2013年3月13日水曜日

戦後30年続いた戦争

「幻想文学とは」とトドロフはその著書『幻想文学論序説』で言う、「現実と想像のあいだで読者に「ためらい」を抱かせるもので、それは「恐怖」と「驚異」の中間にある」 ものである、と。


モロー作 『オイディプスとスフィンクス』
幻想、さらには幻想文学がどんなものであろうと、もっとも怖ろしいのは現実から少しだけずれた非現実=幻想だ、というのをかつて読んだことがあるが、これは理解しやすい。少しだけ、というのがミソで、このあるかなきかの違和感こそが、恐怖の感情を引き起こすトリガーになっているのだろう。

SF作家のフィリップ・K・ディックが1962年に発表した作品、『高い城の男』はまさに幻想文学の範疇にある作品だ。

第二次大戦の勝敗が逆転した世界を舞台に、現実と虚構とのあいだの微妙なバランスを描いたこの小説世界のなかで、登場人物たちは、さらにその逆の世界(つまり連合軍が枢軸国に勝利する)を描いた小説に読みふけっている。

これだけならばよくある入れ子構造の作品に過ぎない。この小説の面白みは、「現実/リアル」、それも小説内のそれでなく、我々の生きているこの「現実/リアル」との連関性にあるだろう。

おそらく1962年当時のアメリカの人々は、敗戦後、世界史上他に例を見ない高度経済成長を遂げていた日本に対して、ある種の危機意識を持って見ていたに違いない。それは国力を取り戻した日本が再び戦争への道を歩む、という恐怖よりはより具体性を持った、経済的にアメリカを上回り、支配するのではないか、という危機感だったろう。そのような感情が『高い城の男』の中にも見てとれる。

2010年代の日本でこの本を読むことにはまた別の意味があるだろう。日本が戦争で勝利した世界を描いたアメリカ発の小説を、敗戦の記憶もない日本の若者が読む――人によって感じるところは様々だろう。私にとっては、軍国主義の高揚感を共有しない、という点で第二次大戦当時の日本との隔絶を再確認する契機だった。

軍国主義の思想に戦後30年近く忠実だった日本人もいる。

小野田寛郎。終戦後も29年の長きに渡ってフィリピンにてゲリラ戦を継続していた軍人、と聞けば多くの人は、「ああ」と納得されるだろう。戦後の約30年のあいだにも彼は、そのゲリラ行為によって30人以上のフィリピン警察軍、在比アメリカ軍の兵士を殺傷した。

彼が日本の状況をまったく知らず、戦争が続いているものと思っていたかといえばそうではない。当時の日本の情勢についても、手に入れたトランジスタラジオその他によってかなりの情報を得ていたようだ。捜索隊はおそらく現在の日本の情勢を知らずに小野田が戦闘を継続していると考え、あえて新聞や雑誌を残していったのだが、皇太子成婚の様子を伝える新聞のカラー写真や、東京オリンピックや東海道新幹線等の記事によって、小野田は日本が繁栄している事は知っていた。士官教育を受けた小野田はその日本はアメリカの傀儡政権であり、満州に亡命政権があると考えていた。

人間は自分の思考に合わせて現実のほうを捻じ曲げる。彼のことを「立派な軍人」だとか「軍人の鑑」だとか賞賛することは容易い。だがその一方で、自分の信じた思想を批判し、疑うことをしない危うさを指摘しないことは、片手落ちになってしまう。彼の頭の中に引かれた無意味な国境線が、必要ない死者を生みだしたことに違いはない。彼の生きていたのは実際の世界とは僅かに異なる別の世界線、パラレルな幻想文学の領域なのだ。

彼にとっての終戦は1974年3月9日。そう、この文章はその日に合わせて書くつもりだったのさ。

Au revoir et à bientôt !
 
 参照URL:Wikipedia 小野田寛郎
 

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