2014年3月31日月曜日

記憶が僕を… / L'oubli me pousse et me contourne

記憶が僕を… / L'oubli me pousse et me contourne

記憶が僕を押しやり、忘れ去る
その滑らかな両脚で。
忘却もまた沈黙のほうに押しやられ
互い違いに取り囲む
お互いの考えは知り尽くしていて
今この瞬間を犠牲にし
互いの輪郭を取り違え
競い合ってやり直すのは
今この時を解きほぐす試み、
完璧な明晰さに近づけようと。
それらの試みすべてが心を重くし、
歩みを止めさせる。
ほら、ほら、また!また冷たくして!
それが彼らのやり口。
あぁ、遥か彼方に輝く星の
その脚に触れられぬものか。

前半から中盤にかけてがこの詩の主題を成す。もちろんテーマは忘却であり、ときにそれに伴い、ときに相反する沈黙である。忘れたから黙っているのか、あるいは覚えているから喋らないのか。この二つのあいだの差異を、表現しようとしている。

といっても、翻訳が上手くない。全体の意味がきちんと取れておらず、詩にまとまりが感じられない。これは勿論、私の反省点。

「語られないもの」のテーマは、次回 『不死身のバートフス』 でも取り上げる。今回はここまで。

Au revoir et a bientot !

2014年3月30日日曜日

『少年はもっと眠りたい / Le garçon qui voulait dormir』

前回に少しだけ紹介した、アハロン・アッペルフェルドの 『Le garçon qui voulait dormir / 少年はもっと眠りたい』 について、もう少し深く掘り下げてみよう。

文章は平易でわかりやすい。私のフランス語のレベルでも、ほとんど辞書を引かないで読めるのだから、そうとうなものだ。原文のヘブライ語ではどうか知らないが(もっとも筆者は別のところで、「ヘブライ語は非常に簡素な言語です」と語っている)、少なくともフランス語訳されたアッペルフェルドは、難解さと無縁のところにいう。

この小説の設定は奇妙だ。主人公の少年は、戦禍からイタリアに逃げてきた一人だ。同じく避難してきた人たちからは、「眠り児」と呼ばれている。避難の最中にあって、少年はずっと眠り続け、なにがあっても決して目を覚まさなかった。

彼らの中からは「置いていこう」という声もあがった。むしろ、それが大多数の意見だったといえる。少数の者が頑固に反対した。ただ人道的な見地からだけではない。少年は彼らには見えていないものが見えていて、いつか目覚めたときには、それを語ってくれるはずだ、と少数の人々はいう。少年は、彼らを導く預言者なのだ、と。

にもかかわらず、だ。物語は少年が目覚めるところから始まる。その後ストーリーが進むにつれ、幾ばくかの揺り戻しはあるものの、ほとんどの場合少年は目覚めている。目覚めて、肉体の鍛錬やヘブライ語の学習にいそしむ。

少年は目覚めている。周囲は彼のことを「眠り児」として記憶している。そして少年が語り始めるのを期待する。なにを?彼が夢の中で神から得たはずの託宣を告げるのを。

実際に少年が見た夢は、多くの人間が見る夢と同様に、個人的だ。夢を見た本人にしか、その価値は測れない。

夢の中で幾度も、少年は父や母に出会う。戦争で別れ、行方の知れない両親のこと。夢は記憶と混ざり合い、ときに補填し、補強し、またときに混同する。

少年は「眠り児」だった頃を知る人々を避ける。当然だ。彼は彼らが求める預言者では、ない。そうである以上、彼の存在は人々を失望される。それが、怖い。希望を、一人背負うには、少年の肩はまだか細い。

いつか少年は大人になって、自分自身と向き合うだろう。自分の過去、人々の求める役割とのギャップ、失われた母語への追憶などに苦しみながら。書くことが彼の道を切り開く。それは、夢の中から見つけてきた道具だ。彼らの民族の多くはそうして、自らの存在を見つめなおしてきた。シュルツ、カフカ、少年の父、そして少年自身…。

Au revoir et à bientôt !

