2011年7月28日木曜日

気がつけばもう、一か月もブログを書いている

おはようございます。

タイトルの通りです。三日坊主に終わらなくてなによりです。

一か月ということで、近況報告と今後の予定(ブログの)を。

内容の薄さをノートルダム寺院の
威容でごまかしてみる。
現在、
・新しい職場に慣れてはきたが、別の職場も探し中。

・仏検準1級、今年はいけるかも?いや、いけるはず!頑張ります。

・引っ越しもしたんですが、新居には随分慣れてきました。

といった状況です。ブログの今後の予定は、直近では、

・異言語作者の系譜

・堀江敏幸さんの見た風景――アルクイユの水道橋

・記憶について

ぐらいまで考えています。

全体としては、これまで通りフランスと文学(読書)の話を主にして、ここに比較文化だったり、スポーツの話だったりを少し挟んでいけたら、といった感じです。

今後もこのブログに立ち寄っていただけたら幸いです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois! 

2011年7月25日月曜日

『悪童日記』について

おはようございます。

ようやくアゴタ・クリストフについての話題です。

と、その前に訂正を。

彼女はフランス在住ではなく、スイスのフランス語圏在住の作家でした。すみません。

この通り、アゴタ・クリストフに関しては、ざっと語っても間違った知識ばかりしか出てきません。なにしろ日本語訳で彼女の本を読んだことがないものですから・・・。

じゃあフランス語で読んだんか、と言われると、代表作である『悪童日記』からはじまる三部作はなんとか読みました。簡単なフランス語を使っているのが特徴なので、初心者にも読みやすいと思います。

『悪童日記(原題:Le grand cahier )』の一番の特長はなんといっても一人称複数形‘Nous’ を用いて書いていること、またその効果を最大限に生かしていることでしょう。

双子の少年が戦時下の小さな町で起こる出来事を、「ただ真実だけを書く」という規律を持って書いていく。そこには子供らしい残酷さとエロティシズムが溢れています。

ただ、この‘Nous’ という語、やはり日本語に訳すといまいちしっくりとこない。この小説の訳者は「僕ら」としていますが、どうしても「我々」という概念は世代論や日本人論などとの結びつきの強さを感じてしまい、使いにくい語だと感じてしまいます。

それにしても、この作品のラストは見事としかいいようがない。物語の結末としても素晴らしいし、この‘Nous’ という語の単一性を活かす、という点でも成功していると思います。ぜひ一読あれ(できればフランス語で)。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
Lyon で宿泊したホテルのカギ。でっていう。

2011年7月23日土曜日

道は空間に捧げられた讃辞である

おはようございます。

Le Tour de France 2011 が終わりを迎えようとしています。

なんといっても今年は、コンタドールの敗北が印象的でした(一応まだわかりませんが)。

このところスペイン勢がスポーツ界を席巻していた感がありますが、この敗北が一時代の終わりを告げるものとなるのでしょうか?――これについてはまた別の機会を設けようと思っています。

さて、表題のお話です。

「空間(と時間)」というと如何にも哲学的な話題になりますが、ここではもっと簡単に。

「もっと速く!」と速度を追求した結果、何を得て何を失うのか?――たとえば、歩けば2時間かかるところを車で行けば10分で着く。そのとき時間は短縮されているが、と同時に空間も縮小している、と考えられるでしょう。

対象まで到達する時間が短くなれば距離もまた短くなる、という感覚は、多くの人が感じているのではないでしょうか。

この考えを推し進めて、ある人がA点からB点に移動するのにタイムラグが(ほとんど)ない、という状態を考えてみます。

それは、「(B点へ)行きたいと思ったときにはすでに到着している」状態であり、つまるところそれはミクロコスモスとマクロコスモスとが皮膚一枚のみを隔てて、同じ状態にある、といいうことではないでしょうか。このとき「私」はどこに存在するのでしょう。

最後に、表題に上げたクンデラの非常に美しい道への賛歌を。

道。ひとが歩く帯状の土地。高速道路が道と区別されるのは、車で走りまわるからだけではなく、それはある点と他の点を結びつける単なる線にすぎないというところにある。高速道路はそれ自体ではいかなる意味もない。それによって結びつけられる二つの点だけが、意味をもつにすぎない。一方、道は空間に捧げられた讃辞である。道をどこで区切っても、それぞれにおいて意味が備えられていて、われわれを停止へと誘う。高速道路とは、空間の価値を貶める勝ち誇った低落作用であり、空間はこうして今日ではもはや人間の動きに対する障害、時間の損失以外のなにものでもなくなってしまっている。『不滅』(p.376-377 集英社文庫)

