2013年8月22日木曜日

文学の食わず嫌い

大事なのは訳者の名声ではなく、翻訳の質だ。

村上春樹訳というだけで避けてきたレイモンド・カーヴァー選集を、食わず嫌いはよくないと思い、初期短編集から読み始めた。新書サイズで主な作品は大体揃っていて、値段も1000円ほどと手ごろ。今日びこれだけ恵まれた読書環境にある海外作家は他にあるまい。これも訳者の名声がなせる技!

肝心の内容は乏しい。中流階級の没落や労働者階級の悲哀を描いた作品が多いが、どれもいまいちピンとこない。切実さがないのだ。というか、現代日本に生きる私が共有できる感覚でない、といおうか。

食わず嫌いにはそれなりの理由があるのだ。同様に作者と読者の相性というものもある。私にとって作家村上春樹は、高校時代に夢中になって読んだときの輝きをもはや放つことはない。と同時に、翻訳者村上春樹は下手くその烙印を押されてしまった。

『頼むから静かにしてくれ』2冊ともう一冊短編集を購入したが、どうにもしようがない。学生が英文和訳したような直訳文体が多すぎる。そういう技法だ、といわれてしまえばそれまでだが、全く魅力がない。なんでもかんでもカタカナでごまかすのはいかがなものか。チャンドラーの傑作『長いお別れ』をそのまま『ロング グッバイ』と訳したときから気づいてはいた。実際に読んでみると物悲しい気持ちになる。これを読むと作家として必要な資質と、翻訳者のそれとは全く別物だ、ということに気づかされる。

読者と作者の相性は重要だ。世界中の本を読むだけの時間がわれわれには与えられていないのだ。

人生は有限で、読書に割くことのできる時間は限られている。どうして自分にとって有用でない本に時を割くことができるだろう?人生は短く、本は永遠だ。

人は自分が世界の中心だと思う。それは正しい。ただしその法則はすべての人に例外なく適用される。本の中の登場人物であっても同様だ。彼らにとって読者は、ある世紀、ある時代に背中にふと感じた、幾百もの視線のひとつに過ぎない。

人の一生は久遠の時の流れる本の中に刻まれた、束の間の出会いだ。どうせひと時の思い出なら、美しいほうがいいだろう?食わず嫌いをするには、これだけで十分だ。。

Au revoir et a bientot !

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