2014年3月25日火曜日

ユダヤの作家たち

前々回にも少し書いたが、ユダヤ系作家の小説を集中して読んでいる。「ユダヤ系」という括り自体にほとんど意味がなく、差別的なきらいがあるが、実際そのことで民族的に迫害を受け、あげく大量虐殺にまで至った歴史があるのだから、その区分で本を読むことに、必ずしも意味がない、とはいえないだろう。殊にそれが、反省の意味を込めてなされるのであれば。

そもそも「ユダヤ人」とはなにか?の定義をしてみよう。といっても勿論、Wikipedia からの引用だ。それによるとユダヤ人とは、


「ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々」という定義は古代・中世にはあてはまるが、近世以降ではキリスト教に改宗したユダヤ人(例えばフェリックス・メンデルスゾーンやグスタフ・マーラー、ベンジャミン・ディズレーリ)も無神論者のユダヤ人(例えばジークムント・フロイト)も「ユダヤ人」と呼ばれることが多い。なお、イスラエル国内においてユダヤ教を信仰していない者は、Israeli(イスラエル人)である。
帰還法では「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」をユダヤ人として定義している。また、ユダヤ人社会内やイスラエル国内においては、「ユダヤ人の母を持つ者」をユダヤ人と呼ぶのに対し、ヨーロッパなどでは、母がユダヤ人でなくともユダヤ人の血統を持った者(たとえば母がヨーロッパ人、父がユダヤ人など)もユダヤ人として扱うことが多い。


ということになる。このブログでもこの定義をそのまま使用させてもらう。

もちろん、そのように規定しておいて私が語りたいのは作家たちのことだ。アイザック・バシェビシュ・シンガーのように、自分の出自にとことんこだわって書く作家がいる一方で、カフカのように普遍性を追い求める作家もいる。もっとも彼の作品に出てくる雰囲気を見ていると、同時代の他のユダヤ系作家のそれと、驚くほどよく似ているのだけれど。ヨーゼフ・ロート(1894-1939)ブルーノ・シュルツ(1892-1942)を参照せよ。

カフカやロート、シュルツといった面々は、ヨーロッパで生きたユダヤ人の世代だ。多くが東欧に生まれ住み、その文化にある程度根ざしながらもユダヤ人である自分を意識していた世代だ。この前の世代にとっての重大事件がドレフェス事件だとすれば、彼らにとっては第一次大戦がそれにあたる。

次の世代、シンガーの世代の数は多くない。その青春・壮年時代が第二次大戦に重なっているからだ。意味するところは明白だろう。悲劇を逃れてアメリカに早々に渡ったあとも、イディッシュ語で書き続けたシンガーの存在感は、決して小さくないはずだ。

その後にはホロコーストを生き延びた人々、少年期に第二次大戦を経験した世代が続く。アハロン・アッぺルフェルド(1932- )やアモス・オズ(1939- )を代表としておこう。彼らにとってカフカの文学が占める大きさは、世界文学に占めるカフカの大きさを超える。アッペルフェルドの小説、『Le garçon qui voulait dormir / 眠りたかった少年』では、その扱いはほとんど聖書と等しい。

イスラエル文学は彼らと共に誕生した。彼らはそれまでの世代(の作家)にはなかった選択を迫られる。母語を捨てる、という決断。ヘブライ語で書くこと、それは両親の世代からの決別を意味する。名前も変え、言葉も変え、彼らは新しい民族となる。ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人ではない、イスラエルの地に根ざしたイスラエル国民として。

日本ではあまり紹介されることのないイスラエル文学を、フランス語を通じてではあるが今後紹介していこう。

Au revoir et à bientôt !

2014年3月21日金曜日

賢者タイムに見る映画―― 『ラヴレース』

マスターベーションを終えた後の醒めた気分で、今楽しんだばかりのAVを見直す。見られたもんじゃねえな。あえぎ声はうるさいし、演技は大げさ、そもそもセックスしてるばかりで、新鮮味もクソもないよね。


なんて思いながらも次の機会には、そのとき感じた気分も忘れて、また勃起し、射精する。悲しいけどコレ、男の性。


映画『ラヴレース』はそんな男たちの欲望に一生を狂わされることになった、リンダ・ラヴレースの実話をもとにした作品だ。DVを振るう夫に強要され、アダルトヴィデオに出演する羽目になった彼女は、出演作『ディープ・スロート』によって、瞬く間にスターの階段を上り詰める。ポルノスターではない、ホンモノのスターだ。でも、ホンモノっていったいなんだろう?


