2013年7月17日水曜日

紳士協定とドーピング 【前編】

クリス・フレームが順調だ。

記念すべき第100回ツール・ド・フランスの主役は間違いなくこの男。「白いケニア人」は第16ステージ終了時点で総合2位のモレッマとは4分14秒差、3位コンタドールとは4分25秒差。個人TTにも強いことを考えれば、すでにマイヨ・ジョーヌにチェック・メイトといったところ。順調すぎてつまらないくらいだ。

こうも圧倒的だと周囲も当然のごとく騒がしくなる。もはやロードレース界では消えることのない「ドーピング疑惑」だ。強い選手が出てくるたび、この話題が蒸し返される。シロだクロだと騒ぎ立て、肝心のレースはおざなりになってしまう。一般レベルにはドーピングの話題しか入ってこず、あげく過去の名選手までがクロとされ、人気は落ち込む一方だ。

先日は陸上100mの元世界選手権王者タイソン・ゲイと元世界記録保持者のアサファ・パウエル両選手が、ドーピング検査で陽性反応が出た、と報道された。日本でもスポーツニュースとしてでなく、時事問題として取り上げられていた。

ここでひとつ問題提起をさせてほしい。ドーピングのなにが悪いの?と。

この問いに答えるのは案外難しい。巷では「ドーピング=悪」の公式だけは流布しているが、それを突き詰める姿勢は皆無だ。マスメディアは「悪いものは悪い」のトートロジーで済ませようとする、この姿勢こそが最悪だ。「問題だ、問題だ」と騒ぎ立てるばかりで、なにが問題なのかについては決して触れない。
ここはひとつ自分なりにドーピングについて考えめぐらせることが必要だろう。

ドーピングを叩く言質には主に2つの傾向が存在する。一つは健康面、もう一つは倫理面。前者は簡単で誰にでもわかりやすい。「ドーピングは体に悪い」から禁止すべきだ、という論旨であり、タバコは体に悪いからやめるべき、というのと同じ類いだ。

一方、倫理的な側面はより複雑だ。倫理的である以上、そこに善悪の概念が付きまとうのだが、「ドーピング=悪」の公式がアプリオリなものとして仮定されており、「なぜドーピングが悪いのか?」という問いにそのまま、この公式が返されてしまう。少し掘り下げて善悪の基準を探ってみると、それが実に曖昧で恣意的なものであることい気づかされる。加えてそれは時代によって変化するものでもある(例えばロードレース界では昔、変速機の使用は禁じられていた)。

もう少しだけ掘り下げてみよう。ドーピングにまつわる言葉を探っていくと、しばしば「汚い」「汚れた」といった形容詞に出会う。そうなると反論として「身の潔白を証明する」を必要がでてくる。つまりレース上に「きれいな」選手と「汚い」選手が混じっていて、それが問題だ、ということだ。

なんとなく、いろんな競技の黎明期に頻出した「黒人と一緒にするのは嫌だ」という人種差別的言質に向かいそうだが、今回はそれには触れないでおく。しかし、おそらく根はその近くにある。

【後編】に続く
Au revoir et a bientot !
記事に関係のない画像でもとりあえず貼っておけという風潮。


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