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ほんとは自転車の写真が欲しかったんだけど、見つからなかった・・・

2011年7月22日金曜日

食卓の個人主義

おはようございます。

前回、異言語同士ではなかなか正確な変換は難しい、ということを少し話しました。
今回はその身近な例、「いただきます」と「Bon appétit! 」について話したいと思います。

この二つの言葉、いずれも食事の前に言うのですが、意味はまったく正反対だといえます。

日本語の「いただきます」は言わずもがな、食事を提供された側、食べる人の言葉です。
一方に「Bon appétit! 」に関しては、食事を提供する側、作った人が発する言葉であり、日本語に訳すならば、「召し上がれ」が適当でしょうか。

この違いは文化(大きく言えば仏教文化とキリスト教文化)の差なのだということができるでしょうか?

「いただきます」には料理を作ってくれた人のみならず、農作物を作った人、更にはそれを運んでくれた人、果ては食肉となった生き物までを感謝の対象に含め、「いただいて」いるのだ、ということを子供のころに教えられました。要はそのどの要素が欠けていても、あなたは今目の前にあるものを食べることができなかったのだ、ということです。

対して「Bon appétit! 」にはどうしても、料理を作った人と食べる人との間でのみ成立する、つまり個人と個人の間に終始した言葉のような気がします。

もちろん、他の言葉や習慣がこの感謝の情を表していると考えられなくもありません。食前の祈りなどがおそらくそうなのでしょう。しかしその感謝もまた、人の形をした(あるいはそれに近い)「神」へと向けられたものであって、個人間の関係を越えたものではないのではないでしょうか。

ヨーロッパの子供はほんとかわいいよねぇ。
もっとも、これらはすべて、仏教圏で育った人間の私見にすぎず、キリスト教圏で育った人から見たらまた違ったものになるでしょう。そういった人の意見をぜひ聞いてみたいものです。

あまりに簡単に個人主義の問題にまとめてしまった印象がありますが、今回はこのあたりで。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2011年7月21日木曜日

美的排斥――言葉について(4)

おはようございます。

ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフ、二人に共通しているのはソ連圏から亡命して、フランスに住み、フランス語でものを書いている、ということです。
が、今回もアゴタ・クリストフにはたどり着けそうにありません。ご容赦を。

自分の母語ではない言葉で書くということ、それによって母語では成し得なかった成果を得る作家もいます(アゴタ・クリストフの『Le grand cahier / 悪童日記』はまさにその典型でしょう)。

しかしそれは例外中の例外でしょう。

自分の母語ではない言葉で書くことの違和感やもどかしさは、程度の差こそあれ、中学校から英語を学んでいる我々日本人の誰もが経験したことがあるはずです。

たとえば、「しかたない」という日本語。なんとなくそれに当たる語はあるものの(フランス語ではTant pis! がちょっと近いですかね?)、ぴったりと重なる、という表現が見当たらない・・・。

これとは別に、言われて屈辱的な言葉、また、こういう態度は軽蔑に値する、という態度を表す言葉も国によって違う、とクンデラは言います。

『私にとってキッチュの概念がそうであるような、最大限の美的排斥を表現する言葉はなんだろうか』(カーテン p.65 集英社)

そう自問するクンデラはチェコの出身、そしてフランス人にとってのそれは「卑俗」という言葉であると答えます(ちなみに別の著書で、ロシア人にとってのそれは「卑劣漢」である、と言っていたと思います。これはドストエフスキーを読んだことのある人なら頷けるのではないでしょうか)。

日本人にとって最大限の美的排斥を表現する言葉はなんでしょうか。そんなことを考えるのも面白いと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
うん、全然関係ないよね。でも素敵。

2011年7月18日月曜日

Android はGoogle の夢を見るか?――言葉について(3)

おはようございます。

普段は日本語を喋り、日本人と見間違うような人が、寝言を中国語で喋っていました。

こういう話を聞くと、人間にとって母語の存在の大きさを感じます。

思考は言語によって規定されている、という考えは自分を省みてもおそらくは正しいでしょうが、となると使用する言語の特徴によって、思考の偏りが現れる、ということです。

一つの言語を使う民族がある程度似たような特徴を持つ、という考え方もこれで一応は説明できそうです(たとえば、ドイツ人は勤勉、日本人は努力家、イギリス人は料理が下手など――いや、最後のは違うか)。
これについては面白い話をミラン・クンデラがしているので、また次回に。

