄って、ジッドとデュ・ガールの往復書
どちらの古本屋も今はもうありません。
残念なことに、私の好きな店や偏向するものは大抵閉店したり、店頭から姿を消したり、といった憂き目を見るようです。
それはもちろん、「私が好きになったから」ではなくて、「私の好きなものが崩れる間際で堰き止められているものだから」でしょう。言い換えれば、新しくも、「レトロ」と名され古さに価値がつけられてもいないもの、また言い換えれば、観光名所でも廃墟でもなく、不断に使用されているもの、あるいは使わなくなってから少ししか時が経っていないもの。そんなものに執着するのです。
「注目を浴びていないから」、「変わったものを好きになることで自分も変わった人間と思われるから」…好きになる理由はなんでもいいのですが、一度そうした関係を結んでしまうと、こちらから一方的な好意を寄せるだけで、あるとき予告もなくふいにいなくなってしまう。次に会えるのは、再び価値の水面に浮かび上がってくるときで、その時には好きになった理由に背反し、まるで別の存在のようになってしまう…。
やはりこういった事物を偏愛する際には、表題のように「失うことを恐れて愛しすぎない」といった態度がもっとも無難なのかもしれません。まぁ、その無難さを受け入れられるのなら好きになっていないのですが。
あ、これ古本屋の話です。
では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
リヨンの古本屋さんの店先にて |
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