2012年9月12日水曜日

『ロリータ』とその表題

おはようございます。

大江健三郎をして、「自分にはあの言語感覚には決してたどり着けない」と言わしめたウラジーミル・ナボコフの代表作。

実は今回が初めての『ロリータ』で、それを若島正訳で読めるとはなんたる幸せ、と思いつつ、今はまだ物語の途中、内容や感想を語るのは別の機会として、今回はそのタイトルについて。

「ロリータ」とはいわばひとつの愛称で、本名はまた別にある。いわばそれは、山田太郎と「ドカベン」の愛称との関係に正確に一致する。

この、「名前、もしくは愛称をタイトルにする」のは西洋文学においては古来から見られる傾向である半面、日本文学においては非常に珍しい。

西洋文学においてすぐに思い出すだけでも、『アンナ・カレーニナ』、『ガルガンチュワとパンダグリュエル』、『プヴァールとペキュシェ』、『ボヴァリー夫人』、などなど。
その一方で日本文学でぱっと思い浮かぶものは、堀辰雄の『菜穂子』くらい。それすらも読んだことがない。

どこからこの違いが生まれるかを論じるよりも、ここでは、タイトル=登場人物の名前な小説の利点を語る方を取る。

ある種のミステリアスな雰囲気、が未読の読者には提供されるだろう。その名前がそもそもなにを指しているのか、それすらもわからないこともある。『ガルガンチュワ』ってなんだよ!?地名か?それとも武器か?なんてまるで見当違いの想像をして楽しむことができる。とりわけ、日本語訳されて、カタカナ変換したタイトルは魅力的だ。原題では明らかに含まれている意味がそぎ落とされ、その空いた空間での妄想が許される。ほとんど意味を失った言語としてのカタカナ、それは実に創造的なツールだ。

既読者にとってそのタイトルは作者の明白な意志表示だ。「俺はこんな破天荒な人物像を創造してやったぜ」という気概。一方で、そのタイトルの人物を取り巻く人々にこそ、真の創造性が表れていることもよくある。ナボコフのこの作品もそうした系譜だろう。もちろんナボコフのこと、すべてが意図的に配置されているのは確かなことだ。

そのナボコフでさえ、自分の付けたタイトルがそのまま変容して、幼児愛を意味する「ロリコン=ロリータ・コンプレックス」になるとまでは想像していなかったかもしれない。それは程度は違えど日本のマスコミが、太り気味のキャッチャーに「~のドカベン」と名付けたり、小柄な女性柔道選手を「柔ちゃん」と呼んだりするのと同じ論理だ。

もっとも同作中で散々フロイトをからかっているナボコフのことだ、心理学者がそうした名称をつけることすら、想定内だったかもしれない。そうした人間の心情もまた、ナボコフによって分類され、名付けられるのだろう。そう、彼の愛した蝶のように。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!
ナボコフに似合うもの。ポップさ

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