2013年8月29日木曜日

ブロッコリーの森

月面世界の住人、発見される!

そのニュースが New York Sun 紙の紙面を飾ったのは、1835年8月25日のこと。気鋭の天文学者、イギリスの John Herschel 卿の発表によると、アフリカの喜望峰に据え付けられた最新鋭の天体望遠鏡によって、これまで謎に包まれていた月面世界の一面を覗き見ることができたという。

月面には巨大な樹木が生い茂っており、これまた巨大な建造物があって、エメラルドの壁、黄金の屋根で飾られている。住んでいるのは身長が120cmばかりの小男だが、彼らには翼がある。

想像してみてほしい、コウモリ男という表現が一番しっくりくるその体躯が、縦横に飛び回る月面世界を。そんなの、今なら乳幼児だって信じねぇな。

当時の読者がどんな顔をしてこの記事を読んでいたかは判りかねるが、おそらくは半信半疑、いや面白い読み物程度に受け止めていただろう。だって、これを読んだポーが盗作だ!って、自分の児童向け小説と較べて騒ぐくらいだから。これが一般的な反応だtったのだろう。スポーツ新聞の飛ばし記事のようなものだ。

昔からマスコミの報道には信じる・信じないの自己申告ラインが存在してきた。1938年、H・G・ウェルズのSFを元に製作されたラジオドラマを聴いて、本当に宇宙人が地球に攻めてきたとパニックになった人も、マスコミの捏造した流行りにのせられる現代人も、大きくは変わらない。

だからって自分は大丈夫、なんていえないところに怖さがあって、メディアリテラシーて言ったって、世の中わからないことだらけだし、調べる対象だってメディアのひとつだし、結局信じる、信じないの個人的な問題なんでしょ?ってことになる。

この記事が出た当時、世界は外に向かって広がっていた。文明は次々と新しいものを発明し、前人未到の地には何人もの冒険かが分け入った。

今でも宇宙はフロンティアのひとつだ。でも、もう夢はない。

昔空を見上げてみた夢を、今はもう見ない。見上げる瞳に映るのはただ、澄み渡った青だけだ。


Au revoir et a bientot !

参照URL: 



2013年8月24日土曜日

映画 『31年目の夫婦げんか』――1時間40分の超大作缶コーヒーCM

31年も連れ添ってきたんだ、夫婦間に問題があるはずがないだろう?
――そうだな、そう思うしかないよな。

結婚して31年目を迎え、変わり映えのしない毎日を送っていた妻のケイは、もう一度人生に輝きを取り戻そうと、夫のアーノルドを無理やり連れ出し、1週間の滞在型カウンセリングにやってくる。カウンセラーから予想もしなかったさまざまな“宿題”を課されて驚くケイは、次第にため込んでいた感情を吐き出していき、口の重たいアーノルドも本心を打ち明け始めるが……。(『31年目の夫婦げんか』映画案内より引用)

夫婦間の溝に悩む妻と、それに気づかない夫。ありがちな設定を主演のメリル・ストリープトミー・リー・ジョーンズが見事に演じる。陳腐だけどそれだけに、あぁこんな夫婦絶対いるよな、って妙な説得力がある。

夫婦間の溝に沿って問題を語ろう。
男だってもちろん、その存在に気づいている。目をそらしているだけだ。彼はふとそちらのほうを向いて、長年に渡って穿たれた溝の深さを前に唖然とし、自問する。いったいこいつはいつの間にできたんだ、と。そして、そこから目をそらす。

女は違う。その溝に臆面なく立ち向かおうとする。その巨大な間隙を、なんらかのもので埋めようと、飛び越えて距離をなくそうとする。虚無には耐えられない。だが、そうするのは男の役目だ。だってわたし、女の子だもん。

ずるい大人の男と女。両者が溝を隔てて向かい合う。女は声をかけて男を呼ぶが、男にその声は聞こえない。聞こうとしない。女の戯言より、ゴルフのトップフォームを確立することのほうが大切だ。

で、その溝って結局なによ?PVでは失われた夫婦の絆を取り戻す、なんてキレイごとを並べるけれど、それはつまるところ肉体関係の欠如、セックスレスに行き着くのだ。なんて浅い溝!って笑えるうちはまだ夫婦仲のいい証拠だろう。たぶん、当事者たちにとって、かなり、切実だ。

