2012年8月12日日曜日

友情――沈黙の誓約

おはようございます。

前回の続きを書こうと思って、クンデラの原典を探して我が家の本棚を漁っていたのですが、見つからず。あきらめたままに二週間近くが過ぎてしまいました。

どうやらエッセイ集『裏切られた遺言』に入っている気配なのですが、不幸にして我が家に見当たらず、正確な引用ができません。

そんなわけなので今回は仕方なく、私が覚えている限りでクンデラにとって「友情とはなにか」を話したいと思います。もちろん私の記憶に基づいているので、原典に忠実ではありません。正確な内容を知りたい方は是非、『裏切られた遺言』を手にとってみてください。

ある有名な女優と恋仲の噂があった男が死ぬ。人々は大挙してその男のただ一人の友人の下に押し寄せ、こう問いただす、「実際のところ、どうだったんだい?」と。
友人は返答を避ける。イエスとも、ノーとも言わない。ただ沈黙で答えるだけ。

友人の沈黙は、真実(というにはあまりに卑俗だが)を知りたがる人々の不興を買う。「もう彼は亡くなったのだから、言ってくれてもいいだろう」。人がなんと言おうが、友人の沈黙を破ることはできない。秘密は妻に対しても守られ、妻は夫の態度に憤慨し、夫婦の仲は険悪になる。

はたして友人は亡くなった男の秘密を知っていたのだろうか。それはここでは問題ではない、とクンデラはいう。大切なことは、友人が亡くなった男の知られるべきでない秘密を、その死後にいたるまで守り通したことだ。

この話を聞くまで友人とは、なんでも気兼ねなく話すことのできる人間のことだと思っていた、とクンデラはいう。しかしこの話を聞いてから、(あるいは共産主義下のチェコを生きてから)、他の人に対する沈黙の壁となってくれる人物こそ、なにより貴重な友人ではないかと思うようになったという。

友情とは、いわば死後にも続く沈黙の誓約なのだ、そのような考えは、友情というこの人の生において希少な光を放つ存在に、新たな角度から光を当てて、別の光輝を発見させる美しさではないでしょうか。

では、また。
Au revoir, à la prochaine fois!


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