2014年3月2日日曜日

映画 『さよなら、アドルフ』

ある瞬間まで彼女は、間違いなく加害者側の人間だった。自分でそうと知らなくとも、その特権を享受していた。

多くの日本人がそうであったように、また多くのドイツ人がそうであったように、あるいはまた別の民族がそうであったように、歴史の転換点において人は、自分たちのこれまで依拠してきた価値観が、暴力的に転覆される経験を味わう。自分たちの属する共同体が成してきた行為のツケを、見に覚えがなくとも(だが本当にそうだろうか?)、債務の履行を迫られる。

主人公ローレの父親はナチス親衛隊の高官。そのことが戦時中には、比べ物にならない豊かさをもたらし、戦後には憎しみを生んだ。「ナチス高官の娘」という、自分で選んだわけでないレッテルを貼られ、自らの意思と無関係な運命に晒される。

『さよなら、アドルフ』は全編を通じて重苦しい空気に覆われている。その空気が、見るものにもまとわりつき、しばらくのあいだ付きまとって離れない。まるで煙草の臭いのように。その空気の正体はなんだろう。人類が体から発散している悪の瘴気だろうか?

ローレと幼い妹弟たちとめぐる、祖母の家までの800kmの道のりには、多くの困難が待ち受ける。道中彼女たちに救いの手を差し伸べてくれるのが、青年トーマス、ユダヤ人だ。

ローレの感情・価値観は何度も揺さぶられる。人々の手のひら返し、ナチスが行っていた虐殺の告発、そしてユダヤ人もまた、自分たちと同じような感情や肉体を持つ、一人の人間に過ぎないこと…。これまでに経験したことよりもずっとたくさんのことをその旅を通じて彼女は学び、迷う。

映画を見終わった後、吐き気に襲われた。胃腸が弱いんだろう?たぶん、そうだ。ストレスを感じるといつも、身体の奥からなにかが込み上げてきて、息苦しくなり、もどしそうになる。

でもこれは、サルトルの『嘔気』の主人公、ロカンタンが感じるそれに、いくらか似ている。実存主義のバイブルとされたこの小説は、第二次大戦後、世界中の若者たちに熱狂的に読まれた(仏語出版は1938年)。人間の生そのものに対する問いかけは常に、我々の存在を危うくさせる。

煙草の臭いはいつかは消える。だが、ローレが「ナチス高官の娘」だったという事実は消えない。そして、トーマスが「ユダヤ人」であるということも。レッテルはいつでもどこでも、本人の意思とは裏腹に付きまとう。そしてそれを貼られた本人は、そのことを決して忘れない。たとえ、周りの人々が忘れてしまったとしても。シールをきれいに剥がすのは難しい。

Au revoir et à bientôt !

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