2013年7月28日日曜日

小粋なクリスマスプレゼント

親愛なる友へ / cher ami

僕としたことがついかっとなってあんなことを言ってしまった。君のことを非難するつもりはなかった。僕のこの言葉を君なら信じてくれるものと思う。なるほど、二人の考え方は大きく違う。それは僕だって認める。でも今僕らが、ともに、直面している問題と、それを解決することで開ける新しい世界のヴィジョンは共通しているのだ。どうして仲たがいする必要があろう、僕らは血を分けた兄弟みたいなものだ。こんなことで二人の友情が終わりになることはないと信じている。

ともかく今日は、われらが主の誕生を祝おう。ささやかだがこれは僕から君へのプレゼントだ。君がこれを、和解のために伸ばされた手だと、悪意を持って捉えることはないと信じている。だって僕らは、結局のところ、仲たがいをしたのではないのだから。そうだろう?

なにはともあれ メリークリスマス!/ Joyeux Noel !

――いつまでも君に忠実な友より

昨夜の激しい言い争いから数時間とせず届けられたクリスマスプレゼント。粗末な木製の箱の上に、小石を重しに置かれた手紙は、むき出しのままミストラルに震えていた。

アルルの街並み
読み終えた手紙を手に、男はふっと息を吐いた。昨日、彼の態度は許しがたいものだった。侮辱された、と男は思った。加えて今日のこの手紙。彼に羞恥心や反省を求めるのは難しい、頭ではわかってはいても、納得はできない。クリスマスにおよそふさわしくない、粗野な造りの木箱のふたに、彼のふざけた笑い顔が、刻印されたかのように浮かんで見えた。

昨夜の彼の態度は我慢ならない。俺がもう少し若ければその場で決闘を申し込んでいたかもしれない。だが俺も、少しばかり熱くなりすぎた。世間知らずの白痴に向かって、言うべきでないことを言ったのも確かだ。話の舵取りを任せられていたのは年長者たるこの俺ではなかったか・・・。

男の顔に微笑が浮かんだ。株式仲買人だった男の過去が表情筋の上を無意識の電気信号となって走り抜けた。

木箱をゆすると、軽く乾いたものの擦れる音がした。開けてみると、彼が普段使っているデッサン用紙が、丸められて緩衝材代わりに詰め込まれていた。他人への贈り物をくずかご代わりに使ったらしい、皺のよったデッサン用紙の上で、いくつもの線が予期せぬ箇所で交じり合い、新たな面を作っていた。その上から滴った赤が、また別の次元を、奥行きを、襞のあいだに隠れた神秘を暗示していた。視線は自然に、用紙の真ん中に収められた、贈り物に引き寄せられた。

それは切りとられたばかりの男の右耳だった。

奇天烈なエピソードに彩られたフィンセント・ファン・ゴッホの人生も、1890年7月27日から29日にかけて終わりを迎える。終生売れない画家であったゴッホは人生に嫌気がさし、自らの胸に銃弾を打ち込む。享年37歳。弟のテオだけが、生前彼の唯一の理解者であり、支援者であり、兄弟であり、そして終生変わることのない友だった。兄の死の半年後、あとを追うようにして命の火が消えてしまう。享年34歳。ゴッホの絵画が売れ始めるのは以降、兄弟のあずかり知らぬところでだった。

Au revoir et a bientot !

2013年7月26日金曜日

ボッティチェリと「萌え」の歴史

これだけ上手いと嫉妬しちゃうぜ。

中野京子氏の『怖い絵』シリーズが文庫になっていたので、「泣く女」編と「死と乙女」編を続けざまに読んだ。タイトルからして、美術をよく知らないライト層に向けた入門書、というか、物事を大げさに言い立てて、耳目を集める悪いベストセラーの見本のように想像していたのだが、いい意味で裏切られた。

時代時代の流行りものや習俗に言及することで、絵画の描かれた時代背景、時代の雰囲気を読む人に体験させる。西洋史と西洋絵画史を重ね合わせることに成功した、良作だ。作品の紹介順が時代・場所とまるで脈絡のないのだけが、少し残念だけれど。

文章が良い。決して自分語りに堕さない程度に解釈を加えながら、それぞれの作品の本質とテーマ、歴史背景、観賞のポイントを教えてくれる。決して押しつけがましくなく、ひとつひとつの絵画をめぐる物語を、ストーリーテリングしていく。

秀逸だったのは、『ヴィーナスの誕生』と題された二つの作品の紹介。ボッティチェリのあまりに有名な同作が、正確にはヴィーナスが海上で誕生した後、キプロス島の浅瀬へ打ち上げられた瞬間を描いていることを示したあと、ヘシオドスの『神統記』に依拠し、彼女の誕生を我が子を喰らうサトゥルヌスと繋げる。ヴィーナスと数多の愛人、それに誰よりも醜い肉体を持つ夫、鍛冶の神ヘパイトスのねじれた関係で愛と死、恋愛の幸福と罪業を示す。