これはセックスレスの中年夫婦が、いかにして再びセックスを始めるかの物語だ。こんな風にまとめるとつまらなさそうに思えるかもしれないが、私は1時間40分、退屈しないで見れた。大筋を追いかけるよりも、時折飛び出してくる細部の欲求不満のエネルギーの表出が好きだ。

カウンセラーに質問されて、自分の性的妄想(オフィスで机の下にもぐりこんで、フェラチオをしてほしい!)を話す主人公や、港近くのカフェで「この中で最近セックスをしてない人?」と聞かれ、沈黙した挙句、指摘されておずおずと手を挙げる脇役が私は好きだ。

それに対して、正直妻の欲求不満は物足りない。オナニーは最近してないし、性的妄想はこれまで考えたこともない。性的にかなりおくてで、これまでオーラルセックスをみたこともきいたことも、もちろんやったこともない。これで若さもなく、、スタイルのよさもなく、魅力もない。同情するぜ、旦那。あんたの欲望は一生宙吊りのままみたいだな。

映画では夫妻が抱えてきた問題を1時間半かけて掘り起こし、10分で解決する。もちろんハッピーエンドが宿命付けられている。すごいな、どうやったんだ?と聞かれても観客の誰も答えられない。駄作だって?そうかもしれない。

じゃあ、こんな案はどうだろう。

結局二人の仲はもとに戻らない。夫婦は離婚する。ハッピーエンドにしたいなら、円満離婚もいいだろう。ある日、元夫がビーチを散策していたとき、元妻がもう一度ビーチで結婚式を挙げたい、と語っていたのを思い出し、感傷に浸る。素晴らしい文句をそのまま使えば、

「この星では、別れなければ出会えない」 缶コーヒーのBOSS、レインボーマウンテン

このろくてでもない、すばらしき世界。

Au revoir et a bientot !


2013年8月22日木曜日

文学の食わず嫌い

大事なのは訳者の名声ではなく、翻訳の質だ。

村上春樹訳というだけで避けてきたレイモンド・カーヴァー選集を、食わず嫌いはよくないと思い、初期短編集から読み始めた。新書サイズで主な作品は大体揃っていて、値段も1000円ほどと手ごろ。今日びこれだけ恵まれた読書環境にある海外作家は他にあるまい。これも訳者の名声がなせる技!

肝心の内容は乏しい。中流階級の没落や労働者階級の悲哀を描いた作品が多いが、どれもいまいちピンとこない。切実さがないのだ。というか、現代日本に生きる私が共有できる感覚でない、といおうか。

食わず嫌いにはそれなりの理由があるのだ。同様に作者と読者の相性というものもある。私にとって作家村上春樹は、高校時代に夢中になって読んだときの輝きをもはや放つことはない。と同時に、翻訳者村上春樹は下手くその烙印を押されてしまった。

『頼むから静かにしてくれ』2冊ともう一冊短編集を購入したが、どうにもしようがない。学生が英文和訳したような直訳文体が多すぎる。そういう技法だ、といわれてしまえばそれまでだが、全く魅力がない。なんでもかんでもカタカナでごまかすのはいかがなものか。チャンドラーの傑作『長いお別れ』をそのまま『ロング グッバイ』と訳したときから気づいてはいた。実際に読んでみると物悲しい気持ちになる。これを読むと作家として必要な資質と、翻訳者のそれとは全く別物だ、ということに気づかされる。

読者と作者の相性は重要だ。世界中の本を読むだけの時間がわれわれには与えられていないのだ。

人生は有限で、読書に割くことのできる時間は限られている。どうして自分にとって有用でない本に時を割くことができるだろう?人生は短く、本は永遠だ。

人は自分が世界の中心だと思う。それは正しい。ただしその法則はすべての人に例外なく適用される。本の中の登場人物であっても同様だ。彼らにとって読者は、ある世紀、ある時代に背中にふと感じた、幾百もの視線のひとつに過ぎない。

人の一生は久遠の時の流れる本の中に刻まれた、束の間の出会いだ。どうせひと時の思い出なら、美しいほうがいいだろう?食わず嫌いをするには、これだけで十分だ。。

Au revoir et a bientot !