映画はその過程とともに、華やかな人生の裏側、夫の暴力や性的虐待、売春の強要、両親との不仲などを描いている。


時は1970年。奇しくも先日紹介したピンチョンの『LAヴァイス』と同じ時代だ。当時を知らない我々には、時代の雰囲気を味わう一種の資料にもなる。まぁもちろん、現代から見つめなおしているから歪なんだけど。


ぶっちゃけ、主演のアマンダ・セイフライドの可愛さがすべてだよね。たぶん観客の何人かは、あられもない姿態を想像して、興奮して、マスターベーションに走るだろう。それが、この映画の正しい鑑賞法だ。彼女だって、スターになって、満更でもなさそうだろう?


そうなのだ、この作品の上手いところは、彼女の喜びをきちんと描いているところだ。後のポルノヴィデオ反対運動家としてのリンダに焦点を当ててしまうと、どうしてもポルノスターとしての彼女は控えめに描く必要がある。忌まわしく、強要された、忘れ去りたい過去として。


実際にはそうではない。少なくともこの映画ではそうだ。始めは戸惑い、躊躇いがちだったラヴレースも、人々の賞賛と賛辞を得て、だんだんとそのきになっていく。彼女も人の子。もて囃されればその気になる。誰もそのことで攻められまい。


その後の運命と行動は、オナニー後の賢者タイムのようなものだ。後悔甚だしいが、いずれ繰り返すことになる。ラヴレースの強さは、そんな弱さに打ち勝った点だ。だがそこにはほとんど触れられない。なぜって、人は弱いものだから。


過去のことを思っちゃだめだよ。なんであんなことをしたんだろうって、怒りに変わってくるから。未来のことも思っちゃだめ。大丈夫かな、あは~ん。不安になってくるでしょ。ならばあ、今ここを生きていけば、みんな、活き活きするぞ! by 松岡修造


Au revoir et à bientôt !

2014年3月19日水曜日

雨に濡れた土の匂い

出川哲郎の持ちネタのひとつに、「切れたナイフ」ってのがあるじゃん?他の芸人たちに散々弄られたあげく、たまりかねたように昔の呼称を持ち出して、「オレはなぁ、昔切れたナイフって言われてたんだよ!」ってやつ。どんな意味やねんと周りから突っ込まれ、本人も満足げに笑っている。あれ、こんなんだっけ?

テレビでこの場面を見るたび、大江健三郎の小説で出てきた「ナイフ / naif」を思い出す。どの小説だったか、忘れてしまったけれど。日本では「ナイーブ」と表現する人間を、「ナイフな」奴と高校生同士、原語の発音に忠実にありながら評するという、作中の挿話のひとつだ。

日本で「ナイーブ」といえば、素朴さや純粋さを表し、やや肯定的に捉えられることが多い。この意味合いは、フランス語では古風であり、現在ではほとんど使われない。naif の今現在の意味は「お人よしの、馬鹿正直な」ってところだ。

そう考えたとき、「切れたナイフ」って呼称は面白いよね。だって「ついに馬鹿が怒ったぞ」といわれてるようなもんじゃん。まさにそのままの状況。赤いものを見て「赤いぞ!」といったにもかかわらず、「意味がわからない」と否定する周囲と、それを受容してニタニタ笑うだけの本人。そこはかとなく哀れみを感じてしまう。

まあそれはさておき、今日の本題。Isaac Bashevis Singer / アイザック・バシェヴィス・シンガー『Gimpel le naif』 をフランス語で読んだ。あとで調べたところ、日本語訳も存在し、タイトルは「バカのギンペル」と訳されていることが多いようだ。発音しずらい名前だが、これでも1978年のノーベル文学賞受賞者だ。

最近ユダヤの作家を集中的に読んでいるのだが(以前に紹介したAmos Oz もその一人)、この人にはある意味裏切られた。なんつーか、ヨーロッパの匂いが強いのだ。それも、中央ヨーロッパの匂い、ドストエフスキー的に言うならスラブの匂いといえばいいか。