カバネルの『ヴィーナスの誕生』は一転して近代との繋がりから紹介される。ここで描かれるのはギリシャ神話ではなく、西洋絵画史におけるヌード神話のほうだ。女性の裸を描くのに、神話や歴史上の事件を必要とした時代が、やがてマネの『草上の昼食』に代表されるように卑俗なものとなっていく。そこに、これまで王侯貴族の専有物だった裸体画の、大衆への公開とその影響を重ねる。

カバネルら同時代の画家が描いた裸体画の衝撃。それは、「我らが夢の裸体」の現出であった。男はそれを抱きしめたいと願い、女はこうなりたいと願う。また、男は自分の妻や愛人の肉体と較べて愕然とし、女も彼我の差にショックを受ける。

現代のグラビア誌やスクリーンに映されるヌードと我々の関係そのものだ、と作者はいう。デジタル処理が施されたしみや毛穴ひとつない艶やかな肌、細かく修正されたボディライン。もはやどこにもリアルはない。夢の裸体が存在感を増すにつれ、現実の(=三次元の)肉体はますます受け入れ難いものとなる――

これは絵画の本じゃない。15世紀のボッティチェリから21世紀の日本までを、わずか20p で横断する作者の筆力を存分に堪能する本だ。

Au revoir et à bientôt !
 
参考文献:『怖い絵 死と乙女篇』 / 中野京子著 角川文庫 


2013年7月23日火曜日

お前らはエコロジストを名乗ればいい

インターネットには様々な側面がある。世界中の情報をリアルタイムで知ることができるのもひとつ。2013年ツール・ド・フランスでなんの波乱もなく、クリス・フルームが優勝なんてつまらない記事も、レース終了直後に手に入る。いろんな人の意見を読むことができるのもひとつ。たとえ匿名の仮面をかぶっているとしても、ほとんどの意見が感情まかせに吐き出されたクソみたいなものだとしても。それでもきちんと時間をかけさえすれば良い意見も見つかるし、自分では思いもよらなかった新たな側面から、物事に光を当ててくれることさえある。声の大きさは大小あれど、画一性からはまだ逃れている。

で、気づくんだ。「マスコミってのも案外大したことないな」って。

ニュースを提供する媒体としての存在価値は未だ持ち続けているにせよ、オピニオンを発信する存在としては、もはや死に体だ。新聞やテレビで彼らの呟く言葉を聞くたび、むしろ発せられなかった言葉の大きさにたじろいでしまう。誰もがわかりきっている意見をしたり顔で語る表情の裏側に隠された、数々のタブー。もうタブーしかないじゃん、ってみんなが好き勝手言ってるネット上からふと戻って見るとそう思う。

で、なんの話がしたいかって?そら、自転車よ。

ここ1,2年の自転車をめぐるマスコミの言説は凄まじい。そのほとんどが自転車を批判する体のものである。いわく、自転車事故が急増している、マナーが悪い、放置自転車が多い、あげく景観を損なっている、歩行者にとっても車の側からしてもあぶない…などなど。

正直、マナーの悪い自転車が多いのは事実だ。私だって何度か無灯火で逆走してくるチャリンコに命を奪われそうになったし、歩道を我が物顔で走ってきてはベルを鳴らされたこともある。

でも考えてみてほしい。そんな状況を作ったのはどこのどいつだ?交通ルールを子供のころから叩きこまなかったのは?自転車の走る道がどこにもないのは?自転車道があってもその上に車が駐車してるのは?駐輪しようにも駐輪場がないのは?全部自転車乗りが悪いのか?なんでその事実を報道しないのか?頭悪いのか?バカなのか?権力の犬なのか?

結局その全部なんだろう。自転車よりも明らかに死亡事故の多く、車線をひとつ潰して停車して、景観をはるかに損なっている車について、なんにも言わないのは。

自動車産業の声は大きく、自転車のそれは小さい。世界中でシマノのコンポーネントが使われていようと、この事実は変わらない。これからも当分、自動車は日本の主要な輸出製品であり続け、ガソリン、もしくは電気を使うのにエコだと言い続け、定期的な買い替えを迫るだろう。その一方で自転車は、乗る人の汗と筋力だけで動く魔法の乗り物、否ケンタウロスの下半身は、地球環境にも人間の文明にも優しくない、野蛮な乗り物として、反社会性の権化として白眼視され続けるのだろう。

