2013年6月16日日曜日

『アサイラム・ピース』と地獄のイメージ

恥ずかしながら、アンナ・カヴァンの名前は初めて聞いた。

アンナ・カヴァン / Anna Kavan(1901-1968)。フランス生まれのイギリス作家。ここに「女性」とか「SF]とかの属性を付け加えても構わないが、それに大した意味はない。幼い頃から不安定な精神状態にあり、最初の結婚生活が破綻したころからヘロインを常用。1929年に最初の小説を発表後も何度も自殺未遂を繰り返す。1940年、初めてアンナ・カヴァン名義の作品『アサイラム・ピース』を発表。1967年には終末のヴィジョンに満ちた長編『氷』を発表。その翌年、自宅で死亡しているのが発見された。

今回手にしたのは国書刊行会から2013年1月に刊行された『アサイラム・ピース』。短編小説集の体裁をとった長編(より正確には中編)小説だ。

彼女の描く世界観を、解説・翻訳者は繰り返し「カフカ的」と形容するが、およそこの語ほど相応しくないものはない。

表題作を見てみよう。一見短編小説集の形をとったこの作品の中ごろから終りにかけて(p115-186)、約70pに渡る、作中で質量ともに最も重要な一編だ。

描かれた舞台は、イギリスのどこか(対岸には自由の国、フランスが見える)にあるサナトリウム。そこに収容された人間の多くは、自らの遺志に反して入れられている。

彼らの抱く不安や焦燥、絶望がひとりひとりに焦点を当てて丹念に、と言っていいのか繰り返し絵が描かれる。なぜ自分はここにいなければならないのか。この問いは、「なぜ自分は(ここで)生きているのか」という、人間存在の根源を問う設問と通底する。

だが、カヴァンの世界は良くも悪くもその道を行かない。彼女が書くのはあくまで、見捨てられた境遇にある人々だけだ。彼らの感情の揺らぎや起伏、それだけを執拗に描く。そうすることで、自分が幼少期から捕らわれていた不安を取り除こうとする、いや他の人に押しつけようとするかのように。

これは近しい人から見捨てられた人々の物語であり、それ以上でもそれ以下でもない。そうした意味において、彼女の作品は「カフカ的」ではないし、同様にサナトリウムを舞台にしたトーマス・マンの傑作『魔の山』とも境遇を異にする。彼女の願いはただ一つ、近しい人々から(再び)受容されること、それだけなのだ。

すがるように手を伸ばしながら、掴むことのできるはずの慰めすら求めない。それが自らが創出した幻想にすぎないからなのか。伸ばした手の空虚な所作を自ら嘲るように、カヴァンは物語の最後、夫に再度見捨てられた少女に向かって、看護師がこう言うのを許す「ばかなおちびさん!…今日は松籟館(*)よ」。

われわれはみな例外なく、無関心と嗜虐性からなる看守の才能を持ち合わせているのだ、嫌になっても逃れられないほどに。

Au revoir et à bientôt !
  
(*)作中で最も症状の重い者、最大限の監視が必要とされる者が収容される場所

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