2013年7月18日木曜日

紳士協定とドーピング 【後編】


「汚い」選手と「きれいな」選手が混淆することを嫌う唯一の理由、それは「公平性に欠ける」ということだろう。ドーピングという「汚い」手を使って超人的な記録をたたき出す選手と、「清廉潔白な」選手が争うのは不平等だという風潮。一見説得力を持つように見えるが、実のところ全くそうではない。

なぜなら、スポーツほど不平等なものはないからだ。

考えてみてほしい。一人の選手が一流の選手になるために必要なものの数々を。生まれもっての才能であり、それを伸ばしてくれる指導者であり、よき理解者であり、設備を含めた環境であり、生まれた時代であり、惜しみない努力であり…その多くは一個人の力ではほとんどどうしようもないものであり、換言してしまえば運である。ツールが100周年を迎えるにもかかわらず、未だただ一人の日本人も区間優勝すら成し得ていない現実を見てほしい。オリンピック100m決勝で、黒人を破って金メダルを取ったアジア人はいない。

人間の問題ばかりではない。技術の発展とともに、道具の進歩も顕著になる。ひとつの道具の開発が、記録の歪さを作ることになる。ここ2年の日本プロ野球界の統一球問題もそれだろうし、そもそもプロ野球においては、球場の広さの変化が、野球そのものを変えたところもある。陸上競技において、シューズの革新が記録にもたらした影響は大きいだろうし、競泳ではあまりに記録の出る水着の使用が禁止になったこともあった。

この観点からドーピング問題を再考すると、改めてドーピングが悪とされる理由がわからなくなる。やや極言に過ぎるとはいえ、それは人類の技術の発展がもたらした恩恵ともいえるからだ。その恩恵にあずかれる人とそうでない人がいるから不平等だという論理は、優れたシューズをはける選手とはけない選手がいる不平等と同じであり、正当性を持たない。

健康面からの考察もしてみよう。ドーピング問題を語るにあたって、この側面からの非難は以外に少ない。これにはスポーツの根底にある「一生懸命さ」が、健康と無縁であるからだろう。それにスポーツ界で未だ幅を利かせている根性論もこれに反対する。「命を削ってでもトップになりたい」といった言葉の響きの良さを考えればわかるだろう。たとえそれによって命を落とすことになろうとも、一位になれるのならば惜しくない、と考える人間が出るのは、現在のスポーツをめぐる言論と風潮を考えれば当然のことだ。

もはやドーピングを非難することのできる明白な論拠は存在しない。今後、ドーピングを正当に非難し、禁止するためには、過度なトレーニングの禁止(+トレーニング量の統一)や、人種ごとにわけて競技を行うことが必要になるだろう。健康のためのスポーツと、公明正大な競技の行き着く果ては、およそ興行・娯楽性のない味気ないものとなるだろう。

結局、ドーピングをめぐる非難の根源にあるのは、観衆やファンの「格好悪い」と感じる気分の問題だ。ドーピングをして自分の贔屓の選手やチームが勝ったとしても嬉しくないという気持ちが、ドーピング禁止の風潮を生み出す。たとえそれが「ドーピング=悪」の予め刷り込まれた公式から生み出されたトートロジーであろうとも。「気分」こそ、反・ドーピング運動を正当化する唯一の論拠なのだ。

なにもその気分は観客だけのものではない。選手たちもその気分を共有していることは、時代をともにしていることからして当然のことだといえる。ならばドーピングをした選手はつまはじきにする選手間のルールが、ドーピングの撲滅に繋がるだろう。それは「落車が発生したときにアタックしてはいけない」という、ロードレースの紳士協定と同様、暗黙の了解としてのみ存在すべきだろう。そして裁くのは常に競技に身を投じている当事者で、外部の人間が関与すべきことではない。唯一彼らだけがその競技に己の人生を賭しているのだから。自らの命の重さは、自分で量るべきだ。

Au revoir et a bientot !

0 件のコメント:

コメントを投稿