それもそのはず、生まれは1904年ポーランド。1935年には兄を追って渡米。その後1943年に米国籍を取得し、1991年マイアミで死去している。シオニズムとは距離を置き、母語であるイディッシュ語を使って、イディッシュ民話に深く関係した物語を書き続けた。1978年のノーベル文学賞受賞は、もちろん、イディッシュ語の作者としては初だった。

イディッシュ語は高地ドイツ語のひとつ、一方言とされ、標準ドイツ語にヘブライ語やスラブ語を交えたものらしい。「イディッシュ」とは「ユダヤ語」の意味であり、それはそのまま使用者の帰属先も示す。

文学的内容は、ヘブライ語で書く後世のユダヤ作家、Amos Oz Aharon Appelfeld よりも、同時代の中央ヨーロッパの作家たちにはるかに近しい。ボフミル・フラバル(1914-1997)やヤロスラフ・ハシェク(1883-1923)などは、民族的背景は異なりながらも、同じような土台がある。それは民衆に根ざしていること、「因果応報」だとか、「信じるものは救われる」とかいった、上から押し付けられた規範に捉われない理不尽さと、性的開放感が作中に充溢する。それは、雨に濡れた土の匂いだ。

もちろん、このあたりの作家と比較する以上、同じように中央ヨーロッパに生を受けたユダヤの作家、フランツ・カフカ(1888-1924)と比較しないわけにはいかないだろう。だがそれは、また別の話。

全然関係ないけど、飲料水「evian」を反対から読むと「naive」。そんなとこから、気取って水を買うような人間のことを「ナイーブな(バカな)やつだなぁ」と嘲るのも、フランス人の一種の楽しみだ、ということにしておこう。

まったくまとまりのない文章だが、今日はここまで。
Au revoir et a bientot !


2014年3月17日月曜日

LA TERRE / 大地

LA TERRE / 大地

たくさんの果物に目移りして
昼も夜も気が散ってしまう
オレンジがひとつほしいなら、
ここにはオレンジの木ばかりだし、
苗木が一本ほしいなら
果樹園だからよりどりみどり。
君はバラを摘みとろうと
手を伸ばした
大地はそれに無関心で
君は不問に付された。
彼女が胸のうちに思うのは
新しいバラのこと、
泥だらけの栄光の中には
幾千の色が隠れていて
そこでは未来の花々が
まだ色づかぬままに眠っている。

前回の『La Planete』 と同様、こちらも同名タイトルの詩がほかにも存在する。『Gravitations 』 とその前作 『Debarcaderes / 船着場』 に収められた2作は、それぞれに趣が異なって面白い。後者は短いので翻訳して、こちらのブログで紹介できるかも知れない。

この詩にも、シュペルヴィエルに忍び寄る老いの影、死の影が感じられる。11行目、「彼女」とあるのは、もちろん大地のことだ。大地 la terre は女性名詞。前回の惑星も女性名詞であるがゆえに、「彼女」と受けるところがあった(翻訳では生かしていないが)。永遠に生と死を繰り返す大地=惑星に対し、一度きりの人生の終着点に差し掛かっている自分の対比。詩人自身が感じたに違いないであろう心境を、残酷なまでに美しく切り取っている。

Au revoir et a bientot !

2014年3月16日日曜日

LA PLANÈTE / 惑星

LA PLANÈTE / 惑星

大地は行ってしまう 僕らの下で
その速度を感じたまえ
僕らを置いてどれほど早く
行ってしまうことだろう。
窓から眺めようとしても、
誰かが鎧戸を下ろしてしまっている。
別の窓を開けようとしても、
すでに日は沈んでしまった。
こっそりと軌道から逸脱して
僕らを巧みに避ける君よ、
動かない振りを決め込んだのが
より大きな過ちだった。
死んだ振りをしていた雌ギツネが
突然、前脚を使って
僕らを穴に突き落とす
すべての非は僕らにある。

