2013年12月19日木曜日

書物たちの幸福な出会い

たまに自分が、人生を彩る様々な偶然の要素を、本と出会いにすべて費やしてしまっているのではないか、と疑うことがある。

先月は、カナダへ移民したスコットランド系移民への関心と、昨今の世界経済への興味とが、阿部謹也のヨーロッパ中世を語る書物内で、カール・ポランニーという名前になって交錯した。

また別の機会には、旅先のパリで見たエドワード・ホッパー回顧展のポスターに用いられていた『ナイト・ホークス』が、帰国後も私の中にとどまり続け、そこから派生した興味が、やがてリチャード・イエーツの本に結実し、この半年私の読書の中心にあったりもした(今回は彼について書こうと思っていたのだけれど、長くなりそうなので次回に)。

こんな風に、本がまた別の本を呼ぶのはよくある話で、ちょうど2ヶ月ほど前に、同じようなことを書いた文章に出くわした。

ちくま学芸文庫から出ている『山口昌男コレクション』。その第四部に「エイゼンシュタインの知的小宇宙」と題された文章がある。山口昌男が引用した文章を少し孫引きしてみよう。

ある聖人たちのところへは鳥が飛び集まってくる。(アッシジへ)
ある伝説的な人物たちのところへは獣らが走り寄ってくる。(オルペウス)
ヴェニスのサン・マルコ広場でゃ、老人たちのところに鳩がつきまとってくる。
アンドロクレスにはーーライオンが寄ってきた。
わたしには書物が押しかけてくる。
書物はわたしのところへ飛び集まり、走り寄り、つきまとうのだ。(同書p.544-545)

エイゼンシュタインの言葉を引用した後に、山口昌男は自分でもこう書き加える、「どうしてああタイミングよく、いろいろな本が見つかるのですか」との質問に対し、「書物が向こうからやってくる」という感じがすると。

自分のことをエイゼンシュタインや山口昌男のような知的巨人と較べるわけではないが、おそらく私を含め、多くの書物狂が同じような感慨を抱いていることだろう。あるいはこんな文章、

わたしは、書物をたいへん大事にしたので、ついには彼らのほうもお返しにわたしを愛するようになった。
書物は熟しきった果実のようにわたしの手のなかではじけ、あるいは、魔法の花のように花びらをひろげて行く。そして創造力をあたえる思想をもたらし、言葉をあたえ、引用を供給し、物事を実証してくれる。(同書p.546-547)

確かなのは本好きと本とのあいだには自然界の共生と同じような関係が成り立っていて、私という媒体を通じて、出会うべき二つの書物が時と場所を越えて出会うことあれば、運命の出会いに喜ぶ本たちの放射する幸福の電流が、私たち書物狂の口角を反射的に吊り上げさせることもある、ということだ。

Au revoir et à bientôt !

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