2013年3月29日金曜日

アポロは未来の礎となって

ほりえもん、こと堀江貴文氏、出所。

株式会社ライブドアの下CEOとしてかつて一世を風靡した男も、2006年証券取引法違反の疑いで逮捕。2011年に2年6か月の実刑判決。そして、一昨日の2013年3月27日に仮釈放され、メディアの前に姿を現した。マスメディアはこぞってこのニュースを取り上げた。

証券取引法違反ってなんだよとか、マスコミの滑稽なまでの群がり具合など、突っ込みどころは多々あるが、今それは脇に置いておこう。それはこのブログのテーマから横道に逸れてしまう。

興味深かったのは、会見で飛び出した、今後なにをしたいか、という問いに対する答えの一つとして、「宇宙開発」と答えていたことだ(ニュースによると逮捕される以前から宇宙開発事業には着手していたらしい)。

現在進行中の宇宙開発計画として、目覚ましいものの一つにディスカバー号による火星探索がある。火星は太陽系において、もっとも生命の住んでいる(いた)可能性の高い星だといわれており、最先端の技術の結晶であるディスカバー号は、その証拠集めに躍起になっている、なんてひねくれ過ぎた見方だろうか。

そんなほりえもんの夢を現在進行中で突き進んでいるのが、Amazon.com のCEOである Jeffrey Preston Bezos 氏。先週、彼の組織したチームが、大西洋沖からアポロ11号の打ち上げに使われたサターンⅤのF1エンジンを引き揚げた、と発表した。

1969年に人類初の月面着陸を成し遂げた、あまりにも著名な宇宙船の推進エンジンは、その後40年以上ものあいだ、 海底4300m で眠っていたことになる――ロマンがあっていいだって?彼ら大金持ちがそんな論理で動いているとは思えないな。

かつて宇宙開発はロマンだったが、今はマロンだ。意味がわからない?ごめん、私もノリで言った。あえてこじつけるならば、以前の宇宙開発は人類全体で共有する一種の神話だったのに対し、現在のそれは金さえ積めば購入できてしまう、値札のついた店頭商品だってことだ。

人類に残された最後のフロンティアは今後、大富豪の遊戯場になるだろう。ちょうど人跡まれな山林深くを切り開いて作り上げたゴルフ場が、中流階級の娯楽の場として供されているように。国家的な神話を共有する時代は同時にマスメディアの時代でもあった。その一方で、現在進行中の資本主義の拡大に伴う力の分散化現象は、パーソナルメディアとミニコミの時代の到来に照応しているのか?同時代を生きる我々には中々判別がつきにくいことではある。

That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.
これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。
 
 と、アームストロング船長の名言を引いて、上手くまとめた風にしておこう。
 
Au revoir et à bientôt !
Les moteurs d'Apollo 11 remontés du fond de l'Atlantique lors de l'expédition Bezos© BEZOS EXPEDITIONS / AFP
 参照URL:Wikipedia アポロ11号
culturebox Les moteurs d'Apollo 11 remontés après 40 ans au fond de l'océan Atlantique (フランス語サイト)
 


2013年3月25日月曜日

愛は貴族主義

持つものにはより多くが与えられ、持たざるものは奪われる。ここでは平等主義も民主主義も意味をなさない。恋愛の世界の規則はただ一つ、より魅力的な人間がすべてを得る、過酷な世界だ。

障害者の性的支援が話題になっている。あろうことかスタンダールが『恋愛論』を書いた国、フランスで、だ。

内容を詳しく見てみよう。
Essonne 県の県議会において提案はなされた。現在は違法である、障害者に対する性的支援を合法化しよう、というのがSAVS(services d’accompagnement à la vie sociale) の訴えだ。とりわけ、「自分では身体を思うように動かせない」障害者に対する性的支援を、と訴えている。