Planete / 惑星 と題した詩を、シュペルヴィエルは詩集『Gravitation / 万有引力』に収めている。1925年出版の同作と、1949年出版の『Oublieuse memoire』に収められた上の詩を比べてみてほしい(以前にこのブログで翻訳しているのでよければ参考に 『Planete / 惑星』)。

「惑星の運行」は、若かりし頃の詩人にとって酩酊や興奮のミューズであったが、年を取るにつれ、それは流れ行く時間の宿命から逃れんとする、人とのどうしようもない距離を感じさせる存在となっている。ここで詩人は朽ちゆく自らの肉体と、永遠を感じさせる惑星との懸隔を、否応なしに感じている。

ちなみに、最初のバージョンでは最後の4行は以下のようになっている。

そして僕ら水から出た魚のように
真空の中で喘いでいる
漏れやすい空気が
墓石になると思っているのか。

Au revoir et à bientôt !

2014年3月10日月曜日

死後の2時間30分――『対岸』

10年ほど前からことあるごとに、20世紀最高の短編小説は『南部高速道路だと言い続けてきた。今も私にとってはそうであり続けているし、これからもきっとそうだろう。ここには短編のすべてがあるし、若い頃の感動を年を取ってから超えるのは難しい。

作者はフリオ・コルタサル。2014年の今年、生誕100年、没後30年にあたる。おそらく日本でも、それなりの規模で特集や新訳が現れるだろう。その程度には、有名だ。というか、世界文学においてその名は燦然と輝いている、って前回のアチェベの言い草をそのままパクってるわけだが。

そんな彼の処女短編集『対岸』が、先月翻訳出版された。キューバで行われた講演「短編小説の諸相」も併せて。もちろん買わずには済むまいよ。

収められた13編から1つ紹介しよう。
「電話して、デリア」の主人公、デリアは自分と幼い子どもを捨てた元夫ソニーのことを考えている。洗剤が指の傷に浸み込む痛みにも耐えて、彼のことを。ソニーがデリアのもとを去って2年。その間一度も連絡はなかった。それでもデリアは、彼からの電話を待つ。今日は一度も電話が鳴らなかった。

7時20分、電話が鳴る。ソニーからだ。彼の声には妙な響きがある。刑務所とか、バーとか、どこかそんなところからかけてきている感じ。いろいろ話したいことがあるんだよ、そんなふうに切り出しながら彼がデリアに言いたいことはひとつ、「デリア、僕を赦してくれるかい?」それだけだ。デリアにはその声にはなにかが欠けている(余っている?)ような気がする。

デリアにはソニーが赦せない。赦せるわけがない。葛藤はある。だが己の感情が混沌として、整理のつかないままに、電話は切れてしまった。受話器を手に、呆然とするデリア。時刻は7時30分。

二人の友人、スティーヴがデリアを訪問する。切り出す話はまたしてもソニーのことだ。「捕まったの?」デリアはたずねる。さっき彼から電話があったの。どうも刑務所の中からかけてきているようだったわ。それを聞いたスティーヴは驚いてこういう、「ありえないよ。だってソニーは5時に死んだんだよ」。

コルタサルは併録された講演「短編小説の諸相」で、短編小説は写真のようなものだという(対して長編小説は映画のようだ、と)。「…すなわち、写真は、決まった枠によって限られた断片を切り取るが、その断片が引き起こす爆発によって、その向こうにさらに大きな現実を開示し、カメラの写し出した光景を精神的に超越する動的ヴィジョンとなる」(p.151) と書くように、この短編には写真の枠の外を、読者に思う存分想像させる。

私の考えるのはこんなことだ。亡くなったソニーは5時以降、死と生のあいだにある待合室にいる。そこでしばらく待機したあと、二つある扉のどちらかに連れて行かれる。部屋には公衆電話が置いてあって、受話器を上げるとそのとき一番話したい人、謝りたい人に繋がる。

コルタサルには写真をテーマにした有名な短編がある。「悪魔の涎」と題され、ゴッサマー現象を扱った作品だ。私には非常に縁深い作品だが、それは今ここで関係がない。「南部高速道路」も収録された、この『悪魔の涎・追い求める男』という、日本オリジナル短編集が、やはり最高だぜ。

Au revoir et à bientôt !



