2013年7月2日火曜日

ホット・チョコでドーピング!? UCI に相談だ !!

煙突掃除夫がツール総合優勝者になるなんて、今後二度とないだろう。

どんな分野でも黎明期はべらぼうに面白い。そもそもどんなふうに楽しむか、ルールすらまともに決まっていない中で、みんなが思い思いのことをする。やがて様々なものが整備され、淘汰されて、不都合は排除され、プロとアマチュアは分離し、再び混じり合うことはない。

6月29日。記念すべき100回目のツール・ド・フランスがコルシカ島をスタート地点に開催された。21世紀の現在まで、幾度の中断を経ながら脈々と続いてきた物語にも、始まりはある。これはそんなツール創成期の物語だ。

1903年7月1日。パリ郊外の町、モンジュロン / Montgeron にあるカフェ Au Reveil Matin の前のスタート地点に、60人の選手が並んでいた。6ステージで総走行距離2428km を数える、実に過酷な挑戦が始まろうとしていた。

パリ(近郊) - リヨン間を結ぶ467km(!) の第一ステージを制したのは、当時32歳の煙突掃除夫、モーリス・ガラン/ Maurice Garin だった。2位に55分もの大差をつけ、17時間45分をかけて走り抜けた彼はそのまま、7月19日には記念すべき第一回のツール総合優勝者となった。栄光のマイヨ・ジョーヌを着ることはできなかったけれど(採用は1919年から)、賞金6,075F (現在の価値で約54,000€ = 約¥7,020,000) を獲得し、歴史に名を刻んだ。

平地がメインだったとはいえ、変速機もブレーキもない重さ14kg の自転車で、2500km 近くの距離を平均時速 25.6km/h で走り切ったところをみるに、ただの煙突掃除夫でなかったのは間違いない。それは、他の選手たちが気付け薬に赤ワインや安ブランデーを飲んでいたのを横目に、好物だからという理由だけで、ホット・チョコを飲んでいたというエピソードからも推し量れる。

過酷さでいえば、今よりもはるかにすごかったろう。1ステージの平均走行距離は400kmを超し、ときに道端で寝ることを余儀なくされた。日当を出してまでかき集めた79名の参加予定者のうち、当日スタート地点に現れたのは60人にすぎず、ゴールラインを越えたものはわずか21人だった。ツール史上最初のランタン・ルージュ(最下位の選手)、Milocheau がゴールしたのは、ガランに遅れること65時間、およそ3日後の出来事だった。

牧歌的な時代は終わった。今やレース中にホット・チョコなど飲もうものなら、ドーピング検査に引っ掛かってしまう。名声は一瞬にして地に落ち、流したすべての汗は否定される。

いや、そもそもが後世から振り返ってみた懐古的な幻想にすぎないのだろう。どれだけ機材が貧しかろうと、そんなことに構わず出場した選手たちはベストを尽くした。そこに名誉の付随するのが周知されたとき、悪もまた蔓延る。

モーリス・ガランは第2回のツールにも参加した。Saint-Étienne を抜けてすぐのところで、その地域の選手のサポーターに待ち伏せをされており、他の選手とともに石つぶてを浴びせられた。あるものは地面に押し倒され、叩きのめされた。暴漢たちを追い払うには、主催者の発砲が必要だった。

事件を受けてガランは言った、「オレは1位をとるよ。もしパリに着く前に殺されなかったらな」。宣言通り彼は2年連続2回目の総合優勝を果たす。

事件はそれで終わらなかった。同年12月、「禁止されたタイミングで食料を補給した」として告発され、順位格下げの憂き目にあう。別の者は彼が、途中列車を使ったと主張した。以降二度とガランはツールに出場しなかった。

1957年に没するまで、ガランがどのように生活していたのかは明らかでない。以前のように、煙突掃除の仕事に戻ったとも考えられる。煙突掃除は彼を裏切らないことを、経験上知っていたのかもしれない。

Au revoir et a bientot !
モーリス・ガラン
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