実はこの法律、すでに採用されている国がいくつかある。麻薬の吸引も合法な尖った国オランダを先兵として、隣国ベルギー、永世中立国スイスに、幸福度ランキングで常に上位の福祉大国デンマーク、加えてアメリカのいくつかの州でも採択されているようだ。うーん、このメンツよ。

 もちろん、障害者支援を行っている組織はこの提案に賛成だ。一方で、コメント欄を見る限りでは、一般の人は反対意見が大勢を占めている。そこに税金が投入される可能性があることもひとつだが、それ以前のモラルの問題が大きいようだ。

ここで議論されている主な論点は、「性的支援は売春か否か」 にある。なぜならそれが合法か違法かの、現在のところ明確な境界線だからだ。だがこれは同時に、あまりに不明瞭な一線でもある。セックスをしなければオーケーなのか?それはもっと突っ込んでいえば、ペニスをヴァギナに入れなければいい、ってことだ。まるで、「先っちょだけ、先っちょだけだから!」みたいなノリだ。

この提案に納得いかない人も多いだろう。全国推定6000万人の恋人いない歴=人生の男たち(女たち)よ。これは嫉妬だ、ちょうど働かずに金を得ている、生活保護受給者に感じるそれと同じ感情だ。

でもたぶん、この提案が通ったからといって、心の空白を埋めることはできない。性的支援が法的に認められて、そのついでに売春も合法になって、「性感マッサージ師」の国家資格ができて、男女とも大っぴらに売春宿に通うことができるようになっても、根本のところで問題は解決していない。「国民の健康のため」なんて皮をかぶってはいるが、結局のところ、お前らみんな、愛されたいんだろう?

障害があるから無理?知らねえよ、そんなこと。頼りになるのは自分自身の魅力だけ。あんたに恋人がいないのは、身体の一部が動かないからでも、欠けているからでもない。ただ、魅力がないだけだ。

恥も外聞もかなぐり捨てて、手に入れたいのは一時的な性的快楽なんかじゃない、愛だろ?
――なら勝負だ。限りなく貴族主義的で、平等主義も福祉の精神も埃にまみれて打ち捨てられたこの土俵上で、がっぷり四つに組んで。

Au revoir et a bientot !

2013年3月21日木曜日

Far West !! 21世紀パリのウェスタン

「すでに監視カメラの映像は手に入れた。犯人たちの特定に、そう時間はかからないだろう」

うん、遅すぎる。事件があったのは土曜の夜だぜ。
それからもう5日が過ぎた。便りのないのは良い知らせ、とは言うけれど、続報のないのは捜査の遅滞しか意味しない。

くそっ、ついてねえな、と乗客の一人は思った。久しぶりにパリに出たら、帰りにこんな事件だ。でもパリとその周縁(L'île de France )の地下鉄、RERで起こる事件の数は年間約55000 件一日にあたり150件の計算だ。なにも出くわさないほうが、むしろ幸運な奴だ、と言えるだろう。

「一般的に」とSNCF(フランス国鉄)の広報は言う、「RERのD路線は他の路線に較べて特別危険、というわけではない。どんな交通機関においても平等に、窃盗事件は発生している。むしろ統計的には、窃盗の被害件数自体は減少している」――そんな数字や言葉が被害者にとってなんの慰めになろうか。被害者にとって唯一重要な事象は、自分が財布を暴漢にとられた、ということだけだ。

やつら手慣れていやがった。突然拳が飛んできた、女連れの男が述懐する、かと思うと催涙ガスで目をやられた。彼女の持っていたバッグをひったくり、気がついたときには胸ポケットにしまっていた財布がなくなってたんだ。迅速で凶悪。組織的な犯行だ。

Corbeil-Essonnes 方面の電車に乗っていたんだ、と学生が説明する、電車が Grigny 駅の構内に入るのとほぼ同時に、騒音と叫び声が聞こえた。電車の走る騒音がかき消されるくらいの音さ。それから、プラットホームを減速する車両と並行して走る若い男たちの姿が見え、あとはそう…見てのとおりさ。