この状況がすぐに変わることはないだろう。なら草の根で活動してやろう。生育してアスファルトをも突き破る雑草を見習って、チャリンコ乗りがペダルを踏んで地球を回そう。

それに、彼らの言うことにも一理ある。マナーは各々で意識して改善すべきことだし、ママチャリは確かにダサい。街中で一台一万円もしない中国製のママチャリがずらっと並んだ様は確かに醜悪だ。まずはここからだ。

さあみんな、GIOS に乗ろうぜ。

Au revoir et à bientôt !
My GIOS 今年で6年目。総走行距離約20,000km
 

2013年7月18日木曜日

紳士協定とドーピング 【後編】


「汚い」選手と「きれいな」選手が混淆することを嫌う唯一の理由、それは「公平性に欠ける」ということだろう。ドーピングという「汚い」手を使って超人的な記録をたたき出す選手と、「清廉潔白な」選手が争うのは不平等だという風潮。一見説得力を持つように見えるが、実のところ全くそうではない。

なぜなら、スポーツほど不平等なものはないからだ。

考えてみてほしい。一人の選手が一流の選手になるために必要なものの数々を。生まれもっての才能であり、それを伸ばしてくれる指導者であり、よき理解者であり、設備を含めた環境であり、生まれた時代であり、惜しみない努力であり…その多くは一個人の力ではほとんどどうしようもないものであり、換言してしまえば運である。ツールが100周年を迎えるにもかかわらず、未だただ一人の日本人も区間優勝すら成し得ていない現実を見てほしい。オリンピック100m決勝で、黒人を破って金メダルを取ったアジア人はいない。

人間の問題ばかりではない。技術の発展とともに、道具の進歩も顕著になる。ひとつの道具の開発が、記録の歪さを作ることになる。ここ2年の日本プロ野球界の統一球問題もそれだろうし、そもそもプロ野球においては、球場の広さの変化が、野球そのものを変えたところもある。陸上競技において、シューズの革新が記録にもたらした影響は大きいだろうし、競泳ではあまりに記録の出る水着の使用が禁止になったこともあった。

この観点からドーピング問題を再考すると、改めてドーピングが悪とされる理由がわからなくなる。やや極言に過ぎるとはいえ、それは人類の技術の発展がもたらした恩恵ともいえるからだ。その恩恵にあずかれる人とそうでない人がいるから不平等だという論理は、優れたシューズをはける選手とはけない選手がいる不平等と同じであり、正当性を持たない。

健康面からの考察もしてみよう。ドーピング問題を語るにあたって、この側面からの非難は以外に少ない。これにはスポーツの根底にある「一生懸命さ」が、健康と無縁であるからだろう。それにスポーツ界で未だ幅を利かせている根性論もこれに反対する。「命を削ってでもトップになりたい」といった言葉の響きの良さを考えればわかるだろう。たとえそれによって命を落とすことになろうとも、一位になれるのならば惜しくない、と考える人間が出るのは、現在のスポーツをめぐる言論と風潮を考えれば当然のことだ。

もはやドーピングを非難することのできる明白な論拠は存在しない。今後、ドーピングを正当に非難し、禁止するためには、過度なトレーニングの禁止(+トレーニング量の統一)や、人種ごとにわけて競技を行うことが必要になるだろう。健康のためのスポーツと、公明正大な競技の行き着く果ては、およそ興行・娯楽性のない味気ないものとなるだろう。

結局、ドーピングをめぐる非難の根源にあるのは、観衆やファンの「格好悪い」と感じる気分の問題だ。ドーピングをして自分の贔屓の選手やチームが勝ったとしても嬉しくないという気持ちが、ドーピング禁止の風潮を生み出す。たとえそれが「ドーピング=悪」の予め刷り込まれた公式から生み出されたトートロジーであろうとも。「気分」こそ、反・ドーピング運動を正当化する唯一の論拠なのだ。

なにもその気分は観客だけのものではない。選手たちもその気分を共有していることは、時代をともにしていることからして当然のことだといえる。ならばドーピングをした選手はつまはじきにする選手間のルールが、ドーピングの撲滅に繋がるだろう。それは「落車が発生したときにアタックしてはいけない」という、ロードレースの紳士協定と同様、暗黙の了解としてのみ存在すべきだろう。そして裁くのは常に競技に身を投じている当事者で、外部の人間が関与すべきことではない。唯一彼らだけがその競技に己の人生を賭しているのだから。自らの命の重さは、自分で量るべきだ。

Au revoir et a bientot !

