ミラン・クンデラとアゴタ・クリストフ、二人に共通しているのはソ連圏から亡命して、フランスに住み、フランス語でものを書いている、ということです。
が、今回もアゴタ・クリストフにはたどり着けそうにありません。ご容赦を。
自分の母語ではない言葉で書くということ、それによって母語では成し得なかった成果を得る作家もいます(アゴタ・クリストフの『Le grand cahier / 悪童日記』はまさにその典型でしょう)。
しかしそれは例外中の例外でしょう。
自分の母語ではない言葉で書くことの違和感やもどかしさは、程度の差こそあれ、中学校から英語を学んでいる我々日本人の誰もが経験したことがあるはずです。
たとえば、「しかたない」という日本語。なんとなくそれに当たる語はあるものの(フランス語ではTant pis! がちょっと近いですかね?)、ぴったりと重なる、という表現が見当たらない・・・。
これとは別に、言われて屈辱的な言葉、また、こういう態度は軽蔑に値する、という態度を表す言葉も国によって違う、とクンデラは言います。
『私にとってキッチュの概念がそうであるような、最大限の美的排斥を表現する言葉はなんだろうか』(カーテン p.65 集英社)
そう自問するクンデラはチェコの出身、そしてフランス人にとってのそれは「卑俗」という言葉であると答えます(ちなみに別の著書で、ロシア人にとってのそれは「卑劣漢」である、と言っていたと思います。これはドストエフスキーを読んだことのある人なら頷けるのではないでしょうか)。
日本人にとって最大限の美的排斥を表現する言葉はなんでしょうか。そんなことを考えるのも面白いと思います。
では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
うん、全然関係ないよね。でも素敵。 |
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