2014年2月27日木曜日

魚たちは群れを成して森を泳ぐ――『Soudain dans la forêt profonde』

イスラエルの作家、アモス・オズを知ったのは、大江健三郎の往復書簡、『暴力に逆らって書く』でだと思う。イスラエル人としての立場から、パレスチナ問題を解決すべく真摯に動く、政治的人間としてだった。

文学者としてのアモス・オズはその後すぐ、『ブラックボックス』や『地下室のパンサー』など、日本語で手に入るものをまとめて読んだ。まだ2000年代初頭の話だ。

時が経って、フランスにはじめて行った2009年、本屋で知っている作家(でも日本では手に入らない)を探していて、Amos Oz の名前に出会った。そこで購入した 『Soudain dans la forêt  profonde / とつぜん、森の奥で』 が今回紹介する作品だ。

寓話の体裁をとったこの作品の舞台は、世界の果てにある森の中の小さな村だ。この村ではある日を境に、すべての動物たちが姿を消した。馬も猫も、犬も鳥も、魚たちも。子どもたちは動物を見たことも、鳴き声を聞いたこともない。大人たちはみななにがあったか語ろうとせず、頑なに口を閉ざしていた。

例外が存在する。村の女教師、Emanuela は子どもたちに動物の姿や鳴き声を教える。子どもたちは彼女の熱意を嘲る。彼女に対する村人の反応は冷ややかだ。

一人の少年、Nimi が森に入ったとき、物語は始まる。数日後に戻ってきた彼は人間の言葉が喋れず、いななき声を発することしかできない。そんな彼を村人たちは、畏れ、嘲り、そして非人間的な存在として無視をする。

動物たちはなぜ突如として姿を消したのか。少年はなぜ人間の言葉が話せなくなったのか。そして森にはなにがあるのか。その秘密を明かすためMatti と Maya はある日、森に足を踏み入れる。

森の中で二人はNimi に、そして森の主 Nehi と出会う。そして彼こそが、動物たちを連れ去った張本人だと知る。動機は単純だ。動物たちのことをよく理解し、仲良くなった彼は、動物の言葉を理解した。結果、村人たちからのけ者扱いされた。辱められ、虐げられ、無視されたあげく、自分の境遇に我慢できなくなり、友人たちと村を去った。それ以来村には戻っていない。友人である動物たちも一緒だ。

この作品の背景にはいくつかの伝承や歴史が存在する。中世ヨーロッパで畏怖されてきた「森」の存在。社会の規範を犯したものは共同体からオオカミの皮を被せられ、追放される。彼らは森に入り、オオカミ男となる。

あるいはイスラエルとパレスチナのあいだで続く紛争。ある共同体が敵を指し示すやり方は今も昔も、そして場所が変わっても大きくは変わらない。ユダヤの民がかつてヨーロッパで味わってきた不当な扱いを、今イスラエルの地でアラブ人に対して行うことへの皮肉。

もちろんこれは局地的に通用する寓話ではない。われわれが生きる日常でも常に、同様の力学が働いている。作中で頻繁に登場する、humilier 辱める、 moquer 馬鹿にする、といった単語が読者に行き方を再考させる。

物語の最後、森から戻った Matti と Maya は話す。この物語を村の人たちに話そう。聞いてくれないかもしれない。馬鹿にされるかもしれない。それでも粘り強く語り続けること、過去の過ちを忘れないこと。それが人と動物とが共生するために大切なことなんだ、と。そして人と人とが共に生きるためにも、もちろん。

Au revoir et à bientôt !

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