2013年7月17日水曜日

紳士協定とドーピング 【前編】

クリス・フレームが順調だ。

記念すべき第100回ツール・ド・フランスの主役は間違いなくこの男。「白いケニア人」は第16ステージ終了時点で総合2位のモレッマとは4分14秒差、3位コンタドールとは4分25秒差。個人TTにも強いことを考えれば、すでにマイヨ・ジョーヌにチェック・メイトといったところ。順調すぎてつまらないくらいだ。

こうも圧倒的だと周囲も当然のごとく騒がしくなる。もはやロードレース界では消えることのない「ドーピング疑惑」だ。強い選手が出てくるたび、この話題が蒸し返される。シロだクロだと騒ぎ立て、肝心のレースはおざなりになってしまう。一般レベルにはドーピングの話題しか入ってこず、あげく過去の名選手までがクロとされ、人気は落ち込む一方だ。

先日は陸上100mの元世界選手権王者タイソン・ゲイと元世界記録保持者のアサファ・パウエル両選手が、ドーピング検査で陽性反応が出た、と報道された。日本でもスポーツニュースとしてでなく、時事問題として取り上げられていた。

ここでひとつ問題提起をさせてほしい。ドーピングのなにが悪いの?と。

この問いに答えるのは案外難しい。巷では「ドーピング=悪」の公式だけは流布しているが、それを突き詰める姿勢は皆無だ。マスメディアは「悪いものは悪い」のトートロジーで済ませようとする、この姿勢こそが最悪だ。「問題だ、問題だ」と騒ぎ立てるばかりで、なにが問題なのかについては決して触れない。
ここはひとつ自分なりにドーピングについて考えめぐらせることが必要だろう。

ドーピングを叩く言質には主に2つの傾向が存在する。一つは健康面、もう一つは倫理面。前者は簡単で誰にでもわかりやすい。「ドーピングは体に悪い」から禁止すべきだ、という論旨であり、タバコは体に悪いからやめるべき、というのと同じ類いだ。

一方、倫理的な側面はより複雑だ。倫理的である以上、そこに善悪の概念が付きまとうのだが、「ドーピング=悪」の公式がアプリオリなものとして仮定されており、「なぜドーピングが悪いのか?」という問いにそのまま、この公式が返されてしまう。少し掘り下げて善悪の基準を探ってみると、それが実に曖昧で恣意的なものであることい気づかされる。加えてそれは時代によって変化するものでもある(例えばロードレース界では昔、変速機の使用は禁じられていた)。

もう少しだけ掘り下げてみよう。ドーピングにまつわる言葉を探っていくと、しばしば「汚い」「汚れた」といった形容詞に出会う。そうなると反論として「身の潔白を証明する」を必要がでてくる。つまりレース上に「きれいな」選手と「汚い」選手が混じっていて、それが問題だ、ということだ。

なんとなく、いろんな競技の黎明期に頻出した「黒人と一緒にするのは嫌だ」という人種差別的言質に向かいそうだが、今回はそれには触れないでおく。しかし、おそらく根はその近くにある。

【後編】に続く
Au revoir et a bientot !
記事に関係のない画像でもとりあえず貼っておけという風潮。


2013年7月12日金曜日

les Blues 15年前を懐かしむ

あれからもう15年が経つのか。

1998年7月12日、サッカーフランス代表(愛称 les Blues )は世界の頂点に立った。
スタッド・ド・フランスで前回大会優勝のブラジルと対戦したレ・ブルーは、この大会で英雄になったジネディーヌ・ジダンの前半2ゴールもあって、3-0 で勝利。自国開催のワールドカップで、見事初優勝を飾った。

日本代表はこれがはじめてのワールドカップ出場。アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカとのグループリーグで一勝もできずに敗退。それでも決して悲観的にならなかったのは、当時はワールドカップで勝つ以前に、出場権の獲得そのものが快挙だったからに他ならない。

ちなみに、当時の日本代表のFIFAランキングは22位。同年2月には歴代最高の9位を記録している。最新のランキングで37位であることを考えれば、異例の高さだ。もちろんこれには理由があって、当時のFIFAランキングは、対戦相手に関係なく勝てば3点、引き分け1点だった。要はとにかく試合数をこなせば(とりわけ弱小国と対戦して勝利し続ければ)順位が上がる、実際の実力を反映したとは到底言い難いものだった(それでも、当時一位はブラジルだったのだけれど)。

正直、当時はまったくサッカーに興味がなかった。

高校生だった私を熱狂させていたのは、38年ぶりの優勝に向けて驀進している横浜ベイスターズであり、マシンガン打線であり、その中核を担った鈴木 尚典とロバート・ローズの3,4番コンビだった。世界はまだ狭く、未踏の地に溢れており、フランスは名前しか知らない異国で、金星と同じような位置づけだった。私の世界文学彷徨はまだはじまったばかりで、カフカの『変身』に端を発した読書熱は、ドストエフスキーやトルストイによって何度もかき消されそうになりながらも、惰性のごとく続いていた。