まるで野蛮人さ。休日出勤の会社員が愚痴る、若者の集団が見えたとき、車両から車両へとさざめく、恐怖の波が見えた。西部劇に出てくるインディアンのように、蒸気機関車に馬で並走して、雄たけびを上げて自らを鼓舞する褐色の男たち。手に持った槍の穂先を使って、手慣れた動作で自動ドアをこじ開けて、次から次へと車両に飛び乗る。乗っているのは正義のガンマンじゃない、経済破綻寸前の国のビジネスマンだ、銃なんて持ってない。そこかしこで一方的な略奪が始まる。幾人かは抵抗するが、数の暴力には逆らえない。喧騒の後、奇妙なまでの静けさが支配する車内に、男たちが髪飾りに使っていたきれいな鳥の羽が飛び散っている――俺らみんな、毛をむしり取られたニワトリみたいだろ?

3月16日土曜日、夜10時頃、パリ郊外のGrigny-Centre 駅で、顔を隠した20~30人ほどの若者が、RER D線の乗客を襲う事件が発生した。組織だった行動で、目につく相手――とりわけ旅行者を狙って――強盗を働いた。被害者は10人以上に上るとみられる。

「まるで現代社会に対する反抗 / 犯行だ」と事件を担当する警官の一人が自分の意見を述べ、しばらく黙考した後に付け加える、「でもこれは違う」、まるで他人の意見に同意するように頷きながら、「こんなのは普通じゃない」。

Au revoir et à bientôt !
 
今回の記事も上記のニュースに拠りながら、必要に応じて手を加えている。どれくらいかって?7割だな。


2013年3月18日月曜日

冴えないオヤジが歴史を変える――中世からルネサンスへ

これは経済危機が生み出した奇跡だ。

『貴婦人と一角獣』。このフランスの至宝が日本にやって来る。東京、大阪と回る記念的な展示会。これに興奮しないやつはインポテンツなの確定だが、と同時に、国宝級の美術品を貸し出さざるをえない(と勝手に想像しているのだが)、フランス経済の苦しさを感じて、一抹のわびしさを覚えてしまう。まぁ、日本経済だって人のことを言える立場じゃないだろう。過去には1974年、アメリカのメトロポリタン美術館に一度、貸し出されたきり。大阪展は7月27日から。行かない手はないだろう。

普段はパリのクリュニー中世美術館に所蔵されている、この6面連作タペストリーは15世紀末の作品とされている。

2011年にフランスに行ったときに撮った写真
この15世紀という時代は、中世と次代ルネサンス期との境であった。世界史上においてこの時代、相次いで重要な事件が起きている。1492年は言わずもがな、コロンブスのアメリカ大陸到達の年であり、同時にイベリア半島からイスラム勢力が一掃された、いわゆるレコンキスタ完了の年でもあった。

西ではヨーロッパが勢力を拡大する一方、東では1453年、オスマン帝国の攻勢によりコンスタンティノープルが陥落し、1000年以上続いた東ローマ帝国が滅亡している。また、フランスではイングランドとのいわゆる百年戦争が終結した年でもある。まさに時代の転換点といえるだろう。

この中世からルネサンスへの移行は、単なる美術史的区分ではない。それは、「個」の誕生を意味するものである、という点で近代を予告しており、非常に興味深い期間である。以下、T・トドロフの『個の礼讃』をもとに見ていこう。

キリスト教がローマ帝国によって認められて以降、宗教画一辺倒であった絵画の中に、庶民の肖像があらわれてくるのがこの時代だ。先鞭をつけたのは15世紀のフランドル絵画で、ロベール・カンパンやファン・エイク、それにファン・デル・ウェイデンなどがその代表とされる。時代を下るに従って、イコロジー(図像学)的要素は薄れ(といっても決して失われることはなく)、描かれた人物たちの唯一性が顕著になっていく。