逆にいえば、意識して語彙を増やしたり、新しい語を使おうとすることは、そのまま思考の新しい領域を広げることにつながりそうです。

新しい言語を学ぶということは、アクセスできる情報や知識が飛躍的に増えるという外部への拡大のみならず、自分の内側に新しい国を作るような、そんな働きもあるのかもしれません。

さて、一番最初の寝言の話に戻って。
フランスやアメリカのように、多くの移民を受け入れている国の夜は、さぞかしいろいろな言語が飛び交っていることでしょう。

それを視覚化すると、映画『ブレードランナー』のようになるのかも知れませんね。


と、無理やりタイトルと絡めてまとめてみました。
え、全然まとまってない?

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
写真と文章の関連性?そうなにもかも上手くいくとは限らないのですよ。


2011年7月16日土曜日

昼と夜の境目

おはようございます。

毎日暑い日が続いています。

夏の夕暮れはなんとなくもの寂しい気持ちにさせられます。8月は特にその色が強いです。
それは、夏休みがあった子供のころの名残でしょうか?それとも日一日と日没が早まっているのを身体で感じているからでしょうか?

フランスは日本より緯度が高いため、夏は日が暮れるのが遅いです。

私が今回行った6月だったら、本当に暗くなるのは22時前後でしょうか、ホテルに帰るまで大概は明るいままでした。

なのに、どこを境にしてなのか、挨拶の言葉が自然と Bonjour! から Bonsoir! に変わっているのです。

いったいフランス人は何を基準にしているのでしょう。時間?明るさ?それとも気分?

一介の旅行者に過ぎない私には謎のまま、最後まで Bonjour! と Bonsoir! が食い違うのでした。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
ホテルにて。これで20時過ぎなんです。

2011年7月15日金曜日

軽やかさ

おはようございます。

前回に引き続き、軽さについてのお話です。

20世紀イタリアを代表する作家、イタロ・カルヴィーノもまた「軽さ」の魅力に取りつかれた一人でした。『カルヴィーノの文学講義――新たな千年紀のための六つのメモ』において、今後千年の文学に必要なもののひとつに軽さをあげていますUちなみに他の五つは「速さ」、「正確さ」、「視覚性」、「多様性」、そして書かれてはいませんが「一貫性」)。

20世紀(もしかすると21世紀も)は軽さの復権が試みられ、半ば以上成功した時代だと言えるでしょうか?

私自身、自分が重いものに立脚・寄りかかっているのを知りつつ、軽やかさに憧れている一人です。

壁の落書き。これもまた一種重さへの挑戦?
では、軽さ、軽やかさとはなにか?――それは変化を恐れない心、あるいは自由とも言いかえられるでしょうか。

つまるところ、軽やかさは若さと密接に結びついているのです。

逆にいえばそれは、軽率さや軽はずみといった悪癖を生むものでもあります。

死のメタファーである土や石を逃れて、空や水へと逃れようとする人間の試み(=重さからの逃走)、それは時間という不可逆的な流れの中を遡行しようとする無謀な所業なのです。

重さへの挑戦=軽さへの憧憬、それこそイカロスが空を飛んだ時代から繰り返される人間の愚かさであり、また人間のもっとも人間らしいところなのではないでしょうか。

「もっと軽く、もっと速く!」

携帯電話などの道具の発展を見ていると、カルヴィーノの予言はどうやら正しいようです。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

Montparnasse 墓地。結局誰も重さからは逃れられない。

2011年7月14日木曜日

軽さと重さ――言葉について(2)

おはようございます。

前々回にミラン・クンデラとアゴタ・クリストフについて書く、と言ったのに前回ではかすりもしませんでした。なので、今日はクンデラに関する話(雑談?)を。

傑作『存在の耐えられない軽さ』において、クンデラは「軽さ」と「重さ」の対比の妙について書いています。その部分を少し引用すると、

『・・・軽さと重さでは、どちらが肯定的なのであろうか?
 パルメニデースは答えた。軽さが肯定的で、重さが否定的だと。
 正しいかどうか? それが問題だ。確かなことはただ一つ、重さ――軽さという対立はあらゆる対立の中でもっともミステリアスで、もっとも多義的だということである。』
『存在の耐えられない軽さ』(集英社文庫 p.9-10)

