2012年3月3日土曜日

あえて境界線を引きたがる

おはようございます。

今回も前回と関連する話題を。

と思って自分の書いた文章を読み直してみたのですが…、全くなにが言いたいかわかりません。ひどいもんですね。

そんなわけで、まずは前回の話を簡単にまとめることにしますと、「弱さ」を強調することが笑いに繋がり、それが社会での関係を円滑にする、といったところでしょう。

で、ここから今日の話。
「弱さ」を誇示することの意味は、本当にそれだけか?
というのも、明らかにそうでない事例も数多く見受けられるからです。

人間の真理として、不確定なものよりは、たとえそれで自分が損することになっても、決まっていてほしい、というのはあると思います。
けれどもそれだけでなく、「弱さ」の両側から、境界線を確定させようとする動きがあるように思うのです。

ここまで書いて、話があまりに抽象的なキライがあるので、ここからはあえて「弱さ」=「病」と限定します。自分にとってもそれが一番語りやすいですし。

例えば、「認知症」と診断されることでほっとする、それも本人も家族も、そして医療従事者も、ということです。
まるで病名を確定することで、その病気がその人の否定的側面すべてを担ってくれるかのように。
もちろんそう診断されたからといって、その否定的側面がなくなるわけでなく、多く家族のほっとした気持ちは、ぬかよろこびに過ぎず、それからも同じようにその面と付き合っていかないといけないわけですが。

外部の人間がその人を病気の中に閉じ込め、その人自身が病気の中に閉じこもる。ここには先に挙げた「確定」の利点の他に、病気それ自体に異端者の役割を押しつけられる、という点があるのではないでしょうか。

要はすべて病気のせいだ、という発想ですね。こう考えることで、本人も性格の否定な面を直視せずに済み、周りの人間も直接的に本人を責めずに済む。間接的であるだけその分辛辣にもなりうるのがこの発想の秀逸なところでしょうか。

今回はこのあたりで。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ここから私道。入るべからず

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