トドロフは、これらフランドル絵画を、寓意性と象徴性が重なりあった、稀有な存在として描き出す。
「イメージは二重化し、リアリスム的な再現と同時に、コード化された意味作用を持つ…イメージは、現前と不在、形式と意味作用といった二重の用法に柔軟に対応するものとなったのである」

 「再現された個別性」と別の場所でトドロフは言う。それはつまり、地上の生が再現するに値するものである、とする精神の変革である。この個人への関心こそが新たな芸術の地平を切り開いた。

その最初の発露がキリストの父、ヨゼフの地位向上だった、という指摘も実に面白い。「額に汗して生計を立て、仕事を愛する人間として…本質的に家庭的でブルジョワ的である」 ヨセフにスポットライトを当てることは、古いヒエラルキーを転倒させることになる、新しい世界の誕生を告げ知らせている。

――親父よ、もっと胸を張っていいんだぜ。

そう語る息子(たち)の声が聞こえるような気がする。

Au revoir et à bientôt !
クリュニー中世美術館外観。建物自体も相当古い
 
参照URL:貴婦人と一角獣展
参考文献: 『個の礼讃 ルネサンス期フランドルの肖像画』 / ツヴェタン・トドロフ 著 白水社刊

2013年3月15日金曜日

流れよわが涙、と教皇は言った

先日、コンクラーヴェが終わり、新たな教皇が無事選出された。

中南米出身として初のローマ教皇となったフランシスコ1世のニュースは、一般的にはキリスト教圏とはいえない日本においても、広く報道された。

このローマ教皇選出の儀式、コンクラーヴェをより知りたいと思うあなた、『ローマ法王の休日』なる映画を観るがよろしい。今回のように事前に有力視されていなかった人物がローマ法王に推挙される過程が、実にコミカルに描かれており、聖職者、枢機卿と言えども人間なのだと、まざまざと知ることになるだろう。

ところで今回なぜ急に教皇が変わることになったのか?そもそもの原因は前教皇ベネディクト16世が高齢を理由に教皇の座を辞したことにあるのだが、生前の退位という事態がまず類をみないことであり、歴史上今回が2度目、実に 719年ぶり だということだ。

思うに今回の退位の間接的な原因には、聖職者の児童に対する性的虐待があったろう。もちろん他にも権力闘争やマネーロンダリングなど、世俗的で醜い争い、問題はある。それでも性的虐待ほどショッキングではないし、また前教皇自体、完全に白、と言いきれないことがカトリック教会自体のイメージを非常に損なったのではないか。カトリックはおろか、キリスト教とまったく繋がりを持たない私からはそう見える。

さて、1995年の今日、世界で起こった出来事を振り返ってみよう。このところ、このブログが「今日はなんの日?」みたいになっているのは公然の秘密だ。

場所はローマ近郊の小さな町、Civitavecchia 。時刻は朝の8時15分。町の司祭 Girolamo Grillo はそのとき、血の涙を流すマリア像を目の前にしていたにもかかわらず、大して驚きもしなかった。

もうろくジジイだったから?――なるほど、確かにそれもある。彼は年老いて、判断力も衰えていた。口の端に加えた煙草の吸殻が、固まった涎に見えることもしばしばだ――だが、それが理由ではない。数日前に教区の信徒の一人が、「マリア様が血の涙を流した」といって、この像を彼の下に持って来たのだ。

幸いにしてと言おうか、もちろんと言おうか、その言葉を鵜呑みにするほど、彼は純真でもなく、また呆けてもいなかった。まったく、また民衆をたぶらかすまやかしの奇跡か!と、彼は一人ごちた。


しかし今こうして、こんな風に事実を目の当たりにした以上、信じないわけにはいかない。そんなのは冒涜的な考えだ。一緒に居合わせた妹が、マリア像の頬にそっと手を触れた。その指先を、血の涙が伝って流れていた…。

それから数日にわたって、マリア像は涙を流し続けた。だが一体なにをそんなに悲しんでいるのか?現代世界の悲惨な有様に?あるいは来るべき破滅の時のため?知っているのはただ一人彼女だけ、話のできないマリア様だけだ。

どんな奇跡も、性的虐待を受けた子供たちが陰ながら流した涙とは釣り合わない。『収奪の大地』に生まれた新しい教皇なら、それに適切な感度を持って応じられるはずだ。

Au revoir et à bientôt !
 
