タブッキが亡くなり、私なりの追悼文を書いて一年が過ぎた(用意されていたかのような追悼文)。その間に一人の友人がタブッキの文学世界に引き寄せられ、その影響で私も再度、といわず4,5度目のタブッキ諸島をめぐる旅に出る。
タブッキの小説を島々に例えるのは、『ポルト・ピムの女』によるところが大きい。もっとも、須賀敦子の翻訳した『島とクジラと女をめぐる断片』を私は読んでいない。となると、あれだ。
『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』。このタイトルは一見、タブッキなりの小説作法のようにも見える。キングによるそれを読んだばかりであるだけになおさらだ。
それを裏付けるような文章もある。タブッキ自身によるジョゼフ・コンラッドからの引用、「まず作品ができる。それから初めて、その理論を考え出す。それは退屈しのぎの独りよがりな仕儀にすぎず、おそらく役には立たないうえに、謬った結論へと導きかねないものだ」とはまるで、キングがストーリーとテーマについて語った言葉を繰り返しているようだ(リトマス試験紙としての役割!)。そんな風に読み進めてみてもいい。
あるいは「他人まかせの」と言いながらも自伝として読むこともできる。もっともそれにしては、相当に断片的なものだが。
どちらの読み方をするにせよ、あるいはまた別の読み方にせよ、ある地点から読者は奇妙な感覚に襲われることになる。その感覚の根元にあるのは、「どこからが現実で、どこからが虚構なのか」境界線の定まらない不安だ。これまで自分の立っていた場所が、足元から崩れていく恐怖。自分が現実と見定めて読み進めていた開始地点からしてすでに、虚構だったと知ること。
この「境界線を明確にしたい」人間の願望を、タブッキは逆手に取るように、こう語る。
人生は、ものごとのおおもととなる流出だ。しかし、ここからここまでが人生であると、測量するように確定することはできない。つまりは、川だが、岸がないのだ。(p.86)
タブッキの小説を島々に例えるのは適当か?たとえそうでないとしても、この比喩を推し進めるならば、この本はそれらを巡る遊覧船に例えられるだろう。そしてある島で下船して、船のほうを振り返ってみると、島の形に見える。島なのか船なのか?その境界はいつも曖昧である。
Au revoir et à bientôt !
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