ここからは私の意見。
人間は、その「存在の耐えられない軽さ」ゆえなのか、潜在的に重さを求める傾向があるように思われます。

言葉でも「言葉の重み」という表現からもわかるとおり、軽さは信用されません。

けれども、言葉や態度の軽さが人を助けるということもあるのだと思います。

深刻に捉えていた出来事を、自分の信頼できる友人が軽く笑って済ませてくれることで、心の荷が下りる、ということもあるでしょう。

更に言えば、言葉の軽重はそれを発する人の人となりで随分と変わるものだと思います。

仕事をまじめにしていない人から、仕事に対する姿勢や心構えを延々と語られても…という経験は多くの人が持つのではないでしょうか?

「言葉と行動」。この対比もまた、ありきたりですが面白いテーマだと思います。

Centre Pompidou にて。 軽やかさを感じる絵。
では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!

2011年7月12日火曜日

言葉について

おはようございます。

今朝、仕事前にフランス語の勉強をしていたら、

Je suis fier de vous.

という表現に出くわしました。意味としては、

あなたを誇りに思います。

ということ。

こんな言葉、言ってみたいし、言われてみたいものです。

では、また。

Au revoir, à la prochaine fois!

2011年7月8日金曜日

草はすべて毟りつくした。よし、ブログ書こう!


リヨンで入った古本屋さん。いい本がたくさんです

・・・なんて気分になったらいいのに。

おはようございます。

前回は相当ひどい文章だったので反省しています。

今月から職場環境が変わり、慣れるのに時間がかかっています。

といっても一週間、もうだいぶ慣れてきました。

人間っていうのは怖いもので、最初はあれだけ厭だ、とか、こんなんありえへん、とか思っていたことも、慣れてしまえば、まぁこんなものか、と思い、自分でも抵抗なくやれてしまうのです。

新しい職場は職員を徹底的に管理します。

たとえば、勤務時間中は職員同士の私語厳禁です。

まぁ、それ自体はそんな大したことではないのですが、それを取り巻く環境がひどい。話していた当の本人から告げ口・密告されるのではないか、という疑心暗鬼の感情が漂っているのがわかります。休憩室に盗聴器を仕掛けているのではないかと、本気で気にしています。

比較にならないことは承知で言わせてもらうと、旧ソ連圏の人たちはこのような環境下に置かれていたのだなと、少し実感しました。

今回はフランスとまったく関係のない話でした。ソ連が出てきたところで、次回は東側から西側に亡命してき、フランスで暮らす二人の作家、ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフについて話をしたいと思います。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!


2011年7月7日木曜日

フランス人の財布

おはようございます。久しぶりの更新です。

前回、有料公衆トイレの話をしたので、ちょっとお金の話を。

パリの物価は高い、というのが私の実感で、たとえば、自動販売機やキオスクで買えばペットボトル(500ml)一本が大体2€するし、外でランチをとろうと思えば、15€は最低必要になってくる。これは日本円に直すとそれぞれ、¥230、¥1725になる(1€=¥115換算)。けっこうなもんでしょ?

しかしながら、安いと感じるものもあって、その代表格が交通機関。

地下鉄は一枚の切符でパリ市内ならどこでも行けるし(ちなみにバスや路面電車も同じ切符が使える。リヨンもおんなじでした)、TGVなんかも、距離を考えると非常に安い(と思う)。

もうひとつはスーパー!

自販機やキオスクで500ml = 1.5€ だった飲料水が、1500ml = 0.30 €くらいで売っていたりする。


普段は高い水もこうやって買うと1€ は余裕で切る。まぁ、大きいほうがお得なのは日本も同じですが。

一度それを見てしまうと、自販機や売店で買ったり、カフェで飲み物を頼むのが非常に馬鹿らしくなる。

で、同じくらい馬鹿らしいのが有料トイレ。はい、はじめに戻ってきました。だって高級デパートなどのめちゃくちゃきれいなトイレなんかは0.50€ したりするわけですよ?入れるより出すほうがお金がかかるって・・・。釈然としないよねぇ?

たぶん大道芸人たちは、このモヤモヤした感じを振り払うために、また正々堂々と有料トイレを使うために、ああしてぶっ飛んだ格好や芸ををしては小銭を稼いでいるのでしょう。

そう、すべては泌尿器のためなのです。


この人もきっと、膀胱に問題を抱えているに違いない。
では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!