(注)いつものようにLe Point fr. のC'est arrivée aujourd'hui の記事を参照しているが、後半部分に関してはほとんど超訳みたいなものである。すまないがこれ、創作なんだよね。あしからず。

2013年3月13日水曜日

戦後30年続いた戦争

「幻想文学とは」とトドロフはその著書『幻想文学論序説』で言う、「現実と想像のあいだで読者に「ためらい」を抱かせるもので、それは「恐怖」と「驚異」の中間にある」 ものである、と。


モロー作 『オイディプスとスフィンクス』
幻想、さらには幻想文学がどんなものであろうと、もっとも怖ろしいのは現実から少しだけずれた非現実=幻想だ、というのをかつて読んだことがあるが、これは理解しやすい。少しだけ、というのがミソで、このあるかなきかの違和感こそが、恐怖の感情を引き起こすトリガーになっているのだろう。

SF作家のフィリップ・K・ディックが1962年に発表した作品、『高い城の男』はまさに幻想文学の範疇にある作品だ。

第二次大戦の勝敗が逆転した世界を舞台に、現実と虚構とのあいだの微妙なバランスを描いたこの小説世界のなかで、登場人物たちは、さらにその逆の世界(つまり連合軍が枢軸国に勝利する)を描いた小説に読みふけっている。

これだけならばよくある入れ子構造の作品に過ぎない。この小説の面白みは、「現実/リアル」、それも小説内のそれでなく、我々の生きているこの「現実/リアル」との連関性にあるだろう。

おそらく1962年当時のアメリカの人々は、敗戦後、世界史上他に例を見ない高度経済成長を遂げていた日本に対して、ある種の危機意識を持って見ていたに違いない。それは国力を取り戻した日本が再び戦争への道を歩む、という恐怖よりはより具体性を持った、経済的にアメリカを上回り、支配するのではないか、という危機感だったろう。そのような感情が『高い城の男』の中にも見てとれる。

2010年代の日本でこの本を読むことにはまた別の意味があるだろう。日本が戦争で勝利した世界を描いたアメリカ発の小説を、敗戦の記憶もない日本の若者が読む――人によって感じるところは様々だろう。私にとっては、軍国主義の高揚感を共有しない、という点で第二次大戦当時の日本との隔絶を再確認する契機だった。

軍国主義の思想に戦後30年近く忠実だった日本人もいる。

小野田寛郎。終戦後も29年の長きに渡ってフィリピンにてゲリラ戦を継続していた軍人、と聞けば多くの人は、「ああ」と納得されるだろう。戦後の約30年のあいだにも彼は、そのゲリラ行為によって30人以上のフィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を殺傷した。

彼が日本の状況をまったく知らず、戦争が続いているものと思っていたかといえばそうではない。当時の日本の情勢についても、手に入れたトランジスタラジオその他によってかなりの情報を得ていたようだ。捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。

人間は自分の思考に合わせて現実のほうを捻じ曲げる。彼のことを「立派な軍人」だとか「軍人の鑑」だとか賞賛することは容易い。だがその一方で、自分の信じた思想を批判し、疑うことをしない危うさを指摘しないことは、片手落ちになってしまう。彼の頭の中に引かれた無意味な国境線が、必要ない死者を生みだしたことに違いはない。彼の生きていたのは実際の世界とは僅かに異なる別の世界線、パラレルな幻想文学の領域なのだ。

彼にとっての終戦は1974年3月9日。そう、この文章はその日に合わせて書くつもりだったのさ。

Au revoir et à bientôt !
 