2014年3月9日日曜日

アフリカ文学の父と小説の力

相も変わらず光文社古典新訳文庫が熱い。

このブログを読んでくださっている方はご存知だと思うが、最近はこのシリーズの紹介ばかりだ。本の売れないこの時代に、これだけ海外文学を、それも大手出版社が扱わないマイナー文学を、それも文庫で出す勇気と気概。こんなシリーズはほかにはない。年々価格設定が上がって、今や1冊¥1000 以上が当たり前になって、高校生が手を出しにくい値段になっていることはとりあえず、置いておこう。

アチェベ『崩れゆく絆』は、帯文にもあるように、アフリカ文学の傑作とされている。発表されたのは1958年。アフリカの年といわれ、数多くの国家がヨーロッパの植民地支配から脱した1960年に遡ること2年。当然、同作はアフリカ独立期の象徴的な一冊として読まれた。

解説にもあるように、この小説は三部構成から成る(この解説がなかなか優れている)。主人公オコンクウォとその家族を中心に、ウムオフィア村の生活と文化や慣習が詳細に語られる第一部、その最後で偶然起こった事故によって、7年の流刑生活を余儀なくされた彼を描いた第二部、そして第三部では故郷に戻ったオコンクウォが、侵入してきた白人とそれに伴う社会の変化に直面し、対決する。

第一部から二部、三部と移るにつれて、語りは直線的になり、物語は加速する。それとともに空間も広がっていき、最終的には植民地全体を俯瞰する視点となって終わりを迎える。

アチェベがこのような傑作を書き得たのは、また「アフリカ文学の父」と呼ばれ、以降の文学に多大な影響を及ぼしたのは、ひとえに彼自身の持つ二重性によるだろう。

彼の立場を作中人物で表すならば、主人公オコンクウォの息子ンウォイエになる。村の伝統や風俗になじめなかった彼は、白人のもたらしたキリスト教に傾倒し、やがて村からも自分の家族からも離れることになる。アチェベは、そうして最初に西欧化した人々の孫の世代にあたる。

キリスト教文化に染まった社会に生まれ、教育を受ける。そこから、自らの祖先の文化を見つめなおす。これまでのヨーロッパのアフリカ理解がひどく一面的であり、強制的なものであることを暴きだすために。放蕩息子の自分を意識しながら、祖先の地への帰還を果たすことは、おそらくわれわれが想像する以上に難しい。だからこそ、それに成功したこの作品が、世界文学の中でも燦然と輝く傑作となっているのだ。

この作品の発表当時、アフリカ、あるいは世界は時代の転換点にあった。植民地支配からの独立とはいえ、そもそも「国家」なる概念自体がない土地で、それもよそ者が引いた境界線に則って、どうしてまとまったひとつの国ができるだろう。事実その後もアフリカはクーデターや政治の腐敗、混沌と混乱を繰り返す。

そんな時代のさなか、新たな時代を想像 / 創造するに最もふさわしいものとして、アチェベは小説というジャンルを選んだ。21世紀も10年以上が過ぎた現在もまだ、小説はそれだけの力を秘めているだろうか?

Au revoir et à bientôt !


2014年3月8日土曜日

グルーヴィ。 ピンチョンの 『LAヴァイス』

マクガフィンとはなにか。「なんでもないんだ」とヒッチコックは言う。でもそれは、無や否定ではない。むしろ、ストーリーを駆動させるために必要な小道具ですらある。小道具の内容にこだわる必要はない、と彼は言いたいのだ。エンジンをかけるキーの形にこだわる人が少ないように。

個人的な話になるが、「マクガフィン」なるこの単語、私に一人の人物を思い出させる。彼女との束の間の繋がりを思い出させるこの語が巻末解説に現れたことによってなおさら、私とピンチョンの『LAヴァイス』 との結びつきが強調されることになる。

原題は『インヒアレント・ヴァイス』。「固有の瑕疵」とは、そのもの固有の性質として備わっている悪、の意味。海上保険会社はたとえば、疲労亀裂が原因でマストが折れて事故になったりした場合、それは「固有の瑕疵」が原因だとして、支払いの拒否を主張することができる。ピンチョンはこの概念をロサンゼルス、ひいてはアメリカ全土へと広げ、アメリカという国の「インヒアレント・ヴァイス」とはなにか、語り明かす。