2013年8月18日日曜日

プロ野球とファン心理

また今日もプロ野球?――まぁ、そう言うなよ。明日からちゃんとやるさ。

6月末に初めて京セラドームに野球観戦に行って以来、すっかりオリックス・バファローズのファンだ。

なぜオリックスかって?近いからさ。

地理的な距離だけでない。神戸に越してきて2年、四国の田舎町に生まれた私にとって、ホームタウンのチームってのは憧れの対象だ。

兵庫には阪神タイガースがあるやん、って違うんですよ。確かに京セラドームに行くより甲子園のほうが近い。でもあれは、神戸のチームじゃない。たとえ地元神戸っこのほとんどが、オリックスブルーウェーブが神戸にあった当時から阪神ファンだという事実を前にしても、私の確信は揺らがない。チームカラーといい、球団を取り巻く環境といい、オリックスが神戸のホームチームなのだ。近鉄バファローズと合併して、大阪がホームタウンだと球団自身が明言していても。

それにしても人はなぜ、プロ野球ファンになるのだろう。アイドル、サッカー選手、もしかすると作家・・・。ある特定の個人のファンになるというのとは、なにか別のものがあるのではないか。

あるチームを応援するとき、人は見返りを求める。チームの勝利を求める。オリックスファンになって以降、さまざまなブログを読んできた。いろんな人が監督の戦術や選手起用を批判する。だが、無意味だ。どれだけ考えても、妙案があっても、それが採用されることはない。球団はファンはチームの一員だというけれど、君の提案は聞こえない。それってむなしくないかい?

そんな感情を超越したところに、ファン心理は存在するのだろうか。あるいはなんともならないこのもどかしさを愉しんでいるのがファンと呼べる存在なのか。オリックス・バファローズの応援を始めて僅か二ヶ月の私には到底知る由もない。

おそらくファン心理とは、必然と偶然、確率と直感が入り混じる混沌とした野球場の中でも、もっとも理解しがたい要素のひとつだろう。

ファン心理は混沌とした数多の素材から成る、スタジアムの外壁である。

Au revoir et a bientot !
次から文学の話。パリのカフェ2009年撮影

2013年8月13日火曜日

VOD とテレビの未来

今日から二回続けてプロ野球の話。

今月から「パリーグTV」なるサイトに有料登録して、毎日のように野球を見ている。

月額1500円(ファンクラブに加入していれば980円 / 月)で、パリーグ主催の試合を全部、ライブで見ることができる。それもテレビじゃなく、パソコン、スマホで。値段面でも「テレビではなくパソコンで
という部分でも、まさにどんぴしゃなサービスだ(我が家には10年来テレビがない)。

このサービスを利用して実感したのは、運営側が利用者がなにを望んでいるか、をきちんと把握してるな、一番大事な部分がわかってるな、と感じた。2013年に行われた試合すべてが、ハイライトやヒーローインタビューだけでなく、試合の最初から最後まで見ることができるってのは、野球ファンにとって最高だろう。贔屓チームかどうかを気にしなければ、一日中野球を見て過ごすことも可能だ。試合結果がわかっている分、ドキドキは半減するが、ライブで見れないことも多い不規則労働者のこともよく考えられている。

その流れで先日、「光TV」とやらも試してみようと思い立った。が、これが全くよろしくない。
まず料金プランが分かりにくい。どのプランでどの番組が見れるのか、ぱっと見でわからないし、そもそもパソコンで全部見れるのかすら、はっきりとしない。なるほど、調べればわかるんだろうさ。でもね、新規顧客ってのは正直そこまでしてみたいと思ってないんだぜ。
という
地上波がクソ番組ばかり垂れ流している現在、有料会員になって、自分の見たいものだけを見る、そんな視聴者が増えているのは間違いない。初めはとても浸透しそうになかったスカパーの定着率を見るにつけ思う。当然企業もしのぎを削る。すでにそこはブルーオーシャンではない。導入までの簡易さと、テーマの明瞭さが新規顧客の獲得のためには必要不可欠だ。

パリーグTVはその二つを兼ね備えている。メールアドレスとパスワード、それにクレジットカード番号だけで登録できる簡便さ、パリーグ主催試合すべて放送(他の試合はチラリとも見えない)という明快さ。

当然欠点もある。セリーグの試合が全く見れないってのは、相当致命的だ。正直セリーグファンにとって、パリーグTVに加入するメリットはゼロだ。プロ野球の黄金時代が終わりを告げた現在に、いくらかファンの数は増えているとはいえ巨人、阪神のいるセリーグに較べれば未だ人気の低いパリーグに限定する勇気、というか蛮勇。文学における「海外文学」ジャンルなみのニッチ市場だぜ。