 参照URL:Wikipedia 小野田寛郎
 

2013年3月10日日曜日

はなくそまんきんたんに見る地方性

以前に「はなくそまんきんたん」は物事を始める魔法の言葉だ、と書いたが、どうやらその魔法は地方限定のようだ。

ブロガーにはトラフィック機能がある。拙ブログに来てくれた奇特な方々が、どのような言葉を検索したかわかる便利な機能だ。

この一週間、少なからぬ人が「はなくそまんきんたん」の検索結果として、拙ブログを訪問してくれていた。そこを遡っていくと、そこには「はなくそまんきんたん 宮崎弁」という、思いもよらぬ結果が表示されていた。

調べた結果、「はなくそまんきんたん」と「だるまさんがころんだ」の代わりとして使用するのが宮崎弁、ということだ。

そもそも「だるまさんがころんだ」には地方性がかなりあって、「インド人の黒ん坊」「インディアンのふんどし」といった、かなりきわどいものまで含まれている。「はなくそまんきんたん」もその変種だと考えることができる。

一度情報を整理してみよう。そもそも「はなくそまんきんたん」とは、正確には「鼻くそ丸めて万金丹薬に対する不信感を表明する諺とされている。
んで、その諺のもととなっているのが、
「越中富山の反魂丹 鼻くそ丸めて万金丹 それを飲むやつあんぽんたん」
の歌である。

問題は、どのようにしてその歌、言葉が全国に伝播したのか、ということだ。富山の薬売りが全国を行商して回ったのはよく知られているが、彼らが自らの売る薬を卑下する歌を歌いながら売り歩いていた、とは考えにくい。それはちょっとシニカルすぎて、売上の向上は見込めなかったろう。

…と思っていたのだが、どうやら間違いのようだ。

これだけ全国に広まっている理由は、富山の薬売りが歌い歩いたからに違いない。それは間違いではないが、問題は反魂丹と万金丹の区別だろう。

反魂丹は腹痛によく効く富山の名薬として、昔から広くその名を知られていた。一方、万金丹はといえば、こちらは和歌山、伊勢のほうで売られていた後発商品、つまりは二番煎じ、似て非なるものなのだ。「白い恋人」と「面白い恋人」の関係、といえばわかりやすいだろうか。そりゃあ、白い恋人側が怒るのも当然さ。

つまるところ、富山の薬売りは自らの薬の効果を宣伝しつつ、ライバルの薬の効果をけなす、そのような歌を歌って全国を回っていたわけだ。そもそも富山の薬売りは別名「反魂丹売り」とも呼ばれていたようだ。

とはいえ、謎は未だ残る。なぜこれだけ各地に広まった言葉が、宮崎においてだけ「だるまさんがころんだ」と結びあわされることとなったのか。そもそもそれが宮崎に限ることなのか、それすらわかっていない。

はなくそまんきんたんの深淵は、どうやらまだまだ深そうだ。

Au revoir et à bientôt !
フランス最大の地方都市、リヨン
 

2013年3月9日土曜日

南米独裁者の系譜とチャベスの死

"Hugo Chávez est mort / ウーゴ・チャベスが死んだ"。

6日朝、Le monde から送られてきたメッセージを携帯で確認する。その短文は虚飾がなく、このベネズエラ大統領の死に、微塵の疑いを差し挟む余地すら与えない。

そうだ、これは「きょう、ママンが死んだ」から始まるあまりにも有名なカミュの小説、『異邦人』に対する忠実さだ。誰かの疑いえない死と、その死に対する無関心にこの世は溢れている。南米一の反米大統領の死も、数日経てばすぐにメディア上から消えてしまうこの極東の地で、死者について語るには、物語の形式をとるしかない。

 となると、ここでウーゴ・チャベスの大統領としての業績を数えあげるのは相応しくない。実際になにをしたか、と問われると、自分が大統領の座に長く居座るために憲法を改正した、報道規制、貧しい人々からの支持を得るためにポピュリズム的政策に終始した一方、ベネズエラの主要産業である石油利権を一身に集めていた…など、ネガティブな表現が並ぶ。だが、これは資本主義の側の論理であり、彼を一面から見ることになる。

