2014年2月15日土曜日

言葉を越える――『延安』

「越境文学」なるジャンルが好きだ。

この語の定義を明確にしようとするとじゃあそもそも日本文学ってなによ、って話になってしまうので今は便宜上「自分の母語以外の言葉で語りながらも、母語を忘れないこと」を条件としておこう。

リービ英雄はその代表的な存在だ(もちろん日本国内外に他にもたくさん越境文学者は存在するが、今回は触れない)。アメリカで生まれ、多感な青年期に大江健三郎や安部公房を読んで過ごし、『星条旗の聞こえない部屋』で日本の文壇(古い!)にデビューし、現在も主に日本語で作品を発表し続けている作家だ。

『延安』は彼が北京オリンピックの少し前に現代中国を訪れた話だ。英語を母語とし、日本語で書く作家が、中国語主に話される大陸を旅する。彼は北京語はある程度マスターしているが、それでも延安で聞く言葉はまた別の方言だ。彼は通訳を連れ旅をするが、時に言葉は彼のなかで本来の意味を成さぬままに変容し、あるときはとどまり、またあるときは通り過ぎていく。

彼の本を読むたびに感じるのは、言葉への(無意識の)信頼と、その脆さだ。言葉を使うこと、聞くことにひどく意識的にならざるを得ないのだ。英語、日本語、北京語、延安地方方言とのあいだにそれぞれ存在するズレが、われわれが普段使っている言葉と事物のあいだにあるズレを露わにする。

たとえば「イヌ」と聞いた場合に、様々な処理が脳内で行われているのがわかる。イヌ→居ぬ?、イヌ→犬→イメージ化…。そこに母語への翻訳作業が加わる(→dog)が加わると更に困難となる。そしてもし、翻訳先が見つからなかったら?あるいはそもそも音が意味を形成しないとしたら?

普段なにげなく跳び越えている溝を、リービ英雄は日の光の下に曝け出し、見せつける。ときに人はそこに嵌まり、迷い、困惑する。そのときに気づくのだ、これまで言葉に寄せていた信頼はひどく根拠のないものではなかったか?と。

かくて人は言葉への信頼を失い、あげくは物それ自体への認識をも疑うことになる。世界は千々にくだけて、名付けようもないものに変わってしまう。

実際そうならずに済んでいるのは、ひとつに常識の鈍さがある。それが、ときに揺り動く言葉の大地を事物に繋ぎ止める錨の役目を果たしているのだ。

揺らぐ言葉の大地の上で、今日もぼくらは安穏と過ごす。越境文学者は大地の裂け目から深く海中に潜り、水底に沈んだ錨を揺さぶる。一見無謀で無益な試みにどう応えるか、それはいつもぼくら次第だ。

Au revoir et a bientot !
フランスとスペイン国境の町。名前は知らない

0 件のコメント:

コメントを投稿