2013年12月20日金曜日

ぼくらは中世を生きている

いやー、早いもので今年も一年終わりですね。ついこの間1月だったのが、気がつけば3ヶ月、半年が経ち、今はもう12月も20日…なんてクソみたいな定型文を書き散らしてる場合じゃないよね。

あけましておめでとうございますから始まった一年が、よいお年をで終わり、そのあいだを様々な定型文が埋めていく。人生ってそんなもの?って疑問を抱きながらも、解決せぬままいたずらに年老いていく。おいおい、もう30だぜって、半笑いでごまかしているあいだに人は死ぬ。

要は阿部謹也を読まないで生きてるってやばいよね、ってことだ。たとえるならそれは、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読まないで青春を過ごすのと同じようなもんだよね。つまり青春の大事な一部分を知覚せぬままに過ぎてしまうことだ。

ごめん、私もついこのあいだまで名前と中世の専門家ってことしか知らなかった。その経歴なんかは Wiki や本の末尾にある略歴なんかを読んでもらうとして、いやいやそれが人生と何の関係があるんだって質問に答えるなら、大アリでしょ。氏の文章を読めば、われわれがなんの疑問もなく従ってきた生活習慣が、決して自明のものではないと気づかされるから。

たとえば次のような一文、

私たちには一年単位で物事を測る習慣があります。年末には支払いをすませ、忘年会を開き、気分を一新して新しい年を迎えます。ところがこのような時間の測り方はヨーロッパにはないのです。…一年をくぎりとして物事を処理する考え方も中世初期まではありましたが、中世以後はなくなってしまったのです。新しい年を迎えるにあたっての心構えとか、禁煙の決心なども特にみられないのです。【甦える中世ヨーロッパ p.16より引用】

マジでか。これは大変なことだと思うよ。もしここに書かれていることが事実とすれば、西欧人とわれわれ日本人の時間の概念はまったく異なることになる。1年という区切りは存在せず、新年の目標を立てることもない。それが当たり前って、やばくない?

円環的時間と直線的時間。この感じ方の相違を突き詰める途中には、19世紀以降西欧文学で好んで扱われた「分身=ドッペルゲンガー」のテーマがあるのではなかろうか。まあ、これは別の機会で。

自分が属する共同体の習慣や規律を客観化し、絶対的なものから相対的なものの相へ移行させること。そのための比較対象として、氏は時間も場所も異なる中世ヨーロッパを選んだ。さて、もうすぐ2014年、ぼくらはなにを目印にして、自分の暮らしを見つめなおそうか?

Au revoir et a bientot !

参考文献:『甦える中世ヨーロッパ』 / 阿部謹也 著
氏の本は他にもいろいろあるが、これが一番面白く、読みやすくなおかつ氏の業績を広範に捉えている。特に中世ヨーロッパを専門に学ぶのでなければ、この一冊を読めばいいのではなかろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