さて、落ち武者から小さいオッサン、トリックスターを経て、こんな大仰なタイトルまでたどり着いたわけですが、ここまでの道筋をプレイバックと銘打って再創造してみると、
共有化されたイメージが笑いを引き起こす
↓
時代とともに共有されたイメージは変化する
ここまでが前々回の話で、
普遍化した「笑い」
↓
人々が笑わせる立場になる
↓
道化役者=トリックスターの消失
↓
中心・周縁という対立構造の崩壊
というとこまでが前回の話です。
「全然そんな話してない!」と思われる方は、前回、前々回に戻り、私の書いていない大部分を想像力で補っていただきたいです。
さて、ここから表題について書いていくのですが、ここでいう「弱さ」とは、そのまま弱点と言い換えてもいいですし、持病であったり、失敗でもいいでしょう。
ここで問題になるのが、この「弱さ」が決定的なもの、深刻な失敗や重病には当てはまらない、ということです。
神話上のトリックスターの生存条件として必須だった決定的な差異はタブーとされます。その差異は「笑い」にはならず、深刻な、「笑ってはいけない」ものとして、見ないふりをされ、排除されるべきものなのです。
反対に軽い、小さな「弱さ」が現代の、この名称で呼ぶことが不適切なトリックスターにとっては必要不可欠なのです。なぜならその微小さこそが、差異として認められる適切な大きさなのですから。
それが、病気の誇示であったり、失敗を他人に先んじて自分で笑うことであったり、不幸自慢であったりするのでしょう。これが許されるのはあくまで前提として、社会の均質化と差異の微小さがあるときに限ります。
現代の笑いは、社会の構造を変えるのではなく、自分と社会のあいだにある小さな歪みや軋轢を少なくする、潤滑剤としての役割のほうにシフトしているのでしょう。
「哄笑」から「微笑」へ、これが笑いの生存戦略なのかもしれません。
では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
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