『ドン・リゴベルトの手帖 p.318』
人間の記憶なんてものは実に曖昧なものだ。クンデラのものだと確信していた文章に、リョサの小説内で出会う。前々回にも言ったように、今読み終えた本の内容すら、要約するのは容易じゃない。
つい先日、マリオ・バルガス=リョサの『ドン・リゴベルトの手帖』を読み終えたのだが、すでに内容の大半を忘れてしまっている。
それにしてもなんとまぁ、大仰な作品だろう。明らかに前作『継母礼讃』のほうが、小説としての完成度も物語性も高い。正直何度か途中で投げ出そうと思った。
物語は前作、息子フォンチートの(悪意のない)戯れによって、別居生活を余儀なくされたリゴベルトとルクレシア。二人がいかにしてヨリを戻すのか、それが物語の大枠だ。
それだけでは文庫400p 近くにもわたって書き続けられるはずがない。その間隙を埋めているのが、エゴン・シーレの素描を中心とした絵画のイメージだ。
リゴベルトが空想する、絵画のイメージの実現。それは絵画の登場人物のポーズを模倣することによって現実化する。読者は、彼の、そして息子フォンチートの奔放でエロティックな幻想を、心ゆくまで堪能すれば良い。だが正直にいって、このイメージ自体前作のほうが優れている、と言わざるを得ないのだけれど。
知的な大人だけがなし得る性的遊戯がここにある。これぞエロスだ。プレイボーイ誌の固定したイメージにはマネできないエロ。
エロスとはつまるところ、想像力の飛翔だ。女性の裸体に勃起する性器に災いあれ。人間を動物と分かつものは極限すればこのイメージの力に限られる。
固定化したイメージ、シチュエーションを楽しむのも時にはいい。もっともそれは、高級料亭の味を知った者が食べる、280円の牛丼であり、頽廃的な趣味だ。たまにはいいね、でも食えたもんじゃないね――エロ本やAVなんてみんな同じだ、とリョサは言う。
そうだ、空想にもっと自由を。飛翔せよ、我が幾千万の精子たち。時は来たれり。
Au revoir et à bientôt !
『継母礼讃』とアフォガート。至高の組み合わせだ… |
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