サッカーフランス代表に話を戻そう。
自国開催のワールドカップで優勝した後、les Blues は黄金期を迎える。2000年のユーロでも勢いそのままに優勝すると、好調を維持し2002年の日韓合同ワールドカップでは、ブラジルを押しのけ、優勝の大本命に挙げられた。

しかし、その大会で一勝もできないどころか一点もとれないままにグループリーグ敗退を喫すると、歯車が狂いだす。緩やかな、しかし確実な衰退がはじまろうとしていた。2004年のユーロでは、準々決勝でギリシャの前に敗退。2006年W杯では、一度引退表明をしたジダンを呼び戻すなどして、準優勝の好成績を収めるが、その決勝の舞台では永遠に語り継がれるであろう、ジダンの頭突き事件が起きてしまった。2008年のユーロ、2010年のWカップと続けてグループリーグで敗退する。2004年以降、10年で7億ユーロ以上を投じ、現在黄金期を築いているドイツとは対照的だ。

とはいえ、結局は選手の力がものをいう。1998年当時、フランス代表のスタメンに名を連ねていたのは、所属クラブでも圧倒的な実力を持つ選手ばかりだった。バルデズ、ブラン、アンリ、トレゼゲ、テュラム、ジダン…。
今は違う。ベンゼマはレアル・マドリーで確固たる地位を築いたとは言えず、ナスリはマンチェスター・シティで時折試合に出るだけだ。グルキュフに至っては、ここ2年のあいだまともな働きを見せていない。唯一満足なパフォーマンスを見せているのは、リベリだけだ。これでは勝てるはずがない。

フランス代表がふたたび輝きを取り戻す日は来るのか?そして日本代表がワールドカップで優勝する日が来るのか?――そんなことには大して興味がない。今語るべきなのは、ナショナリズムとスポーツの異常なまでの癒着だろう。それも、堅いメディアが語るのではなく、スポーツメディアが正面切って取り上げる、そんな時代がくるだろうか?私にはそっちのほうが大切だ。

Au revoir et à bientôt !
Number とかが特集を組むとか。

2013年7月10日水曜日

居酒屋プロ野球

プロ野球は、祭りだ。

退屈な日常に一点の非日常を。そんな紋切り型の表現を持ち出してしまうほど、プロ野球はカーニバルしていた。

6/29 (土)14:00~ のオリックス×楽天9回戦。内容は正直凡戦だったが、「プロ野球とはなにか?」を知るには十分だった。だってこれが、人生初のプロ野球観戦だったから。

バファローベル、最高やん。

いや、そうじゃないだろう。現代社会におけるプロ野球の立ち位置をどこに求めるか?バフチンのカーニバル論を借りてきて語ろうか?――一言でいえばそれは、価値倒錯の場である。階級的差異の消失とそれに伴うカオス、充満する放埓さであり、日常の不満のはけ口としての祭りであり、革命のさ中断行された王の斬首である――なんて。

たしかに、いくらかはそんな要素もある。年収400万のサラリーマンが、年俸4億のプロ野球選手を野次るリアル。これが拝金主義の現代における、実にうまくパッケージ化された価値倒錯の仕組みでなくてなんだろう?

もちろん実際に価値を転覆させるつもりはない。野次る観客の誰ひとり、4億の責任を背負ってバッターボックスに立つ気概はない。反対の立場を引き受けるのはつまるところ、ギロチンの下に自らの首を差し出す覚悟を持つことだ。それが可能なのはフィクションの中でだけ、現実の革命はいつも、少しばかり重すぎる。

言ってしまえばここは居酒屋みたいなものだ。ちょっとした入場料と引き換えに得られるカタルシス。ビール片手に選手をディスるその姿は、「今度上司にガツンといってやりますよ」と管を巻くのと同じくらい空疎だ。今度っていつよ?――未来永劫来ない時空間に置き去りにされた一点のことさ。

だから苦い現実から目をそむけて、ありもしない幻想に身を任せるのだってアリだ。隣に座った女の子がチラチラこちらを見る視線を感じて、「この子もしかしてオレに気があるんじゃね?」なんてバカなことを考えられるのは、思春期の男子とほろ酔い加減のオッサンにだけ与えられた特権だ。彼女の見ているのはたぶん、異常に繁茂した君の耳毛か、全開になった股間のファスナーだ。

そうだ、性的な放埓さも、ここでは少しだけ許される。まったくそんなつもりのない女の子に向けられる、真摯なアプローチ合戦。打球の行方には見向きもせずに、ビールの売り子のケツを追っかけるオッサンたちの視線は、彼女が通り過ぎた後に交わり、火花散る。球場で消費されるビールの8割が、男たちの泡のような期待で溢れ出す。7回の表裏で放たれるジェット風船は、バファローベルを孕ませんと狙う幾百万の精子の直喩だ。