物語はロスの建築業界の超大物、ミッキー・ウルフマンが、シャスタと共に謎の失踪を遂げるところから始まる。主人公のヤク漬け私立探偵ドックは、彼女の身を案じ、調査に乗り出す。だって彼女、昔の恋人だから。

おわかりいただけただろうか。こうして読後の余韻に浸りながらこの一文を書いている私が、ドックとシャスタの関係に自分を重ね合わせていることに。もちろん私の知り合いは事件に巻き込まれたわけでも、かつて恋人だったわけでもない(もちろん!)。だが彼女と私とマクガフィンをめぐる冒頭のエピソードがこの記事のマクガフィンの役割を果たし、それがシャスタ(それにウルフマン)の失踪という作中のマクガフィンと呼応する。

ドックがシャスタの行方を追う、このエピソードが小説の前景にあるとすれば、ドックと裏返しの存在である刑事ビッグフットの追いかけている事件が後景にある。アメリカ社会に潜む悪を暴くことを目的としたこの旋律部分こそが、この作品の主の部分だ。

そして強引にこれを、『魚たちは群れを成して森を泳ぐ』から『映画 さよなら、アドルフ』、そしてシュペルヴィエルの翻訳を作中に何度も流れる歌に喩えれば、ピンチョンが暴き出そうとする根源的な悪を、排除の形を成す悪と比較することができる。

つまるところこの一連の流れを読むことが、『LAヴァイス』を読むことの矮小化された反復だということだ。そうすることで私自身、ピンチョンの作品を要約するという愚行に手を染めずに済み、なおかつ読者には作品の雰囲気だけでも味わってもらえる、一石二鳥で今の私ができる最良の手段ということができるのだ。グルーヴィ。

ドックとシャスタが結末近くに再会するように、私とその人物の再会はあるだろうか?おそらく、いやまず間違いなく、ない。それが私の物語だからだ。自分の人生の瞬間を小説に託すことで得られるもの、それは、次の瞬間には忘れられる心の働きを永遠に記録し、読み返すたびに反復される経験だ。これも一種のドラッグといえば、そうだ。

誰にだって連絡を取らなくなった友人、知人はいる。その人について、ある日ふと、どうしてるかなと気にかける。それが物語を動かす原動力=マクガフィンだ。その結果、ドックは巨大な事件に巻き込まれ、私はこの文章を書いた。さて、あなたは?

Au revoir et à bientôt !


2014年3月4日火曜日

球春到来!

観客数4502人、先発の西は3回を4失点といまひとつの内容、打線も4回以降は淡々と凡退を繰り返し、3-5で敗戦。オリックス・バファローズは本拠地開幕戦をなんともいえない試合で破れた。

個人的にもなんともいえない観戦内容だった。バスが遅れ、1回の攻防を見逃すわ、京セラドームの空調があまり効いておらず、観客数も相まって寒々しい雰囲気だわ、せっかくネット裏に座ったのに、後ろの客がアホ丸出し5人組だわ、4回の肝心の得点シーンは席を離れていて見れないわ…。

良かったこと。ドラフト1,2コンビの吉田と東明の投球が見られたこと、T-岡田が変わらず好調を保っているようだったこと、安達の二盗、三盗が見られたこと、相手チームとはいえ、ブランコのホームランが見られたこと。

そんなわけで、今年はオリックス・バファローズの応援に足繁く通います。観戦記をこのブログでやるのは、場違いな感じが甚だしいので、あまりに書きたいことが溜まったら、別のブログを立ち上げるかもしれません(可能性0.1% )。

文芸批評家蓮見重彦に『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』という一冊があるが、もしかするとそのノリでこのブログに書くのが、一番面白いかもしれん。

というわけで、今日はここまで。今後もこのブログは、世界のマイナー文学をこよなく愛する管理人がお送りいたします。

Au revoir et a bientot !
先発は西。今日の出来はイマイチ


2014年3月3日月曜日

ソネット ――妻に

ソネット / SONNET
―― Pilar に

永遠を一人で過ごさぬために
君のそばで未来の伴侶のことを考える
いつになれば涙は瞳なしに流れ、僕らは生活を楽しみ、
互いの誠実さの上で、安らうことができるだろう。

