2013年2月1日金曜日

自由をドングリと引き換えにして

妻が家を買う気になっている。

確かにそろそろ家を買うのもいいかな、なんて話をした。ネットでいろいろ調べて、あれがいい、これがいいとか言いはした。でもあくまで購入は2,3年後の話であって、今はそのために必要な資金を貯めるのが先決だと思っていた。

――どうやら、私の思い過ごしだったようだ。今やすっかり今年中、いや3ヶ月以内に購入しようという勢いになっており、先日はついに物件を見に行きさえした。この案件はもはや私の手から離れてしまった。もうどうしようもない。私はただ唖然として、成り行きを見守るだけだ。

もっとも個人的には、風雨をしのぐ壁と天井があって、本を収納するだけの十分なスペースがあれば、それ以上はなにも言うつもりはない。投げやりなのではない、精神の自由を保持し続けているだけだ。

人間の居住への執着心には驚くべきものがある。これが古来からのものなのか、といえば居住に関してはそうかもしれないが、定住に関してならNon だ。

『古代文明と気候大変動』の著者、ブライアン・フェイガンによると、人間の生活スタイルは気候に大きく左右されているという。これまで幾度となく大小寒暖様々な気候の波が地球上に押し寄せ、そのたびに人類はその生活形態を改めてきた。

人類が本格的に定住生活を始めたのは前13000年以降、2000年に渡って降雨量が飛躍的に増加した結果である。急速な温暖化に伴い大型動物の多くがこの期間に絶滅した(マンモスなどはその最たる例だ)。代わりに、ドングリやピスタチオといった食用可能な実をつける樹木が勢力を拡大し、人類は安定した食料となるそれらを求めて、森林の近くに居を構えた。

安定した食糧源を得る代償として、人々はそれまで最大の長所だった能力、すなわち環境に合わせて移動する柔軟性や社会の流動性を失った。ドングリを食用とするには、膨大な時間を加工作業に割かねばならなかったのだ。人間はドングリと引き換えに自由を失ったのである。

先日日本の東京で、4000年前の縄文時代の人骨が発見されたとニュースで報じられた。そのニュースの報道の仕方が、あまりに現代東京史上主義であったのには思わず笑った。「およそ4000年前の東京人。縄文時代の骨が見つかったのは都会のど真ん中…」と言ってのけるには、よほどの厚顔さが必要だろう。4000年の昔から、そこには高層ビルが建ち並んでいたようだ。
(引用:テレ朝NEWS 4000年前の生活は?新宿区で縄文時代の人骨発見

ここには今に腰を据えて安住する傲慢さがあるだろう。40万~25万年前まで遡るホモ・サピエンスの進化史や、約7万年前から住んでいたと考えられる日本列島民の存在はここでは考慮されておらず、最大限遡行しても江戸時代からのたかだか400年の歴史を中心に据えた、狭隘な視界しかない。

誰だって生まれる時代や場所を選ぶことはできない。だが大人になれば、どこに視座を置くかは自由だ。その位置すら固定してしまったら、それこそ人間に残された最後の長所すら、自ら放棄することになる。ホモ・サピエンスが最後まで持ち続けてきた心の自由すらも、精神的保守主義と交換してしまうのか?それは、ドングリと交換された移動の自由よりなお悪いだろう。

移動の自由は失ったとしても、考える自由までは手放さない。今に腰を据えて安住せず、どこまでも歩いて見て回る。そうすれば気候の変化も狩の獲物も、ドングリだって見つかるだろう。そんな風に自分の足で頭で考えて見て回る、それが大人になるということだ。

Au revoir et a bientot !
エズの街並み。人類はこんなところにも住むんです
参考文献:『古代文明と気候大変動』ブライアン・フェイガン著 河出文庫 2011年第7版

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