職業野球を横目に繰り広げられる男たちの不毛な争い。諸君、これがプロ野球だ…。


Au revoir et a bientot !
6/29 京セラドームにて
参照:オリックスバファローズ公式ホームページ

2013年7月7日日曜日

人生の守護天使たち

5年前ならたぶん、大いに讃嘆してたろう。でも今はもう30歳、与えられた人生の3分の1は優にすぎて、ものの見方も大きく変わった。

帯には「日本ウリポ史上最大のシリーズ刊行開始!」と銘打たれている。ウリポ / Oulipo とは、1960年11月24日に数学者のフランソワ・ル・リヨネーを発起人として設立された文学グループ。正式名称は「Ouvroir de littérature potentielle 」(潜在的文学工房)。アルフレッド・ジャリ、レーモン・クノー、レーモン・ルーセルらの文学を理想とし、言語遊戯的な技法の開発を通して新しい文学の可能性を追求した。(参照: Wikipedia ウリポ ) 他にもジョルジュ・ペレックやイタロ・カルヴィーノなど、20代の私を終始興奮させた作家たちが名を連ねる、まさに先駆的文学実験工房といえる。

その中でも師範格を占めたのが、レーモン・クノ― / Raymond Queneau。詩人であり小説家でもある彼の、代表作といえば『地下鉄のザジ』だが、他にも『文体練習』『百兆の詩編』など、遊び心溢れる作品を数多世に送り出している。それらの作品はここで内容を紹介するよりも、手にとって読むことをオススメする。どれも一読してすぐ、その面白さがわかるものだ。個人的には『はまむぎ』が好きだ。

『イカロスの飛行』はそんな彼の遺稿にあたる。小説家ユベールの書き始めたばかりの小説から、主人公イカロスが逃げ出した。困ったユベールはイカロスの捜索を探偵モルコルに依頼して…そこからはじまるドタバタ劇を、軽快なリズムの会話の積み重ねによって描いていく。200p の分量が瞬く間に飛び去っていく。ここでは文体自体が飛翔して( voler )いるのだ。

単語 voler の持つ「飛ぶ / 盗む」の二重性が執筆のきっかけになったのだろう。冒頭で逃げ出したイカロスを、ユベールは「盗まれた / volé 」ものとして同業者を非難する。あげくユベールは3人の同業者らと決闘するはめとなる。イカロスが「盗まれた」とする筋が一本、小説の中を通っている。

もちろん一方で、ギリシャ神話のイカロスの墜落のエピソードをなぞることも忘れない。その際イカロスの創造者ユベールは父ダイダロスに重ねられる。小説家 / 父によって生命 / 翼を与えられたイカロスは、外の世界に飛び出す。はじめはおどおどしながら、やがて大胆に。彼は恋をし、仕事を見つける。だが人生は順風満帆とはいかず、terrain 「決闘場 / グラウンド」で乗っていた凧が墜落し、命を落とす。

この話に教訓なんて存在しない(もちろん!)。そして物語はあまりにもそつがない。
(イカロスの原稿を閉じながら)すべては予測どおりに起こった。ぼくの小説はこれでおしまい。
最後にユベールがこう述べて、物語は円環を閉じる。完全すぎて、予測された結末。完璧であるがゆえの、物足りなさ。

歳をとってものの見方も変わる。しかつめらしい顔をして叡智を求めるダイダロスと、大それた望みではなくとも、絶えずなにかを求め続け、あげく命を落とすことになる、イカロスと。

どちらが正しいなんてない。いずれも自分の生を生きた。ならばわれらもそうしよう。そうすれば彼らは、思い通りにいかない人生の守護天使であり続けるだろう。

Au revoir et à bientôt !
ピーテル・ブリューゲル作 『イカロスの墜落』 ベルギー王立美術館蔵
 
『イカロスの飛行 レーモン・クノー・コレクション ⑬』 / 石川清子 訳 水声社刊

2013年7月4日木曜日

ポケットの中の世界

どんな地方にもヒーローはいる。

その地方の出身ではなくても、なにかしらの縁があれば、地元の誇りとして喜ぶ。どこもそう変わりないだろう。

スポーツでは野球の松井秀喜、サッカー日本代表本田圭介。文学・思想界には泉鏡花に室生犀星、徳田秋声は脇に置いといて、鈴木大拙に西田幾多郎。それでも足りなければ井上靖なども加えることのできる石川県金沢市では、郷土愛を存分に発揮する機会がいくらでもある。彼らは一時金沢に住み、今も年に一度訪れる私にとっても、偏愛の対象となりうる。

