2013年2月10日日曜日

Mariage pour tous

君の家(部屋)の隣に男が一人引っ越してくる。彼は礼儀正しく、快活な青年で、君は一目で彼のことが気にいる。人当たりもいいが、近所付き合いを良くわきまえており、必要以上に干渉してくることはない。君たちの近所関係は極めて良好だ。

ある日、青年の家にもう一人別の男がやってくる。無愛想で挨拶もまともに交わさないこの男は、一日だけの短期滞在者かと思いきや、それからずっと隣の家に住みつく。男が君に危害を与えることはないが、家の前ですれ違っても、挨拶はおろか会釈すら交わさない。どうやら仕事もしていないようだ。ときおり隣からは怒声のような声が聞こえるようになる。君は青年に警告する、「あんな男と付き合うのはやめたほうがいい」。青年は苦笑する。

隣人の居候の存在にも慣れたころに、二人が揃って君のところにやってくる。青年は改めて居候のことを紹介する、「僕の婚約者です」と。


これが Mariage pour tous / すべての人に婚姻を の概要だ。

フランスでは昨日、火曜日から始められた110時間に及ぶ議論の結果、同性同士の結婚を認める法律を採択した。今後様々な困難が予想されるが、一度進めた針が元に戻るようなことはないだろう。

もちろん反対もある。パリでは連日、賛成派、反対派それぞれのデモが何万人の単位で繰り広げられている。デモの行列に子供が混じって、大人たちと同じように旗を振る光景には違和感がある。

だが大事なことは議論することだ。現在、アメリカ、イギリスでも同様の議論は喧しい。多くの国では同性婚を認める方向で議論されているようであるが、ソドムとゴモラを悪徳栄える都市とする宗教が大勢を占める国々のことだ、どうなっていくかはわからない。

かたや日本では、同性愛の存在は無視されている。多くの人にとって同性愛者はテレビで見る「オカマ」に分類され、半ば公然と嘲笑の対象とされているようにみえる。それは決して自分に身近な話題、議論に値することだと考えられていない。もし隣人が同性愛者だったら、という仮定は、荒唐無稽なものとして受け取られる。

そうじゃないだろう。これは消費税が上がる、というのと同じくらい身近な問題だ。政治家が議論しないのなら、市井の人で話し合おう。日本で同性婚が議論されないのは、同性愛者が少ない、いないからではなく、「臭いものに蓋」の国民性で、見ないふりをしているだけだから。

「父親(母親)しかいないのは、子供の成長にとってよくない」なんて、ただのキレイごとだ。――本当は自分が尻の穴を掘られるのを恐れているだけなんだろう?父親しか、母親しかいないながらも立派に育った子供はたくさんおり、それ以上に父母がいながらダメ人間になった子供の数は多い。上手くいっている夫婦もあれば、上手くいかない夫夫もあり、教育熱心な婦婦もあれば、そうでない夫婦もあり。逆もまたしかりだ。


君の家の隣に、男が一人引っ越してくる。彼は好青年で、同性愛者だ。君たちは上手くやっているが、ある日やってきた彼の婚約者はならず者だ。二人が君の家を訪れ、同性愛関係を告げる時、君が浮かべるのは事実を否定する苦笑いだろうか?あるいはすべてを受け入れたうえで、あえてこう忠告するだろうか、「もっといい男を探しなさい」と。

Au revoir et à bientôt !
Deux femmes s'embrassent lors d'une manifestation en faveur du mariage pour tous, à Paris le 27 janvier 2013 Kenzo Tribouillard afp.com
 
参照サイト:「Mariage pour tous」で検索すればフランスの様々なサイトがヒットする。今回はいつものように 20minutes.fr の記事 を主に参照させていただいた。

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