チャベス大統領の真骨頂は、単純明快な反米姿勢(反ブッシュ)と、そのユーモアあふれた言動だろう。イラク戦争へと向かったアメリカに対する反米姿勢に、共感を持った日本人は少なくないはずだ。彼はブッシュを指差し、自身の死を告げる Le monde の一文とは位相の異なるレトリックで全世界に向けて語る。

この宇宙に存在する最も邪悪な存在!悪魔の象徴!それは、ジョージ・W・ブッシュ

2006年9月20日、国連総会にて行われた一般演説においては、
この場所にかつて悪魔がいた。いまだに悪臭が漂っている
と言い、厳かに十字を切るパフォーマンスを行い会場をどよめかせた。その後、聴衆に向かってノーム・チョムスキーの本を読め、と語るこのセンス。

あるいは、
「(オバマ大統領、)社会主義陣営にいらっしゃい。一緒に『悪の枢軸』と戦おう
と相手の言質を逆手にとれるこの機知には、賞賛を送る以外のすべを知らない。

より彼のことを知るために、南米独裁者の系譜を辿ることが必要だ。ピノチェトにトルヒーヨ、私が主に知るのはこの二人だが、それ以外にも例は事欠かないはずだ。なぜ南米に独裁者が多いのか?おそらくは南米に限った事象ではないはずだが、こう自らに問うことは人間と国家との関わり合い方に、冷静な視点を取り込むことになるだろう。

その時間がなければ小説を読むことだ。『族長の秋』に『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』。後者は現在の西洋文明下に住む我々とダイレクトに繋がっており、前者は独裁政権下に生きた人々の過去と、今に生きる我々とを結び合わせてくれる、ただしめちゃくちゃな結び方で。

そうだ、チャベスこそはマルケスの書いた牛のような大統領、ミノタウロスの完璧な似姿だった…。そう考えて『族長の秋』を読み直してみるのも悪くない。

Au revoir et à bientôt !
 

2013年3月5日火曜日

死の11か月前にルイ16世がやったこと

ルイ16世の肖像画
ルイ16世を知ってるかい?

王妃のマリー・アントワネットのことは知っていても、旦那のほうには興味がない。そりゃあそうだ、ただ王族の血を引いているだけの、愚王とまではいかなくとも凡君だった。でも彼は生涯ただの一人も側室や愛人を持たなかったんだぜ?そうした側面を見る限り、少なくとも良き夫ではあったのだろう。

だからというか、それだからこそというか、彼の行いはエレジーに満ちている。

アイロニーだって?違うね、彼の言動の節々から漂っているのは、エレジー(哀歌)でペーソス(哀愁)だ。

ルイ16世とマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたのは、1793年のこと。ルイ16世の処刑された1793年1月21日のおよそ11か月前、1792年3月2日に、この愚王はある提案をした。

そうだ、ギロチンをもっと効率的なものにしよう。

後世から見るとアイロニーに満ちたこの行為の、なんとも言いようのない可笑しみ。もちろんそれは下った時代にあるものだけの特権であり、本人は自分がその刃の下に頭を置くことになるとは、微塵も考えてはいなかった。犯罪者を見せしめに殺すこの道具が、王族の首筋を寒からしめることがある、と考えるのは確かに革命的思考ではある。

ギロチンはその演劇性に注目が向きがちだが、本来はそれ以前の死刑執行に伴う残虐性の軽減が主な役割だった、はずだ。その意味で、ルイ16世のこの判断は間違っていない、と言える。滑り落ちてくる刃を三日月形から斜刑に変更することで、より人道的になったわけだ。

ルイ16世は自らの発案のおかげで、以前に較べて苦しみが少なくて済んだ。そうだ、彼は自らをも含めた死刑受刑者たちの、守護天使なのである…。



Au revoir et à bientôt !