時代がニッチを求めているのは確かで、それも随分昔から求めていた。経済の分野ではニッチ市場がとやかく言われて久しいはずだが、ようやく大衆のニーズや経済理論に合わせた企業が雨後のタケノコのように生まれて来ているのかもしれない。

これは良い兆候だろうか。少なくとも、フランス語×海外文学×福祉×オリックスバファローズ なんてブログを書いている私のような隙間人間にとっては朗報だろう。大事なのは選択と集中だよ、諸君。

Au revoir et à bientôt !
パリーグTVのまわしものではないので。悪しからず

2013年8月9日金曜日

近況報告――2013年8月

今年はけっこうマジで忙しい。

5月から6月にかけて計8日間、ユニットリーダー研修があったし、明日明後日は夏祭り、その責任者が私だ。10月にはケアマネの試験がある。

この試験、難しくて手に負えない、とは言わない。先月に一度過去問5年分を解いてみたが、これから勉強しても十分に間に合う範囲だ。懸念すべきは、受からないとやばいという社内の空気と、問題数が少なく、4,5問わからない即不合格となりかねない点だ。選択式で、その全部があっていないと得点にならないのもつらい。
要は正確な知識が必要とされる。なんとなく消去法、ではしのげない、なかなかにシビアな試験だ。

11月には仏検準一級の一次試験がある。さすがに今年受からないとやばい。って、去年も言ってたじゃねーかなんて突っ込みはなしだ。

正直、今年はいけるやろ、って安直に考えている。つーか、受からなホンマにあかんでぇ。すでにフランス語に400h以上注力している今年、これでダメなら本当に、語学学習業界から引退だ。まぁ、それもしゃあないか。だって4度目だもの。今年31だもの。


そうなったら、そのときには熱狂的な野球ファンになってやろうか。年間4,50 試合は現地に行って、ビール片手に観戦するのもいいじゃない。自分ではどうにもならないチーム状況に一喜一憂して、幸福や不幸を贔屓チームの運命と重ね合わせる。なんて、ガラじゃないか。

自分の性格上、そんなことにはならないだろう。たとえ今月、パ・リーグTVに有料登録して、日々オリックス・バファローズの試合をネット観戦してるとしても、それとこれとは話が別だ。これまでの人生、机に向かってなんやかんや続けてきた。そうしないと落ち着かないし、罪悪感のようなものさえあった。「あぁ、今日もなにもせずに一日が終わったな」って、なにを理由にそんな自分を正当化すればいいんだい?

このクソ忙しい7月末から8月にかけても、暇を見つけては小説を書いていた。そんな必要ないだろう?せやな、まったくその通りだ。他人からみればおそろしく無駄な時間。でもそれが、自分で選んだ生き方なんだろう。

有意義なものより無意味なものに愛着を。たぶんこれからもそんな風に生きていくだろう。
―― 『肉詰工場』、今月末より当ブログで連載開始だ。

Au revoir et à bientôt !
バファローベルと駿太ユニのおじさんのハイタッチ
 


2013年8月2日金曜日

『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』

優れた本はリトマス試験紙だ。読むことでその時々に考えていることを、自分で言葉にするよりも上手く表現された箇所を見出す。だから繰り返し読む必要がある。優れた本は多層・可変構造をした建造物であり、訪れるたび、新たな表情を見せてくれる。ほら、今日も違った地層が見えるだろう?

タブッキが亡くなり、私なりの追悼文を書いて一年が過ぎた(用意されていたかのような追悼文)。その間に一人の友人がタブッキの文学世界に引き寄せられ、その影響で私も再度、といわず4,5度目のタブッキ諸島をめぐる旅に出る。

タブッキの小説を島々に例えるのは、『ポルト・ピムの女』によるところが大きい。もっとも、須賀敦子の翻訳した『島とクジラと女をめぐる断片』を私は読んでいない。となると、あれだ。

『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』。このタイトルは一見、タブッキなりの小説作法のようにも見える。キングによるそれを読んだばかりであるだけになおさらだ。

それを裏付けるような文章もある。タブッキ自身によるジョゼフ・コンラッドからの引用、「まず作品ができる。それから初めて、その理論を考え出す。それは退屈しのぎの独りよがりな仕儀にすぎず、おそらく役には立たないうえに、謬った結論へと導きかねないものだ」とはまるで、キングがストーリーとテーマについて語った言葉を繰り返しているようだ(リトマス試験紙としての役割!)。そんな風に読み進めてみてもいい。

