普段は日本語を喋り、日本人と見間違うような人が、寝言を中国語で喋っていました。
こういう話を聞くと、人間にとって母語の存在の大きさを感じます。
思考は言語によって規定されている、という考えは自分を省みてもおそらくは正しいでしょうが、となると使用する言語の特徴によって、思考の偏りが現れる、ということです。
一つの言語を使う民族がある程度似たような特徴を持つ、という考え方もこれで一応は説明できそうです(たとえば、ドイツ人は勤勉、日本人は努力家、イギリス人は料理が下手など――いや、最後のは違うか)。
これについては面白い話をミラン・クンデラがしているので、また次回に。
逆にいえば、意識して語彙を増やしたり、新しい語を使おうとすることは、そのまま思考の新しい領域を広げることにつながりそうです。
新しい言語を学ぶということは、アクセスできる情報や知識が飛躍的に増えるという外部への拡大のみならず、自分の内側に新しい国を作るような、そんな働きもあるのかもしれません。
さて、一番最初の寝言の話に戻って。
フランスやアメリカのように、多くの移民を受け入れている国の夜は、さぞかしいろいろな言語が飛び交っていることでしょう。
それを視覚化すると、映画『ブレードランナー』のようになるのかも知れませんね。
と、無理やりタイトルと絡めてまとめてみました。
え、全然まとまってない?
では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!
写真と文章の関連性?そうなにもかも上手くいくとは限らないのですよ。 |
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