まあでも、これはないわ。

講談社学術文庫に収められた鈴木大拙の『一禅者の思索』。最初2編の講演書き起こしはいいが、残りは短い雑感のたぐいを一冊にまとめただけで、かなり物足りない。これでは大拙の思想の全貌は知れないし、初めて氏の思想に触れる人に対しての入門書としても物足りない。

その学術文庫の巻末にはこんな文章が載せられている。

これは、学術をポケットに入れることをモットーとして生まれた文庫である。…こうした考え方は、学術を巨大な城のように見る世間の常識に反するかもしれない。また、一部の人たちからは、学術の権威をおとすものと非難されるかもしれない。…しかし、学術の権威を、その形の上だけで判断してはならない。その生成のあとをかえりみれば、その根は常に人々の生活の中にあった。…学術文庫は、内外の迷信を打破し、学術のために新しい天地をひらく意図をもって生まれた。文庫という小さい形と、学術という壮大な城とが、完全に両立するためには、なおいくらかの時を必要とするであろう。しかし、学術をポケットにした社会が、人間の生活にとってより豊かな社会であることは、たしかである。
「講談社学術文庫」の刊行に当たって

学問を城にたとえるとき、私の頭にはカフカの『城』が浮かんだ。近くにあるのに手が届かない対象、というだけではない。人間の執着と怨嗟と、その他多様な感情の働きを詰め込んだ、巨大な一個の生き物のようなそれだ。やがてそれは、他所者であったKをも巻き込み、その内側に取り込んで、巨大な城の一部となる。

学問は巨大な城だ。それはそのまま人類の歴史だから。すべてを渉猟するのは不可能だ。君の歩みよりも早く、どこかで新たな城壁が築かれる。誰もがその築城に参する一員だ。俯瞰してみればこのブログを書いている私も、どこかの一隅で砂の城を作る子供の一人には数えられるだろう。

本は地図であり、同時に入口だ。読み込むことで世界の住人となる。レメディオス・バロの世界の住人が刺繍するマントには窓があり、外の世界に向けて開かれている。
地図はポケットになければ意味がない。ポケットは世界へと繋がっているのだ。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年7月2日火曜日

ホット・チョコでドーピング!? UCI に相談だ !!

煙突掃除夫がツール総合優勝者になるなんて、今後二度とないだろう。

どんな分野でも黎明期はべらぼうに面白い。そもそもどんなふうに楽しむか、ルールすらまともに決まっていない中で、みんなが思い思いのことをする。やがて様々なものが整備され、淘汰されて、不都合は排除され、プロとアマチュアは分離し、再び混じり合うことはない。

6月29日。記念すべき100回目のツール・ド・フランスがコルシカ島をスタート地点に開催された。21世紀の現在まで、幾度の中断を経ながら脈々と続いてきた物語にも、始まりはある。これはそんなツール創成期の物語だ。

1903年7月1日。パリ郊外の町、モンジュロン / Montgeron にあるカフェ Au Reveil Matin の前のスタート地点に、60人の選手が並んでいた。6ステージで総走行距離2428km を数える、実に過酷な挑戦が始まろうとしていた。

パリ(近郊) - リヨン間を結ぶ467km(!) の第一ステージを制したのは、当時32歳の煙突掃除夫、モーリス・ガラン/ Maurice Garin だった。2位に55分もの大差をつけ、17時間45分をかけて走り抜けた彼はそのまま、7月19日には記念すべき第一回のツール総合優勝者となった。栄光のマイヨ・ジョーヌを着ることはできなかったけれど(採用は1919年から)、賞金6,075F (現在の価値で約54,000€ = 約¥7,020,000) を獲得し、歴史に名を刻んだ。

平地がメインだったとはいえ、変速機もブレーキもない重さ14kg の自転車で、2500km 近くの距離を平均時速 25.6km/h で走り切ったところをみるに、ただの煙突掃除夫でなかったのは間違いない。それは、他の選手たちが気付け薬に赤ワインや安ブランデーを飲んでいたのを横目に、好物だからという理由だけで、ホット・チョコを飲んでいたというエピソードからも推し量れる。

過酷さでいえば、今よりもはるかにすごかったろう。1ステージの平均走行距離は400kmを超し、ときに道端で寝ることを余儀なくされた。日当を出してまでかき集めた79名の参加予定者のうち、当日スタート地点に現れたのは60人にすぎず、ゴールラインを越えたものはわずか21人だった。ツール史上最初のランタン・ルージュ(最下位の選手)、Milocheau がゴールしたのは、ガランに遅れること65時間、およそ3日後の出来事だった。