あるいは「他人まかせの」と言いながらも自伝として読むこともできる。もっともそれにしては、相当に断片的なものだが。

どちらの読み方をするにせよ、あるいはまた別の読み方にせよ、ある地点から読者は奇妙な感覚に襲われることになる。その感覚の根元にあるのは、「どこからが現実で、どこからが虚構なのか」境界線の定まらない不安だ。これまで自分の立っていた場所が、足元から崩れていく恐怖。自分が現実と見定めて読み進めていた開始地点からしてすでに、虚構だったと知ること。

この「境界線を明確にしたい」人間の願望を、タブッキは逆手に取るように、こう語る。

人生は、ものごとのおおもととなる流出だ。しかし、ここからここまでが人生であると、測量するように確定することはできない。つまりは、川だが、岸がないのだ。(p.86)

タブッキの小説を島々に例えるのは適当か?たとえそうでないとしても、この比喩を推し進めるならば、この本はそれらを巡る遊覧船に例えられるだろう。そしてある島で下船して、船のほうを振り返ってみると、島の形に見える。島なのか船なのか?その境界はいつも曖昧である。

Au revoir et à bientôt !

2013年8月1日木曜日

たくさん読み、たくさん書く

小説作法についての本ほど読んで空しいものはない。

古今東西小説に関する様々な本が出版されてきた。そして最後にはいつも、「才能とはなにか」なる問いに行きつくのが常だ。なぜだろう?

答えは簡単だ。それらの本を書くのが小説家として成功した人々だからであり、彼らは当然、「自分には天賦の才がある」と思いたがる。

それに対し、本書の著者であり、世界的に著名なホラー作家、スティーヴン・キングは言う。3流が2流になること、1流が超1流になるには努力だけではどうにもならない。しかし、2流のもの書き(多くの一般的な書き手)が、自己研鑽を重ねて1流になることは可能だ、と。

『書くことについて』と題されたこの本で、キングはその方法論を惜しみなく開示している。多くはキングの経験に基づいた、転用の不可能性が疑われるものだけれど、それは仕方のないことだ。自分の価値観を築くこと、つまり自分のやり方に自信を持つためには、キングの言うように、たくさん読み、たくさん書く  しかないのだから。

最初の一章「履歴書」では、自身の生い立ちや作家を目指したいきさつを語り、次の「道具箱」では、小説を書くために必要な道具、語彙(大きさじゃなくて、どう使うか)、文法(副詞はタンポポだ、放っておくとすぐにいっぱいになってしまう)、文法作法について語る。面白いのは次の「書くことについて」と題された一章で、ここでキングは、「なにを、どうやって書くか」を赤裸々に語っている。

「なにを書くか」について、答えは明快だ。自分の書きたいことを書く。それだけだ。

一方、「どのように書くか」。その手法部分がとりわけ面白い。最初に「状況設定」を考える(もし吸血鬼がニューイングランドの小さな町にやってきたら?)。プロットは(ほとんど)存在しない。大事なのはストーリーだ。ストーリーは自然にできていく(作者はそれを、地中に埋もれた化石を掘り起こす作業に例える)。ストーリーとプロットはまったく別物だ。ストーリーは由緒正しく、信頼に値する。プロットはいかがわしい。自宅に監禁しておくのが一番だ。背景描写や会話や人物造形は、大事だけれど些細なことだ。そしてテーマ。それは最初から考えるものじゃない。後見直してみて、作中に自然に浮かび上がって来るものだ。

この本でもうひとつ面白いのが補遺その一、「閉じたドア、開いたドア」だ。そこでは具体的に、なにがよくてなにが悪いか、文章を添削して説明している。

小説家志望の若者がこの本からなにを得られるか?たくさん読み、たくさん書くという当たり前のことと、小説の方法論は自分で学びとるしかないことの再確認。実践的に使えるのはこれくらいだろう。

もうひとつ、この本には優れた効能がある。読み終えると否応なしに小説を書きたくなることだ。読者にそう感じさせる以上、これは実に優れた小説作法本である。

Au revoir et à bientôt !
 
参照:『書くことについて』 / スティーヴン・キング 著 小学館文庫