2012年2月13日月曜日

二項対立から遠く離れて

おはようございます。

いつもどんなふうに本題に入ろうかと困っているのですが、今日はこのまま。

ここで二項対立と呼んでいるのは、物事を二元論的に考えること、つまり白か黒か、善か悪か、良いか悪いか、ばっさり分断してしまって、あいだの中間地点、グレーゾーンが存在しないような考え方のことです。

こんな話題を取り上げたのも、最近私の周りでこの傾向が顕著に見られるなぁと思うからでして。
ひとつには自分の思想、考え方以外はすべて悪だと捉える見方。もうひとつは「病気だから」と人をくくってしまうやり方。

前者に関してはよくある話だと思います。「酒の場では政治と宗教と野球の話はするな」と言われるのは、なるほど、それらが妥協点の見出しがたい――殊に酒の場においては――話題だからでしょう。

もう一点、ある人を「病気だから」と片づけてしまう。こちらが今回の本題です。

まぁ一言でいってしまうと、私はこのような考え方が嫌いでして。というのは、同じ職場で働いていた人が精神障害を持っている人だったのですが、その人が多少奇妙な行動、社会的に受け入れられない行動をとると、「あの人は病気だから」で片づけられてしまう、そのことに違和感を覚えるわけです。

それがその人を助けるのであれば、そのような考え方も受け入れられるのですが、むしろその人を排斥するような働きになっている。ポジティブな「病気だから」とネガティブなそれがあるわけですね。「病気だからしょうがない」と多少の無理を許すのか、「病気だから(言っても)しょうがない」と諦めてしまうのか。

そもそも「病気」の境界線がそんなにも画然としたものではないことは、臨床心理学者の中井久夫さんも言っておられます。現在介護を生業としている私は、常日頃から認知症の方を見てきていますが、これも脳の器質にれっきとした障害があるのですが、だからといって障害がない人と明確な区別がつくか、と言われたらそうではない。
より正確に言えば、「なんかしら障害のない人などいない」ということです。

目が悪い人がいれば鼻が悪い人もおり、手足が悪い人もストレスに人より弱い人もいて、そんな中で「どこも悪くない」というのは、それもまた病気の一種と捉えられるでしょう。

「寛容さ」それこそが二十一世紀に生きる我々に必要な要素ではないでしょうか。まぁ、言うは易し、行うは難し、なんですがね。

では、また。
Au revoir, a la prochaine fois!

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