牧歌的な時代は終わった。今やレース中にホット・チョコなど飲もうものなら、ドーピング検査に引っ掛かってしまう。名声は一瞬にして地に落ち、流したすべての汗は否定される。

いや、そもそもが後世から振り返ってみた懐古的な幻想にすぎないのだろう。どれだけ機材が貧しかろうと、そんなことに構わず出場した選手たちはベストを尽くした。そこに名誉の付随するのが周知されたとき、悪もまた蔓延る。

モーリス・ガランは第2回のツールにも参加した。Saint-Étienne を抜けてすぐのところで、その地域の選手のサポーターに待ち伏せをされており、他の選手とともに石つぶてを浴びせられた。あるものは地面に押し倒され、叩きのめされた。暴漢たちを追い払うには、主催者の発砲が必要だった。

事件を受けてガランは言った、「オレは1位をとるよ。もしパリに着く前に殺されなかったらな」。宣言通り彼は2年連続2回目の総合優勝を果たす。

事件はそれで終わらなかった。同年12月、「禁止されたタイミングで食料を補給した」として告発され、順位格下げの憂き目にあう。別の者は彼が、途中列車を使ったと主張した。以降二度とガランはツールに出場しなかった。

1957年に没するまで、ガランがどのように生活していたのかは明らかでない。以前のように、煙突掃除の仕事に戻ったとも考えられる。煙突掃除は彼を裏切らないことを、経験上知っていたのかもしれない。

Au revoir et a bientot !
モーリス・ガラン
参照URL

2013年7月1日月曜日

ジェーン・マンスフィールドの www

ニュースは瞬く間に世界中に広がり、こうして1950-1960年代に思春期を迎えた男たちはみな、自分の青春が終わりを告げたのを知ったのだった。

wwwは世界を繋ぐ。
21世紀の男たちは、それを駆使して世界中のアダルトサイトを駆けめぐっているし、「世界最高のおっぱい」ことジェーン・マンスフィールドの自伝タイトルは "Wild, Wild World" だった。
訂正しよう。いつの時代もおっぱいは世界を繋ぐ。

ジェーン・マンスフィールド / Jayne Mansfield は1933年4月19日、アメリカのペンシルベニア州ブリンモアで生まれた。実際には五ヶ国語を操る才女だったにもかかわらず、終生を通して1950年代を代表するセックスシンボルとして、人々の中に記憶された。ライバルはもちろん、マリリン・モンローだった。

女優としては、1957年に『気まぐれバス』でゴールデングローブ賞有望若手女優賞を受賞、決して凡庸でないことを示したが、『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』、『女はそれを我慢できない』などに出演した1959年以降、良い役に恵まれず、映画女優としてのキャリアは実質終わりを告げる。

彼女名声を助けたのは世間に蔓延るステレオタイプだった。やがてそれは実像を覆い尽くし、いつしか人格までも食い尽してしまう。

「美人だけど頭の弱いブロンドの女」という、格言にまで高められたイメージは、歴史上繰り返し用いられ、古び廃れるどころかむしろ反対に、「そうでないもの」との境界を浸食し、彼方に追いやる。

そして彼女には、そのイメージを強化する身体的特徴も備えていた。

注意深く演出された公開の「ハプニング」スーザン・ソンタグ?もちろん!)によって、幾度も露出させられた彼女のおっぱいは、40D,46DD,40D-21-36 といった神秘的な数値によって神格化された。

やがておっぱいは…彼女の公的人格の大部分を占めるに至り、トーク番組の司会者ジャック・パール (Jack Paar) は、かつて彼女を『ザ・トゥナイト・ショー』に迎え入れる際、「Here they are, Jayne Mansfield.(さあどうぞ、ジェーン・マンスフィールドたちです)」と紹介した。
(Wikipedia ジェーン・マンスフィールドより引用)

当時既に彼女は、20世紀に数多存在した一流半の女優の一人としてでなく、「世界最高のおっぱい」として、あるいはそれに付属する一部分として、あるいはまたそれに仕える巫女として人々に記憶されるさだめだった。

だがタナトスは彼女に別の運命を用意していた。

1967年6月29日午前2時25分頃、ルート90上で1台のトラックが蚊の殺虫剤を噴霧したため、減速した大型トレーラーの後部にマンスフィールドの乗っていた車は衝突した。激突の後に、トレーラー後部と道路の間にめり込んだ。前部座席に乗っていた大人たちは即死した。

この事件の後、全米高速道路交通安全委員会 (NHTSA) は全ての大型トレーラーの下部にガードを取り付けるよう要求した。このバーは今、マンスフィールド・バーとして知られている。

Au revoir et à bientôt !
photo by carbonated