冬や夏を切望せずに済むように
巨大な郷愁に押しつぶされないように
今ここで、新たな生を耕そう
僕らの怠け癖のある雄牛を駆り立てよう

どうやって入れ替わるのか、確かめよう
友が、フランスが、太陽が、子どもたちが、果実が
そして頑固な夜がどうやって 素敵な朝に変わるのか

目を使わず見て、指を使わず触って、
言葉も、声も使わずに話して、
身動きもせず、少しだけ場所を移して。

妻である Pilar に贈った詩。ここにはシュペルヴィエルらしい小宇宙と、愛の発露がある。ここにはシュペルヴィエルの小宇宙の中を共に漂う、夫婦の姿がある。

最終段落は「確かめよう」という動詞が隠れている。3段目で「どうやって(様々なものが)入れ替わるのか」と問いかけ、4段目で「こんな風に確かめよう、二人一緒に」と妻に語りかける。

夫婦といえど人間同士、隠し事や失敗もある。ときにお互いを疑い、信じられなくなることもある。それでも二人、共に生きていこう、永遠を一人で過ごさぬために。う~ん、ロマンティックすなぁ。

Au revoir et à bientôt !


2014年3月2日日曜日

映画 『さよなら、アドルフ』

ある瞬間まで彼女は、間違いなく加害者側の人間だった。自分でそうと知らなくとも、その特権を享受していた。

多くの日本人がそうであったように、また多くのドイツ人がそうであったように、あるいはまた別の民族がそうであったように、歴史の転換点において人は、自分たちのこれまで依拠してきた価値観が、暴力的に転覆される経験を味わう。自分たちの属する共同体が成してきた行為のツケを、見に覚えがなくとも(だが本当にそうだろうか?)、債務の履行を迫られる。

主人公ローレの父親はナチス親衛隊の高官。そのことが戦時中には、比べ物にならない豊かさをもたらし、戦後には憎しみを生んだ。「ナチス高官の娘」という、自分で選んだわけでないレッテルを貼られ、自らの意思と無関係な運命に晒される。

『さよなら、アドルフ』は全編を通じて重苦しい空気に覆われている。その空気が、見るものにもまとわりつき、しばらくのあいだ付きまとって離れない。まるで煙草の臭いのように。その空気の正体はなんだろう。人類が体から発散している悪の瘴気だろうか?

ローレと幼い妹弟たちとめぐる、祖母の家までの800kmの道のりには、多くの困難が待ち受ける。道中彼女たちに救いの手を差し伸べてくれるのが、青年トーマス、ユダヤ人だ。

ローレの感情・価値観は何度も揺さぶられる。人々の手のひら返し、ナチスが行っていた虐殺の告発、そしてユダヤ人もまた、自分たちと同じような感情や肉体を持つ、一人の人間に過ぎないこと…。これまでに経験したことよりもずっとたくさんのことをその旅を通じて彼女は学び、迷う。

映画を見終わった後、吐き気に襲われた。胃腸が弱いんだろう?たぶん、そうだ。ストレスを感じるといつも、身体の奥からなにかが込み上げてきて、息苦しくなり、もどしそうになる。

でもこれは、サルトルの『嘔気』の主人公、ロカンタンが感じるそれに、いくらか似ている。実存主義のバイブルとされたこの小説は、第二次大戦後、世界中の若者たちに熱狂的に読まれた(仏語出版は1938年)。人間の生そのものに対する問いかけは常に、我々の存在を危うくさせる。

煙草の臭いはいつかは消える。だが、ローレが「ナチス高官の娘」だったという事実は消えない。そして、トーマスが「ユダヤ人」であるということも。レッテルはいつでもどこでも、本人の意思とは裏腹に付きまとう。そしてそれを貼られた本人は、そのことを決して忘れない。たとえ、周りの人々が忘れてしまったとしても。シールをきれいに剥がすのは難しい。

Au revoir et à bientôt !